四 涙腺を狙え
そう言っているところへ山桃を摘んだ悟空が帰って来た。
グッと目を見開くと、
何と三蔵の前に一人の妖精が立っているではないか。
桃を地面に投げ出すと、
悟空は耳の中から如意棒をつまみ出した。
「これ、悟空!」
と、びっくりした三蔵が
あわてて悟空の前に立ちふさがった。
「お前は何をするつもりだね?」
「お師匠さま。
あなたの目の前に立っているのは
美女の形をかりた化け物ですよ」
「何をいうか。ネボケ猿め!」
と三蔵は怒鳴りかえした。
「お前の目が正しかったこともあるにはあったが、
心のやさしい人をつかまえて
化け物呼ばわりをするなんて失礼ではないか」
「あなたのように慈悲というメヤニでよごれた目に
何が見えますか?」
と負けずに悟空も言いかえした。
「かつて私が水簾洞で化け物業を開業していた頃は、
人肉が食いたいと思えば金銀に化けたり、
邸に化けたり、或いは酔っ払いに化けたり、
美女に化けたりしたものです。
人間なんて欲の皮のつっばった奴らばかりだから、
すぐ助平根性を出して尻にくつついてくる。
そいつを洞穴の中へつれこめば、
蒸そうと煮ようとこっちの勝手。
食いきれなくて余った奴は保存食にして
不漁時に備えたものです。
お師匠さま。もし私がもう一歩遅れて帰って来たら、
あなたはカレー・ライスぐらいに
なっているところでしたよ」
「バカをお言いでないよ」
何と言っても三蔵法師はとり合おうとしない。
悟空はいささか癪にさわって、
「お師匠さま。あなたの本心が私にはわかりましたよ。
あなたは美女にあったので、心を動かされたのでしょう。
もしそうだったら、何も遠慮することはありませんよ。
八戒に木を切らせ、悟浄に草を集めさせましょう。
私は日曜大工になって、
あなたのためにここに家を建ててさしあげます。
何もわざわざ西方まで極楽を尋ねて行かなくても、
スイート・ホームで二人抱き合って結ぶ夢も、
まあ、極楽のようなものですからね」
そう言われると、さすがの三蔵もちょっと顔を赤らめた。
その隙を見て、悟空は如意棒をとりなおすや、
「えいッ」
と妖精の頭の上めがけて打ちおろした。
驚いて三蔵がふりかえると、
さっきの女がその場にぶっ倒れている。
「何ということをし出かしたのだ」
三蔵は俄かに青筋を立てて怒り出した。
「まあ、そう怒らないで、
あの鉢や壷の中に何が入っているか見て下さい」
沙悟浄がそばにひっくりかえった鉢と壷の中を覗くと、
ご飯と思ったのは蛆虫で、
そばと見えたのは実は蛇やさそりであった。
「うむ」
と三歳はいくらか悟空を信用しかけた様子だが、
八戒が黙っていない。
「お師匠さま。この女の人は
もともとこの土地の百姓女ではありませんか、
畑にご飯を持って行く途中、我々に出会ったのです。
それを兄貴がしばらく喧嘩をやる機会がなくて
ムズムズしていたものだから、
一打ちに打ち殺してしまったのです。
ご飯やそばを姐虫や蛇にかえたのは、
きっと兄貴がお師匠さまを怖がってのことですよ」
このザン言は三蔵法師を動かすに十分であった。
三蔵が本気になって緊箍児経を唱えだすと、
悟空は忽ち頭を抱え込んで、
「痛い。痛い。用があれば、話して下さい。
話せばわかることです」
「お前とはもう話をしたくもないよ」
と三蔵は言った。
「出家というものは庭を掃いても
蟻の生命を傷つけやしないかと気を配るべきものだ。
それをお前は一歩あるけば人につっかかったり、
インネンをつけたり殺生のし通しじゃないか。
そんな心掛けで、
お経をとりに行ったって何の役に立つ?
もうお前は帰るがいい」
「帰れってどこへ帰るんです?」
「どこへ帰ろうとお前の勝手だ。
私はもうお前のような弟子は要らない」
「しかし、私がいないと、
お師匠さまはとても西天までは行けますまい」
「行けようと行けまいと、それは天の定めだ。
私がカレー・ライスになろうとオムレツになろうと、
それも天命なら仕方がない。
さあ、お前はさっさと帰るがいい」
「でも、お師匠さま」
と悟空は言った。
「帰れとおっしゃるなら、
もちろんそぅするよりほかありませんが、
それではお師匠さまに御恩返しが出来ません。
それが残念です」
「私がお前にどんな恩をかけたかね」
三蔵がいうと、悟空は急いで師匠の前にひざまずいた。
「お師匠さま。あなたは私の生命の大恩人です。
あなたは私を両界山の石牢から救い出して下さいました。
どうしてその恩を私が忘れることがあるでしょう。
恩を知って報いざるは君子に非ず、
という言葉もございます」
それをきくと、三蔵の頑なな心がまた軟化しはじめた。
悪には強いが、涙には弱い三蔵法師なのである。
「それがお前の本心なら、今度だけは許してやろう。
しかし、また同じことを繰り返したら
二十べんでも私は遠慮をしないでお経を読むよ」
「二十べんでも三十べんでも、
お師匠さまのお好きなように」
と悟空は答えた。
「ただはっきり言えることは
私が殺したのは人間じゃないということです」
妖精は死屍を地上に残して行ったが、
それは「解屍法」という方法で、実は死んでいなかった。
生命からがら脱け出して中空へ逃げ出したものの、
鼻の先までおちて来た食べ物を
さらわれたのが無念でたまらない。
「話にはきいていたが、なるほど大した猿だ。
しかし、このまま尻尾をまいて逃げたんでは
こちらの顔が立たん。
よしよし。今度はこの手で苦しめてやれ」
化け物は何を思いついたか、揺身一変、
今度は一人の老婆に化けた。
見るからによぼよばした腰つきで、
優に八十歳を越えて見える。
その老婆が竹の杖にすがって
泣きながら歩いてくるのである。
八戒がそれを見つけて、
「お師匠さま。大へんだ。
きっとお袋さんが娘をさがしにやってきたに違いない」
「何をそんなにあわてているんだ」
「兄貴が殺したのはきっとあの婆さんの娘だよ」
「バカをいうなよ」
と悟空は落着いていた。
「あの女は十八歳で、この婆さんは八十歳にはなるだろう。
六十すぎてもまだメンスのある女なんてあるものか。
あれば、それこそお化けだ」
悟空が顔をあげると、痩せ衰えて枯葉のようになった
老婆があっちへふらふらこっちへふらふらと
危かしげな足取りで歩いて来る。
三蔵たちが見とれているすきに、
悟空はすばやく如意棒をとり出した。
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