毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
三蔵創業の巻
第七草 白日夢さめて

四 人蔘果

さっきから八戒は耳の中が妙にムズ痒い。
大体、八戒は眼こそ近視眼だが、
色気に食気に惚気と気のつくことにはすべて縁がある。
耳の中が痒いのは、てっきり誰かが
俺の悪口を言っているに違いないと思っているところへ、
二人の童子が通りかかって、
金撃子がどうしたの、丹盤がどうしたの、と言っている。

八戒は米をとぐ手を休めてきき耳を立てた。
しかし、チンプンカンプンで何のことだかよくわからない。
しばらくすると、今度は三蔵のバカだの、
豚に真珠だのとののしっている。
火をおこす手をとめてきいてみると、
どうやら三蔵がせっかく饗応にあずかった人蔘果を
赤ん坊と間違えて食べなかったことらしいのである。

人蔘果ときいただけで、
八戒の口からはよだれが垂れ出した。
もうとても飯をたいてなんかおられない。
何とかひとつ失敬する方法はないものだろうか
と考えているうちに、
いても立ってもいられなくなったのである。

台所からとび出すと、ちょうど、
向うから悟空が馬をひいて入ってくるのが見えた。
「兄貴。兄貴」

しきりに手招きするので、悟空は馬をつないでやってきた。
「どうした? 飯でもたけたのか」
「飯のことじゃないんだ。まあ、こっちへ来いよ」
と八戒は台所の中へひっばり込む。
「実はこの五荘観に珍しい宝物があるんだ」
「どんな宝物だね?」
「兄貴も見たことのないものだから、
 見せてもきっとわからないよ」
「バカ言うな。そのかみ、俺は天の涯、海の角、
 どこでも行かなかったところはないぞ」
「じゃ人蔘果というのを見たことがあるか?」
「人蔘果だって?」
と悟空は驚いてききかえした。
「人蔘果と言えば話にきいたことはあるが、
 なるほどまだ見たことがない。
 不老長生の珍果だろう。それがここにあるのか?」
「うん。それがよお……」
と八戒は二人の童子が山分けにして猫糞をきめた話をした。
「よし、わかった」
と悟空は膝を叩いて、
「俺がこれからとって来てやろう」
「しかし、
 金撃子とかいうのを持って行かなきゃいけないらしいぜ」
「よしよし」

悟空は隠身法を使って童子たちの部屋へしのび込んだが、
入って見ると、
童子たちは三蔵法師の話相手に行ったと見えて、
誰もいない。
悟空はあちこち見まわしたが、
壁に二尺ほどの黄金の棒が立てかけてあるのが目に映った。
太さは親指ぐらいだが、
頭のところに穴があいていて緑色の縄が通してある。
「ハハン。こいつが金撃子とやらいう代物だな」

それを手にとると、悟空は裏門からそとへ出た。
と見よ。ここは百花妍をきそう美しい花園。
蘭、牡丹、桃、菊、芍薬、蓮、海棠紅、
四季の花々が季節を選ばず咲き乱れている。

そこを通り抜けると、さらに門があって、
その門をひらくと、野菜畑になっている。
野菜畑をすぎると、また門があって、それを押しひらくと、
庭の真中に天にも届くばかりの巨大な老樹が繁っていた。
「ああ」
と思わず悟空は見あげた。
幹の太さは凡そ七、八丈もあろうか、たった一本であるが、
一本だけで森をなし、風が吹くと、
芭蕉のような形の葉がヒュンヒュンとざわめきを立てる。
よく見ると、葉の間から赤ん坊が両手を出して
バタバタするようにかすかに揺れ動いている。
「しめしめ。いいものが見つかったぞ」
悟空はえいッと一声、忽ち樹をよじのぼりはじめた。
樹に登って果実を盗むことにかけては天才的な悟空である。
手に握った金撃子をのばして、一打ちすると、
ドスンと果実のおちる音がした。

それと同時に彼も素早く下へとびおりたが、
見ると、どこにも果実の姿が見当らない。
「おかしいな。まさか足があるわけでもあるまいし、
 仮に足があるとしても、
 あの高い塀をとびこえることは出来まい。
 うむ。ひょっとしたら、
 土地神がどこかへかくしたのかも知れないぞ」

悟空は呪文をとなえて、ただちに土地神をよびつけた。
「何かご用でございますか?」
と土地神は悟空の前へ出て来た。
「お前はこの俺が天下に名の轟いた大泥棒だってことを
 知らんのか!」
と悟空は怒鳴りつけた。
「すると、
 あなたがあの有名なアリパパさんでございますか?」
「ふざけるな。アリパパは俺の孫の又孫のその又孫弟子だ」と
悟空は声を張りあげた。
「この俺が天界荒しをやった時は、
 蟠桃を盗んでも御酒を盗んでも
 誰も分け前をよこせとは言わなかった。
 だのに何だってお前は、
 俺が果物の一つを頂戴しようとしても
 かくしてしまうんだ。
 樹の上で実ったものは空とぶ鳥だって
 分配に与る権利があるんだろう。
 さあ、かくしたものを出して来い」
「冗談言っちゃ困りますよ、悟空さま」
と土地神は言った。
「この果実は鏡元大仙の持物で、私は項戴するどころか、
 匂いさえかがしてはもらえません」
「じゃお前がとって行ったのではないというのか!」
「あなたはこの宝物がどうして出来たものか
 ご存じないと見えますね?」
「どうして出来たものなんだ?」
と悟空はききかえした。
「この人蔘果は三千年に一度花をひらき、
 三千年に一度実を結び、
 更に三千年たってから漸く熟れる珍しい果物なのです。
 縁あって一個食べれば、
 四万七千年生命をながらえると言われていますが、
 しかし、
 この果物はまことに厄介な性質を持っているのです」
「厄介な性質とは?」
「この果物は金に会えば落ち、木に会えば枯れ、
 水に会えば化し、火に会えば焼き焦がれ、
 土に会えば消えてしまうのです。
 ですから、叩く時は必ず金器を用い、
 受ける時は必ず磁器を用いなければなりません。
 間違えて木器を使うと忽ち枯れるし、
 火のそばへおくと焦げて役に立たなくなるし、
 あやまって土の上におとすと、
 土の中に消えてしまいます。
 さっき大聖が土の上に叩きおとしたのは
 この土の中に吸い込まれてしまったに違いありません。
 嘘と思うなら、土にきいてごらんなさい」
「よおし」
と悟空は耳の中から如意棒をとり出すと、
力任せに地面を叩きつけた。
如意棒は悟空の力をガンとはねかえしたので、
「イテテ……」
と思わず悟空は悲鳴をあげた。

2000-11-06-MON

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