毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
三蔵創業の巻 第五章 黄塵万里 |
一 八戒の弟子入り 悟空は両足で大地をふんまえたまま、 相手のなぐるに任せた。 化け物は満身の力をこめて熊手をふりおろしたが、 悟空の頭にあたると、カチンと音を立ててはねかえった。 「ギョッ。何という石頭だろう」 あわてるよりも、化け物は感心してしまっている。 「貴様は知るまいが」 と、そこで、悟空が啖呵をきる番になった。 「俺が天界を荒して、仙丹や蟠桃や御酒を盗み、 やくざの限りを尽した頃は、 この大字宙をおさめる玉帝でさえ 俺には二目も三目もおいたものだ。 悪運尽きて、小聖二郎につかまえられ、 斧や薪割でなぐられたり、 焼鳥のように火の上であぶられたが、 俺は平気の平左だった。 太上老君の八卦炉の中で七七・四十九日いぶされても、 この通りぴんぴんしていた。 嘘と思うなら、二度でも三度でもためして見るがいい。 痛いのイの字でもロに出したら、俺の負けだ」 「何をボケ猿め。昔は昔、今は今。 お前の名前が歌舞伎座の檜舞台から消えて早や幾世紀。 もうドサ廻りもつとまるまいと思った頃になってから、 何だってこんなところへやって来た? さては、うちの女房のオヤジに買われて来たのだな?」 「いやいや。何で貴様の岳父に買われて来るものか」 と悟空は言いかえした。 「俺だって両界山の石牢から出て来て、 回想録の一、二冊も書けば すぐさまベスト・セラーズになって、 また猿王国の帝王に返り咲くことは出来たわい。 しかし、王様稼業にはもういい加減あきあきしたから、 頭をまるめてこうして西方極楽へ 行脚の旅をつづけているのだ」 「西方極楽へ行くんだって?」 と化け物はききかえした。 「何のために西方極楽へ行くんだね?」 「或る人のお供をしてお経をとりに行くんだ。 それで高老荘を通りかかったら、 化け物退治をしてくれと袖にすがりつかれたのさ」 それをきくと、化け物は手に持っていた熊手を投げすてて、 「そのお経をとりに行くとやらいうお方に 一目会わせてくれないか?」 「会ってどうしようというのか?」 「かく申す私は観音菩薩のご恩を受けた者で、 かねてからもし西方へお経をとりに行くお方が見えたら、 そのお供をせよと申しつけられているのです」 と化け物は急に丁寧な言葉づかいになった。 「やれやれ、 ここにも観音菩薩の息のかかった子分がいるのか」 悟空は今更のように観音の大ボスぶりに舌を巻いたが、 待て待てとはやる心をおさえながら、 「そんなうまいことを言って急場をのがれようとしたって、 そうは問屋が卸さないぞ。 本当に俺の師匠に会いたいなら、 その前にまず天地神明に誓いを立てるがいい」 化け物はその場に膝をつくと、天を仰ぎ、 米を搗くように何度も頭を地にすりつけながら、 「ナムアミダー。 もし私が嘘をついたら舌をきられても悔みません。 またもし私が天の条理にそむいたら、 この身体をバラバラにされても文句は言いません。 ナムアミダー」 いかにも真剣な態度であったが、 悟空はまだにわかには信じなかった。 「さあ、次にはお前のこの根城を自分の手で焼き払え。 本当に俺の師匠について行く気だったら、 こんな洞穴はもう必要がないだろう」 言われて化け物は、 枯木や落葉をかき集め洞窟の入口に積みあげると 自分の手で火を放った。 「もうこれでいいだろう。 ではあなたの師匠のところへ連れて行って下さい」 化け物が催促すると、 「その熊手はこっちにあずかっておくぜ」 と悟空は熊手をとりあげ、更に毛を一本抜いて、 「変れ!」 と叫ぶと、たちまち一本の縄が現れた。 それで化け物をうしろ手にしばりあげ、 相手の耳をつかまえると、 「さあ、急ごうぜ」 「キキキキ……」 と化け物は豚のような悲鳴をあげた。 「そんなに強くひっばらないでくれ。 耳がちぎれてしまいそうだ」 「いい豚はつかまえにくい、 とむかしから言うじゃないか。 貴様の耳にかまっちゃおられないよ。 それ、急げ」 二人は雲に乗ると、 福陵山からたちまち高老荘へ舞いもどって来た。 「やい。見ろよ」 悟空は化け物の耳をひっばりながら言った。 「正庁に坐っているあのお方が俺の師匠だ」 高老人は悟空が化け物をがんじがらめにして ひき立ててきたのを見ると、 「やあやあ。ほんとうにつかまえて来たぞ」 化け物はそれに目もくれず、 三蔵法師の前までつかつかと歩みよると膝を屈して、 「お師匠さま。 あなたがこちらへおいでと知っておれば、 こんな面倒なことにならなくてすんだことでございます」 「悟空や、どうやってこの化け物を降参させたのだね?」 と三蔵法師はきいた。 「おい。自分で喋れよ」 と悟空がうながしたので、 化け物はこれまでの一部始終を話してきかせたのである。 三蔵法師は大いに喜んで、早速、祭壇を設けて、 「有難や観音菩薩」 を繰りかえした。 それがすむと、 「悟空や、縄をほどいてあげなさい」 悟空が近づいて縄に手をかけようとすると、 あら、不思議、縄はひとりでにほどけて、 化け物は自由の身となったのである。 化け物はあらためて三蔵法師を拝んで、 「お師匠さま」 と呼び、悟空には兄弟子として仕えることになった。 「私について西方へ行くなら、 出家らしい名前をつけてやろう」 三蔵がいうと、化け物は、 「私には観音菩薩からつけていただいた猪悟能、 またの名、八戒という法名がございます」 「そうか、そうか。 兄弟子が悟空で、お前が悟能。 しかし、お前はどうも女色には弱いようだから、 八戒という名前の方がふさわしいようだな。 これからは八戒と呼ぶことにしたらどうだ」 「ハイ。どちらでもお師匠さまのお好きなように」 高家の人々は化け物が三蔵について 出て行ってくれるときいて、 すっかり安堵の胸をなでおろした。 すぐ宴会の準備が行われ、 広い邸の中は早くもお祭り気分になっている。 「お師匠さま。兄貴」 と猪八戒は三蔵と悟空に向って言った。 「家内がお二人に挨拶をしたいと言っていますが、 宜しいでしょうか?」 「賢弟よ」 と悟空は大笑いをしながら、 「坊主になったら、もう家内は、 という話をやめなくちゃね。 女房持ちの道士はあるが、女房持ちの坊主はないぜ」 「そうですか?」 と八戒は目を白黒させて 「それじや家内が泣くでしょうな。 亭主がこの通りぴんぴんしているのに、 後家を守らなくちゃならんとはあんまり可哀そうです。 いっそのこと尼にして、一緒に連れて行きましょうか?」 「バカをお言いでないよ」 と三蔵法師はたしなめた。 やがて宴会がはじまり、精進料理と酒が出た。 高老人は三蔵にも酒をすすめたが、 三蔵は禁酒禁煙禁色の石部金吉でまことに張り合いがない。 幸いにして、悟空と八戒は辛党だったので、 酒席は大いにはずんだ。 宴会が終ると、 高老人は朱塗りの盆に銀を二古両ばかりのせ、 別に木綿の上着を三枚持って、三蔵の前に現われた。 「わずかなものですが、これを道中の費用にして下さい」 「いやいや」 と三蔵は手をふりながら、 「われわれ出家の者には、金の必要はございません。 行く先々で托鉢をすれば、それで事足りるのです」 どうしても受けとろうとしないので、 「では粗衣だけでもご笑納下さいませんか」 三蔵法師がそれも断ると、そばに坐っていた八戒が、 「お師匠さま。 私はこの家で何年か養子をつとめてきました。 出て行けと言われれば、 慰籍料のいくらかは要求出来るのではありませんか?」 三蔵が睨みつけると、 「いや、慰籍料をくれと言っているわけではありませんよ。 ただ、私の服は昨夜、 兄貴にひき破られてごらんの通りの有様です。 新しい門出ですから、 袈裟と靴の一足ぐらいは欲しいのですが」 それをきいた高老人が袈裟や靴を整えてやると、 八戒は広間の中をダテ男のように しゃなりしゃなりと歩きながら、 「お岳父さんよ。義姉さんよ。親戚の皆さんよ。 今日から私は和尚になりますが、 皆さんには、さよならは、言わないことに致します。 何故って、お経をとりに行きそこなって、 還俗することになったら、また戻ってきますからね」 「こらッ」 と悟空が怒鳴りつけた。 「バカなことをいう扱があるか」 「バカじやないよ。こちとらは真剣なんだ。 な、そうじゃないか。 誰だって一つの仕事をなしとげようという情熱は 持っている。 しかし、物事は初志の通りに行かない場合が 往々にしておこる。 坊主にはなりそこなったし、女房には逃げられたでは、 死ぬにも死にきれませんからね」 「愚図愚図言わないで、出かけることにしようではないか」 三蔵法師にうながされて、 二人の弟子もようやくみこしをあげた。 高老荘の人々に別れた三人は 再び西へ西へと旅を続けることになったのである。 |
2000-10-26-THU
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