毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第2巻 三蔵創業の巻
第八章 人蔘禍

三 債鬼逃げるべし

こうして三蔵法師の一行が
五荘観から逃げのびようとしている間に
五荘観のあるじ鎮元大仙は無事、
天界エッセイスト・クラブの講演を終って、
目指す我が家へと戻ってきた。
見ると、大門は八文字にひらかれているし、
庭はきれいに掃き清められている。
「清風と明月はなかなか見どころのある弟子だな。
 儂がいつ戻ってきてもいいように
 ちゃんと用意万端ととのえているではないか」

上機嫌で鎮元大仙の一行が門をくぐると、
香炉の煙は消えているし、
人影らしきものはどこにも見当らない。
「こりゃ留守の間に家財道具を持って逃げたかも知れんぞ」

ほかの弟子たちがいうと、
「いやいや、あの二人に限ってそんなことはしまい。
 大方、昨夜は戸をしめ忘れたまま
 ねてしまったのであろう」

部屋のそばへ近づいて見ると、
はたして二人がグウスカグウスカと
高いびきをかいているのがきこえてくる。
門を叩けど、声をかけれど、何で天国の夢から目醒めよう。
弟子どもが無理矢理門をこじあけて中へ入って
肩を揺すぷっても依然として白河夜船なのである。
「これは魔術をかけられているのだ。
 誰か急いで水を持って来い」

鎮元大仙は水をもって来させると、
口の中で呪文をとなえ、やがて口に水をふくんで、
それぞれの瞼の上に吹きかけた。すると、瞼が微かに動き、
間もなく二人は深い深い眠りから目を醒ましたのである。

目の前に鎮元大仙が立っているのを見た二人は
あわててもう一度、目をとじようとした。
「こらッ」
「ハ、ハイ」
と清風は口がどもって思うように物も言えない。
「そんなに驚くことはない。
 もっと落着いてはじめから話をしておくれ」
「じ、じつは、強盗に入られたのです。
 東の方から来た──何やら口では民衆を救うために
 理想を求めて行くと言っているあのお師匠さまの
 昔馴染みです……」

明月がこれまでの経過を手短かに報告すると、
大仙は青筋を立てて怒り出した。
「ウム。人の善意を泥足でふみにじるとは怪しからぬ奴だ。
 して犯人の顔に見覚えはあるか?」
「ハイ、覚えております」
「よし、じや儂について参れ。
 皆の者、儂が帰って来たらリンチをやるから、
 すぐ準備にかかれ」

弟子どもが準備をはじめると、
鎮元大仙は直ちに清風と明月を連れて
三蔵法師のあとを追いかけた。
悟空は斗雲が音の速度よりも早いことを
自慢にしているが、
鎮元大仙の乗物ときたら祥光といって光の速さである。
あッという間に千里をすぎて、
空の上から下界を見渡したが、
どこにも坊主の姿が見えない。
おかしいぞと思ってうしろをふりかえると、
何と遙か九百里もうしろから
三蔵法師の一行が息せききって馬を走らせている。
ナマ身の人間の悲しさ、昼夜兼行で馬に鞭打っても、
三蔵の来た道程はたったの百三十里にすぎないのである。
「あすこで馬を走らせているのが三蔵法師です」

弟子どもが指ぎすと、
「よしよし、儂が自分でつかまえるから、
 お前たちは縄の用意をしろ」

そう言って鎮元大仙は揺身一変、
忽ち旅姿の若い道上に化けると、
三蔵たちの前に立ちふさがった。
三蔵があわててたづなをひいて馬をとめると、
「これはこれはよくおいで下さいました、和尚さま」
「いや、こちらこそ」

あわてて三蔵が挨拶をかえすと、
「和尚さまほどちらのお方で?」
「私は東土から西天へお経をとりに参る者でございます」
「では私のところをお通りになりましたか?」
「あなた様のお住居はどちらでございますか?」
「五寿山の五荘観でございます」

それをきくと、三蔵は顔面蒼白になった。
しかし、そばにいた悟空は
すぐに三蔵の前に立ちふさがって、
「そんなところは通りません。
 我々は違う道を通ってきたのです」
「何を抜かすか、トポケ猿奴!」
と道士は声を大にして、
「お前が儂の人蔘果の樹をひっこぬいたことを
 この僕が知らぬと思っているのか。さあ。
 ここから出て行けるものなら出て行って見ろ」

悟空はきくより早く如意棒を抜き出すと、
大仙目がけて打ちおろしたが、大仙は素早く身をかわすと、
祥光に乗って空へ舞いあがった。
悟空もすぐ続いてとびあがったが、
見ると、若い道士の姿は消えて、
そこには美人とも見まがうほどに若々しい顔付の、
髭だけは房々と白い、得体の知れない老人が立っている。
老人は手に持った鹿の尻ッ尾を
ぐるぐるまわしているだけで、
武器らしいものは何一つ持っていない。

物も言わずに悟空は如意棒で殴りつけたが、
大仙は鹿の尻ッ尾で軽くいなすと、
何を思ったか、袖をひらいて軽く動かした。
それから地上へ低くおりて来て、すっと通りすぎると、
悟空はおろか、四人のものが馬もろとも
袖の中へ吸い込まれてしまったのである。
「しまった。俺たちは罠の中におち込んでしまったぞ」

八戒が騒ぎ立てると、
「罠じやない。奴の袖の中だ」
と悟空が言った。
「袖なら大したことはない。
 俺の熊手の威力を見せてくれよう」

八戒は熊手をふりあげて無闇矢鱈にひっかいたが、
袖の壁はふんわりと柔いくせに鉄よりもまだ堅いのである。

鎮元大仙は五荘観へ戻ると、
弟子たちに縄をもってくるように命じた。
そして、袖の中から一人ずつつかみ出しては
縄でぐるぐるまきにして御殿の柱にしばりつけた。
「こいつらは泥棒でも出家の泥棒だから、
 刀をつかわないで、鞭でこらしめてやろう。
 おい、鞭を持って来い」

弟子たちが持って来た鞭を見ると、
それは普通の皮の鞭ではなくて、
七星鞭という竜の皮で作ったものである。
「お師匠さま。どいつから先にやりましょうか?」
と弟子がきいた。
「御大からだ」

きいてびっくりしたのは悟空である。
あの鞭でピチャリとやられたのでは、
三蔵のようなやさ男ではひとたまりもないからである。
「待ってくれ」
と悟空は叫んだ。
「人蔘果を盗んだのも俺ならば、
 樹をぶっ倒したのもこの俺だ。
 ひっばたくなら俺から先にやってくれ」
「猿はスネがかゆいとよ」
と大仙は笑いながら、
「じゃお望み通り猿からひっばたいてやれ」
「いくつたたきますか?」
「三十だ」

悟空は仙人の鞭を味わったことがないので、
手ごわいかも知れないと思い、よく見ていると、
どうやら腿を叩く気配である。
そこで腰をひねって「変れ」と叫ぶと、
二本の腿は忽ち鉄の棒と化した。
これならば、三十が三百でも平気の平左である。

弟子たちは朝から昼までかかって、
やっと三十回たたき終った。
大仙は弟子に命じて、今度は三蔵を叩かせようとした。
すると、悟空はまたも声を大にして、
「果物を盗んだのは俺たちで、
 俺のお師匠さまとは何の関係もない。
 俺たちが盗みを働いていた時、
 お師匠さまはあの二人の鼻ったれと
 話をしているところだった。
 教育者の責任というけれど、
 それはお師匠さまのせいじゃなくて俺たちの責任だ。
 だから叩くなら、もう一度俺をたたけ」
「この猿はなかなかのシタタカ者だが、
 案外、師匠思いのところがあるんだな」
と大仙は半ば感心しながら、
「よし、それじゃもう一度この猿をたたけ」

弟子どもが一午後かかって自分の腿を
ピシリピシリと叩くのを悟空は他人事のように眺めていた。
やがて叩き終った時にはもう日が暮れかかっていた。
「鞭を水につけておけ。明日またやるんだ」

大仙は弟子どもに命じて鞭をもとのところへしまわせると、
それぞれ寝間へひきあげさせた。

三蔵法師はと見ると、目に一杯涙をたたえている。
「こんなことになったのも皆お前たちのおかげだ。
 一体、どうすればいいのだろう?」
「お師匠さま」
と悟空が脇から言った。
「あなたの分だって皆私がひきうけたではありませんか。
 あなたは痛い目にあっていないのに、
 私たちのことをブツブツ言うことはないでしょう」
「たたかれこそしないが、
 縄でしばられたところが痛むんだよ」
と三蔵は情なさそうな声を立てた。
「全くだ。こんなことだと知ったら
 人蔘果なんか食べるんじゃなかった。
 俺はまたここの人がくれたものだとばかり
 思って食べたんだ」
と悟浄が三蔵に味方した。
「食べておいていまさら何をぬかすか。
 そんなことよりも逃げ出す工夫をした方がいいぞ」
「逃げるってどうやって逃げるんだ」
と八戒が言った。
「麻縄に水をぶっかけて力任せにしばりあげられたのと、
 この前の錠前とではわけが違うぜ」
「たかがこんな縄ぐらい……」
と悟空は笑いながら
「マニラ・ロープのような太い縄でも
 俺は風が吹くほどにも感じやしないよ」

そうこう言っているうちに夜は更けて
あたりは静かになった。
悟空かグッと身体を締めると、
彼を幾重にもしばっていた縄は簡単に抜けて下へおちた。
「お師匠さま。行きましょうや」

悟空が小さな声でささやくと、沙悟浄がすぐにききつけて、
「兄貴、俺たちも頼む!」
「シーッ」
と悟空はあわてて制した。
彼はまず三蔵の縄を解き、
続いて八戒、悟浄と縄を解いて行った。
「おい。八戒。
 そこの崖のところから柳の木を四本切って来てくれんか」
「柳の木をどうするんだ?」
「用があるんだ。早く早く」

八戒が四本の柳の木を抱えて帰って来ると、
「こういう具合に今ほどいた縄で
 もとの柱へしばりつけておくんだ」

そうしておいて、ロに呪文をとなえると、
四本の柳はそれぞれ三蔵、悟空、八戒、悟浄の姿に変り、
言葉をかけられても簡単な返事ぐらいはするように
仕掛けておいた。
それから荷物や馬をとり戻して、
またも五荘観を逃げ出したのである。

2000-11-09-THU

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