毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
三蔵創業の巻 第三章 観音院の夕暮 |
第三章 観音院の夕暮 三 消えた袈裟 「やあ、あれは観音院の火事らしいぞ」 と遠くで叫んだものがある。 観音院を南へ下ること二十里、 黒風山の山中にある黒風洞に住んでいる妖精であった。 妖精ほ窓のそとが明るくなったので、 夜が明けたのかと思って起きあがったが、 よく見ると観音院のあたりから火の手があがっている。 それもちょっとやそっとの火事ではないらしい。 「こいつは面白いぞ」 火事ときいただけで駐け出して行くのは 何も江戸ッ子だけではない。 妖精は雲に乗ると、たちまち火事場へ向って走り出した。 雲の上から見おろすと、本殿はすでに焼けおちて、 火は両方の廊下に燃え移っている。 ただ後方の一棟だけは火の気がなくて、 仔細に眺めると、家を背に一人の男が 盛んに風を吹きつけているところであった。 妖精は雲をおりて裏口から後房の小へ入って行った。 と、部屋の中でポーッと光りを放っているものがある。 近づいて風呂敷をほどくと、 中から世にも珍しい錦襴袈裟が出てきた。 「しめしめ、うまいものが手に入ったぞ」 袈裟を鷲づかみにすると、 妖精は騒ぎのしずまらないうちに、 そっと火事場を脱け出して黒風洞へ逃げてかえった。 火事は夜明けになってからようやくしずまった。 悟空は辟火罩児を手にとると、 再び斗雲に乗って南天門へかえしに行った。 「どうも有難う。おかげで大いに助かったよ」 「君は案外、正直な男なんだな」 と広目天王は笑いながら、 「俺はまた、行ったきり雀で、 もうかえしに来ないんじゃないかと思っていたよ」 「俺をあの泥棒寺の住職と混同する奴があるか。 借りたものを返さなけりゃ、 二度とお前んとこへ来られなくなるじゃないか」 「まあまあ、そぅむきになるな。 久しぶりだから、その辺にお茶でも飲みに行かないか?」 広目天王が誘ったが、悟空は首をふって、 「むかしと違ってな、勤めを持つ身の悲しさ。 コーヒーを飲んで時間を潰すなんてことは もう出来ないんだよ」 広目天王に別れを告げると、 悟空は大急ぎで師匠のところへ舞い戻ってきた。 「お師匠さま、お師匠さま。もう夜が明けましたよ」 三蔵は寝返りを打って、 「やあ、ほんとうだ」 と言いながら起きあがったが、 あたりを見まわしてびっくりした。 そこには禅院の影も形もなかったからである。 「こりゃどうしたんだ?」 「あなたが夢を見ていた間に大火事が起ったのですよ」 「そんなことがあるものか?」 「そんなことがあるものかって、そとをごらん下さい。 あの連中が私たちを焼き殺そうと思って 火を放ったのです。 お師匠さまのおっしゃる通りでした」 「私の袈裟を欲しがって、自分で放火したというのかね?」 「そうです。 もし私の気がつくのが遅かったら、 お師匠さまは今頃、 きっと仏さまになっていたでしょうね」 「どうもお前のいうことは どこまで信用してよいかわからん」 疑い深そうな目つきで三蔵は、 「まさかお前が火遊びをしたんじゃなかろうな」 「ご冗談をおっしゃっちゃ困りますよ。 我が方は何しろボスが平和主義者で、 世論がなかなかまとまらないときています。 それを統一するためにはギリギリの瀬戸際まで 追いつめられなければ、 戦争をやることも出来んじゃありませんか。 攻撃こそ最大の防御なのに、 横ッ面を一つ張られてから立ちあがれ、 しかも防御一点張りで行け、では苦労しますよ。 少しは私の身にもなって下さい」 「私を助けることが出来たのなら、 寺を火から救うことも出来ただろうにな」 「ハハハハ……」 と悟空は笑った。 「悪党は滅びるがいいんです。 だからよく燃えるように少しばかり 風をかしてやりましたよ」 「お前も相手に劣らぬ悪党だ」 三蔵はきめつけた。 「もし私の袈裟が焼けてしまっていたら、 ただではすまないよ」 「なあに。うしろの方は焼けていないから大丈夫です」 三蔵は馬を牽き、悟空は荷物を背負うと、焼跡を出て、 後房の方へ向って歩きはじめた。 二人が昨日と同じ姿で現われたのを見た坊主たちは、 「わあッ、幽霊だ」 「幽霊が命をとりに来たぞ」 と青くなってさわぎ出した。 「さあさあ、早く袈裟をかえせ」 悟空がスゴんで見せると、坊主たちはその場に膝をついて、 「どうか生命だけはお助けを。 あれは私たちがやったのではなくて、 住職と広謀和尚の陰謀でございます」 「誰が生命の話をしとる。 早く袈裟をかえせと言っているのだ」 坊主の中には大胆な者がいて、 「一体、あなたたちは幽霊なのですか、 それとも人間なのですか」 「何を言っているのだ。アッハハハ……」 と悟空は笑いころげながら、 「われわれはあんな程度の火で焼けてしまうような チャチな身体は持っておらん。 見ろ、この通りピンピンしているぞ」 坊主たちは一せいにその場にひれ伏して、 「私どもは人を見る目がなくて、まことに失礼申しました。 袈裟は奥の住職のところにおいてある筈でございます」 三蔵は崩れ落ちた僧房の壁を見ていると、 今さらのように人間の慾のおそろしさが身に追って、 思わず溜息が出てしまった。 坊主たちは先を争って奥へかけ込み、 「住職さま。 唐僧が袈裟をかえしていただきたいと言っています」 「何? 唐僧はまだ生きている?」 「唐僧もあの家来も馬も皆無事でございます。 あれはただの人間ではありません。 きっと天から遣わされてきた使者でございます」 袈裟は見当らず、寺は焼け落ちてしまい、 すっかりのぼせあがっていた老住職は、 この一言をきくと、すでに万策尽きたことを悟った。 彼はよろめきながら立ちあがると、 三蔵たちがまだ踏み込まないうちに 壁に力一杯頭をぶっつけて、 哀れ二百七十年の退屈な生涯をとじたのである。 「さあ、困った、困った。住職は自殺をするし、 袈裟はどこに行ったかわからないし」 坊主たちはオロオロして、泣くやら喚くやら。 「お前たちがどこかにかくしたに違いない。 皆、出て来て一列に並べ。 これから一人一人身体検査をする」 和尚から小僧から寺番まで 大小二百三十人をズラリと並ばせて、 悟空は一人一人素っ裸にして厳重な検査をしたが、 火事場泥棒に持って行かれた袈裟の出て来よう筈もない。 更に荷物という荷物を全部運び出させて調べたが、 これも無駄であった。 「もとを言えば皆、 お前が私のいうことをきかなかったからだ」 三蔵法師は次第に腹が立って来て、その場に坐り込むと、 例の緊箍児呪を唱えはじめた。 すると、猿は頭を抱えて七転八倒をはじめ、 「やめてくれ、やめてくれ、 袈裟は必ず探し出して来ますから」 びっくりした坊主たちがなだめにかかったので、 ようやく三蔵は呪文をやめた。 すると悟空はたちまちとびあがって、 耳の中から如意棒をとり出すと、 「やい、泥棒坊主め。袈裟を出すか出さねえか。 出さねえと皆殺しにしてやるぞ」 「こらッ」 と三蔵はあわてて悟空を怒鳴りつけた。 「無礼な真似をすると、もう一度痛い目に会わせてやるぞ」 悟空は如意棒を片手に握ったまま、 老住職の死骸のあるところまで駐けて行って、 服を剥いだりひっくりかえしたりしたが、 ここにもやっばりなかった。 さすがの悟空も、 「ウーム」 と言って地面に坐ったまま考え込んでしまったのである。 |
2000-10-20-FRI
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