毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
三蔵創業の巻
第四章 八戒登場す

四 女のいる部屋

さて、自ら暗い部屋の中へとじこもった悟空は揺身一変、
忽ち翠蘭そっくりの女に化けた。

部屋の中は何となく陰気臭いが、
さすがに寝台の中は布団も枕も上等で、
その中にもぐり込んでいると、妙な気持になってくる。
こりゃ人間、男と生まれて俺のように
力だ腕だと言っている奴は案外大馬鹿野郎かも知れないぞ。
ましてや俺の師匠のように若い身空で仏よ理想よ平和よと
念仏を唱えているのでは浮ぶ瀬がないというものだ。

しかし、甘っちょろい空想にひたっている時間は
そう長くはなかった。
やがて生ぐさい風と共に砂や石ころの乱れとぷ音がし、
ついで化け物が扉をひらく音がしたからである。
「翠蘭。帰って来たよ」

声がして威勢よく入ってきたのを見ると、
ききしにまさる醜悪な容貌である。
「醜男ほど美女にありつけるというが、なるほどなあ」
と寝台の中で悟空は手放しで感心している。
そんなこととは知らない化け物は
寝室の中へとび込んでくると、
真直ぐ寝台のそばへ近づいてきた。
「お前、どうして俺を迎えに出て来ないのだ?」
「私、淋しいのよ。淋しくて死んでしまいそうなの」
と悟空の美女は答えた。
「そうだろう。
 俺もそう思って早く帰って来ようと思ったんだが、
 このところ忙しくてなかなか手が離せないものだからね」
「あなたが帰って来られないなら、
 誰かほかの男でもいいから、一緒において下さらない? 
 でないと、私、首をくくって死んでしまうわ」
「今夜はお前、本当にどうかしているな」
と化け物はいった。
「この俺という男がいるのに、
 ほかの男のことを考えるなんてひどいじゃないか」
「それなら早く帰って来てよ」

甘ったるい女の声をきくと、化け物は
心もとろけんばかりの恰好で長い口を突き出してきた。
その長い口の先を悟空は一ひねりひねった。
「アイタタタ……」
と化け物はもんどりうって寝台の下へ転げおちた。
「お前、怒っているのか。
 でも怒っている時の女って可愛らしいものだな」
「何をいっているのよ。
 ね、早く裸になってここへおいでよ」

化け物が着ていた青い木綿の百姓服を脱いで
寝台へ入って来ると、代りに悟空は寝台から脱け出して、
さもがっかりしたように大きな溜息をつきながら、
「こんな男と一緒になるなんてね」
といった。
「そんなことをいわないで、お前も服を脱ぎなよ。
 さあ、ここへ来て一緒にねよう」
「いやいや、あなたのような男はいや」
「何もそんなにゴネることはないじゃないか。
 そりゃ俺は大食いかも知れないが、
 ただ飯を食っているわけじゃないだろう。
 せっせと田圃を耕したり種を蒔いたり、
 この通りお前が絹をきたりお化粧をしたり出来るのも、
 もとをいえば、この俺のおかげじゃないか」
「でも父は怒っているわ。
 あなたが婿なら婿らしく振舞わないから」
「お前のオヤジの方が間違っているよ。
 俺が婿養子に来た時は、
 下にもおかないようなもてなしをしてくれたのに、
 俺の容貌が変ったら、
 とたんに玄関払いをくらわそうとするんだもの。
 大体、婿のツラにまで干渉するなんて
 お前のオヤジはどうかしているよ」
「父はそんなことよりも、
 あなたが戸籍もはっきりしないのが不満なのよ」
「何かというと、
 すぐ戸籍調べをしたがるのは悪い習慣だよ。
 戸籍よりも人間本位で行くのが本当ではないか?」
「そりゃそうね。
 でも何年も一緒にいてどこの誰かもわからないんでは
 やっばり心細いわ。
 あなた、本当に家なし名なしなの?」
「そんなことはないさ。福陵山雲桟洞の猪剛鬣といえば、
 山の者なら虫けらでも知っている」

化け物にしては何という正直者だろうかと悟空は思った。
「でも父は道土を連れて来て
 あなたをつかまえるといっているわ。
 あなた怖くないの?」
「ハハハハ」
と化け物は笑った。
「道士だろうが帽子だろうが、
 俺には熊手という武器がある。
 たとえお前のオヤジが
 蕩魔天師をひっばり出してきたとしても、
 この俺の顔を見たら黙ってひきさがるだろう。
 そんなつまらんことを心配するよりも、
 さあこっちへ来てお休み」
「五百年前に天宮を荒した斉天大聖でも怖くはないの?」
と悟空はきいた。
「斉天大聖?」
とびっくりして化け物は床の上にはね起きた。
「どうしたの?
 なぜ、斉天大聖ときいた途端にはね起きるの?」
「本当に斉天大聖がきたのなら、俺はちょっと失敬するよ。
 何しろ彼奴は十万の神兵を相手にしても
 びくともしなかった豪の者だ。
 君子は自ら選んで危きには近よりたくないからね」

俄かに起きあがって服を着ようとするのを、
「ねえ、あなた」
と悟空はつかまえた。
その力があまりに強かったので、急いでふりかえると、
目と鼻の先に歯をむき目をギョロつかせた孫悟空が
立っているではないか。
「ヒアッ」
と叫んだ化け物は、
服も着ないで素っ裸のまま門からとび出した。
「待て。どこへ行くか」

さっと霞になって消えて行くあとから
悟空は如意棒を握ったまま駈け出した。

化け物の二つの眼は流星のような早さで
闇夜の中を疾走して行く。
そのあとを追って行くうちに、
いつの間にか高い山の上まで来ていた。

山の中には洞窟があって、
アタフタとその中へかけ込んだ化け物は、
やがて熊手を片手にとび出してきた。
「やい。化け物!」
と悟空は叫んだ。
「この俺様の名前をどうして知っている?
 知っているからにはただの化け物ではあるまい」
「そういうお前も俺の名前ぐらいは覚えておけ。
 何をかくそう。
 俺だって一度は天の河の海軍提督をつとめた天蓬水神。
 女のために身を滅ぼして、今は福陵山に巣食っているが、
 むかしは天界一の美男子と謳われ、
 さんざ腰の短剣にすがりつかれた水師大将軍だ」
「道理で俺の名前をきいただけで逃げ出した筈だ。
 アッハハハハ」
「何をいうか、馬方さん」
と化け物も笑いかえした。
「あの時、さんざ俺に迷惑をかけておいて、
 この猿の尻笑い奴! 笑う前に俺の熊手でも味わえ」

さっとばかりに熊手をふりあげるのを、
悟空は如意棒でハタリと受けとめた。
かくて山の中腹、暗間の中を豚と猿の大合戦。
ともに天に罪を犯して今は地上をさまよう無頼者ながら、
互いに腕には動かぬ自信を持っている。

片一方が、
「やい、人殺し」
と怒鳴れば、もう片一方が、
「何を、女蕩し」
と怒鳴りかえす。

夜の十時から戦闘を開始して、
勝敗のつかないままに東の空が白みかかってきた。
かなわないと見た豚は、すきを見て、素早く身をひくと、
あわてて洞門の中へ逃げ込んでしまった。

悟空が洞門に近づいて見ると、
なるほど化け物がいっていたように、
「雲桟洞」と大書してある。
いくら叩いても化け物は出てきそうになかったので、
悟空は一旦、高老荘へひきあげて来た。
「やあ、ご苦労だった」
悟空の姿を見ると、三蔵はいった。
「化け物ほどうだった?」
「あれは化け物じゃなくて、も
 と天蓬元帥のなれの果てですよ。
 振られ男の人にかくれた色事くらい
 見逃がしてやった方がよいかも知れませんね。
 誰だって楽しく生きる権利は持っているのですから」

それをきくと高太公はびっくりして
三蔵法師の前にひざまずいた。
「和尚さま。どうかこのまま行ってしまわないで下さい。
 あなたたちが行ってしまったあとで、
 またあの化け物が帰ってきたら、
 私たち生命がいくつあっても足りません。
 お願いでございます。
 私の財産も田畑も半分さしあげますから」
「あなたは年寄りの癖に無分別な人だ」
と悟空は笑った。
「化け物は俺にいっていたぞ。
 自分は只で飯を食っているわけじゃない、
 その分以上に働いて、
 この家の財産をふやしているのだと」
「それはまあその通りですが、
 でも化け物を養子にしているといわれては、
 きこえが悪いですよ」
「悟空や」
とそばできいていた三蔵がロを出した。
「一度は手をかしてやったのだから、
 ちゃんと始末をつけてあげたらどうだね」
「それもそうだ。よし、じゃもう一度行ってくるか」

そう言ったかと思うと、
早くも斗雲に乗ってまたも洞門の前にとんできた。
「やい。出て来い。
 出て来んと洞門ごと叩き潰してやるぞ。
 糠食い野郎!」

如意棒片手に力任せに叩きつけるので、
石で出来た両方の扉がどっと砂煙を立てて崩れおちて行く。

疲れ果ててグウスカグウスカ
大いびきを立てていた化け物は、
糠食い野郎ときくと、カッとなってとびおきた。
「無礼者奴!」
こわれかかった扉を押しあけると、
化け物は熊手を握ったまま叫んだ。
「俺に何の恨みがあってこの扉をこわすんだ?」
「お前は色魔だ。誘拐常習犯だ!」
「やくな。やくな。俺が羨ましかったら、
 お前もやって見たらいいじやないか。
 広い世間に女子は星の数ほどもある。
 女を口説く手練手管なら、
 この俺が手ほどきしてやってもいいぞ」
「黙れッ」
と悟空は一喝した。
「それなら俺のこの熊手でも食らえ」

化け物はいきなり熊手をふりあげたが、
悟空は少しもあわてないで、
「待て待て。
 お前のその熊手は畑を耕すにはいいかも知れんが、
 俺にはとても歯が立つまい。
 嘘と思うなら、
 この通り俺はじっとしているから
 どこでも好きなところをひっかいて見るがいい」
「何を!」
と化け物は熊手をふりあげると、
悟空めがけて襲いかかってきた。

2000-10-25-WED

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