毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
三蔵創業の巻 第五章 黄塵万里 |
四 黄塵万里 一方、生命からがら洞窟へ逃げ帰った小妖怪どもは、 虎先鋒が悟空に追い立てられて 山の中腹へおりて行ったと報告した。 そこへ、悟空が虎の死骸をひきずってやってきたので、 さすがの黄風大王も我慢がならなくなって、 「俺はまだ彼奴の師匠を食っていないのに、 俺の子分を殺すとはけしからん奴だ。 者ども、鎧兜を持って参れ」 黄風大王は兜の緒をぎゅっと締めなおすと、 手に三股の槍を握って洞門を出て来た。 「孫悟空とやらいうのはどこにいる?」 「お前のお祖父さんがどこにいるのか 見分けがつかねえのか」 と悟空が怒鳴った。 「悪いことは言わねえから、 おとなしく俺の師匠をかえしたらどうだ?」 見ると、四尺足らずの貧相な小僧だったので、 「なあんだ。俺はまた、どんな男かと思ったら、 ただの骨皮筋吉じやねえか」 「アッハハハ」 と逆に悟空は笑いかえした。 「お前のような奴を明き盲というんだ。 お前のお祖父さんはチビはチビでも、 お前が一なぐりする度に六尺背がのびるんだぜ」 「よし、それならば俺にひとつなぐらせて見ろ」 悟空は少しもおそれず、 黄風大王の前に腕組みをしたまま立った。 大王が手にもった槍に力をこめて、 「えいッ」 となぐりつけた。 すると、悟空はちょっと腰を一ふりふったかと思うと、 足が筍のようにたちまち六尺のびて、 身の丈一丈あまりの大男になった。 化け物はびっくり仰天して、 「やい、悟空。 忍術を濫用するとはお前もふざけた野郎だ。 正々堂々と真剣勝負で行こうじゃないか」 「お前もなかなか味なことをいうようになったじゃないか、 私の可愛い坊や」 と悟空は笑いながら、 「情を残せば手をあげず、手をあげれば、 情を残さずと昔からいわれているだろう。 お前のお祖父さんの手は少々手強いから、 大丈夫かしらと心配になってくるぜ」 きいていた妖王はカンカンになって、 槍をひとねじりすると、 いきなり悟空の胸をめがけて突き刺して来た。 「おう」 と素早く如意棒で槍先を払いのけた悟空は、 逆に黄風大王に襲いかかって行った。 洞窟の入口で、二人は死闘を続けることおよそ三十回。 いつまでたっても勝負がつきそうになかったので、 事面倒と見た悟空は脇の下から毛を一握りむしりとって、 口でかみくだき、プッと吹き出しながら、 「変れ!」 と叫んだ。 すると見よ。 百数十人の悟空が手に手に鉄棒をもって 襲いかかって行くではないか。 だが、黄風大王の方も負けてはいなかった。 急いで、巽の方角を向いて息を吸い込むと、 悟空の方へ向きなおってフーと吹き出したのである。 と見よ。 一面黄塵を含んだ風が たちまち森も川も山も空も覆いつくし、 贋者の孫悟空はまるで糸車がくるくるまわるように、 くるくる回転しながら、 大空高く吹きあげられて行ったのである。 あわてた悟空は如意棒を握りなおすと、 化け物めがけて突進して行ったが、 化け物は今度は悟空の顔に向って、 フーと風を吹きかけてきた。 その風の物凄さといったら、棒をふるどころか、 目をとじて逃げるだけでも精一杯である。 悟空が逃げ出したのを見ると、 化け物はあとを追わずに洞窟の中へ戻って行って、 さっさと門をとざしてしまった。 「やあ、凄い風だ」 天をも覆うそのすさまじさに、 猪八戒は眼をとじたついでに、頭まで草の中に突込んで、 じっと身動きしないでいたが、どうやら凰もすぎたので、 そっと顔をあげて覗くと、 洞門のところには人の気配もなく、 太鼓や銅鑼の音もきこえて来ない。 奇妙な静けさに、彼はだんだん心細くなってきた。 と、その時、遠くから咳をしながら悟空が歩いてきた。 「兄貴、凄い風だったな」 八戒がいうと、 「全くスゴい、スゴい」 と悟空は手をふりながら、 「俺も風を吹かせたり、雨をふらせたり出来るが、 こんなスゴい風はとても及びもつかないや」 「あの化け物の腕前はどうだった?」 「そうバカにしたものじゃないぜ。 槍の使い方など理にかなっているし、 俺とまあ五分五分といったところか。 ただ何分にもあの風では、 とてもとても太刀打ち出来ないなあ」 「それじゃどうやってお師匠さまを助けたら いいだろうか?」 「お師匠さまのことよりも、 どこかこの辺に眼科のお医者はいないものだろうか?」 見ると、悟空は目を赤くはらしているばかりでなく、 とめどもなく涙を流している。 「どうしたんだね?」 「いや、さっき化け物の風をまともに受けたものだからね。 目が痛くて痛くて、 あけてもとじても涙がとまらないんだ」 「こんな山の中では、眼科医どころか、 とまる宿さえないだろう」 「宿ならどこかにあるだろう。 仕方がないから、来た道を戻って、明日の朝、 もう一度出なおすことにしよう」 二人は馬をひき、荷物を背負うと、 谷間に沿って道のあるところまで戻ってきた。 もう日が落ちかかって、 夕闇が足元のあたりまで追ってきている。 その時、二人は近くで犬の吠える声をきいた。 思わず立ちどまって見あげると、 林の中から明りがもれてくる。 二人はお互いに顔を見合わせ、 それから物も言わずに足を合わせて歩き出した。 その家には老人が一人で住んでいた。 二人がわけを話すと、老人は快く二人を迎え入れてくれ、 お茶やご飯を出してくれた。 「ご老人、 この近所に目薬を売っているところはありませんか?」 悟空がきくと、 「目薬をどうなさるのです? 目でも悪いのですか?」 「ええ、今日、黄風洞の化け物に風を吹きかけられてから、 目が痛くて仕方がないのです」 「ご冗談おっしゃっちゃ困りますよ」 と老人は言った。 「黄風大王の風をまともに受けて 生きていられる者はありませんよ。 あの風は、春風や秋風や、 マージャンの風とはわけがちがいますからね」 「じゃ、どんなカゼです? 流行性感冒、扁桃腺炎、リューマチス……」 八戒が出任せに言うと、老人は首をふりながら、 「いやいや、そんなナマやさしいものではない」 「そうだ、わかった」 と八戒はボンと手を叩いて、 「神風タクシーの神風でしょう」 「まあ、そんなものだね」 と老人は頷きながら、 「あの風を受けて、まだ生きているとしたら、 あなたたちは普通の人間ではないらしいな。 幸い、私のところにはスーパー・マン用の 三花九子膏というスーパー目薬があるから、 それをつけてごらんなさい。 一晩、ゆっくり休んで朝になれば、 見違えるほどのパッチリ美人になりますよ」 悟空は老人から目薬をもらうと、 教えられた通り、目につけた。 「明日の朝まで目をあけてはいけません」 老人がそういうので、 悟空は手さぐりであちらにつまずいたり、 こちらにぷっつかったりしている。 八戒が笑いながら、 「先生、杖をどうぞ」 というと、悟空は、 「馬鹿野郎。自分の食べる糠の心配でもしろ」 二人はようやく揮床に入ったが、 すぐ二人とも大いびきをかいて寝入ってしまったのである。 やがて朝になった。悟空は目をこすりこすり、 「なるほどいい薬だ」 と言いながら、目をあけたが、思わず、 「あッ」 と叫んでとびあがった。 というのは昨夜の家や門はいつの間にか消え去って、 二人は一本の大きな柳の木の下でねていたからである。 「おい、起きろよ」 そばにねていた八戒の身体をゆすると、八戒も驚いて、 「俺の馬は?」 とまず叫んだ。 「あすこにいるじゃないか?」 「荷物は?」 「お前のあたまの上を見ろよ」 馬も荷物も無事だったので、 八戒はやっと胸を撫でおろしたが、 「それにしても、あの老人は何という怠け者だろう。 引越しをする時ぐらい知らせてくれりゃ、 兄貴と俺で御餞別の一つも贈ってやったのに! しかし、夜逃げをしたところを見ると、 借金で首がまわらなかったに違いない ──それにしても、 家ごと引越されて気づかなかったとは、 俺たちもよくねたものだなあ」 「愚図愚図言わないで、 早く師匠を助けに行こうじゃないか」 「そうだ。そうだったな」 と思い出したように八戒はとび起きた。 「ここから黄風洞まではそう遠くないようだから、 昨日と同じように、 お前はここで荷物の番をしていてくれ」 「うん。それはいいんだが、 何よりもまず師匠がまだ生きているかどうか たしかめて来てくれ。 もし死んでいたら、 俺たちはお互いに将来のことを考えなくちゃならんが、 まだ生きていたら、あの化け物と一合戦やらなくちゃね」 「つまらんことをいうと、口に絆創膏をはりつけるぞ」 そういうなり、悟空は駈け出した。 黄風洞の門前に来て見ると、門は厳重に閉ざされていて、 化け物たちはまだ寝ている様子である。 悟空は門を叩く代りに、揺身一変、 たちまち一匹の蚊に化けると、 門番をしていた小妖怪の頬の上にとまって、 チクリと刺した。 門番は目をさますと、 「畜生。何ちゅうデッカイ蚊だろう」 ポリポリかきながら、ふと顔をあげると、 「おや、もう夜が明けたぞ」 その時、奥でも二番目の門をあける音がしていた。 悟空は羽音をたてながら、 化け物の住んでいる建物をとびこえて、更に奥に入ると、 堅く門をとざした一棟が目についた。 戸の隙間から、そっと中へ忍び込むと、 がらんどうになった部屋の中の柱に 三蔵法師がしばりつけられているのが見えた。 「お師匠さま」 と悟空は耳元で呼んだ。 「悟空じゃないか。お前どこにいる? 何故私を助けてくれないのだ?」 「私は今、お師匠さまの頭の上にいます。 もうしばらくの辛抱です。 化け物を退治してから、お師匠さまを助けにきます」 「化け物を退治するって、いつ退治出来るんだね?」 「昨日お師匠さまをつかまえた虎の化け物は 八戒がやっつけました。 でもここの風の化け物はずっと手ごわい奴です。 今日にでもやっつけるつもりですから、 しばらく待って下さい」 そういうと、悟空はまた、ブーンと羽音をたてながら、 前の方へとんで行った。 大広間では昨日の化け物が、 小ボスどもから報告をきいているところであった。 「申しあげます」 とその時、一人の小妖怪が外からとんで入ってきた。 「私がさきほど山を巡視していたら、 口のとがった和尚が林の中に一人で坐っていました。 もう少しでつかまえられそうになったので、 とんで帰ってきましたが、 どうしたわけか昨日のサル和尚は見当りません」 「孫悟空がいないのは大方、 風にでもあたって死んでしまったのであろう」 と黄風大王は言った。 「もうどこぞへ援兵を頼みに行く必要はなさそうだ」 「本当に大王の風にあたって死んだのなら、 万々歳ですが……」 と家来たちは親分の顔色をうかがいながら 「でも万一、 向うが国連に出兵でも依頼に行っていたらどうします?」 「国連なんぞ怖いものか。 俺のこの風をとめることが出来るのは、 広い世界にたった一人−あの霊吉菩薩がいるだけだ。 あとは束になってかかって来ても、 俺のこの一吹きでふきとばしてしまうだけさ」 梁の上で、それをきいていた悟空は思わず 「しめた!」と叫んだ。 |
2000-10-29-SUN
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