一 遂に分裂
「あッ」
と叫ぶ間もなかった。
物も言わずに如意棒をとりあげた孫悟空は、
一撃のもとに老婆を打ち倒してしまったからである。
妖精はいち早く逃げ出したが、
化けた老婆の死体をそのまま道端に残しておいた。
驚いて馬からとびおりた三蔵法師は
死体を前に茫然と立ちつくしている。
やがて我にかえすぐに緊箍児経を唱え出した。
可哀そうに悟空は頭をひょうたんのように抱えて
のたうちまわったが、
三蔵はどうしても途中でやめようとしない。
「お師匠さま。お師匠さま。助けてくれ。
頼むから、やめてくれ。話せばわかることです」
「どこかの総理大臣のような口をきくな!」
と三蔵は眉を逆在てて怒鳴った。
「出家はつねづね人のいうことに耳を傾けるだけの
おおらかさがなければならない。
それなのにお前は
私のいうことに耳をかたむけるどころか、
事ごとに反対のことばかりやる。
罪もない人間を殺してもまだあき足らず、
言っている矢先にまたやるとは何事だ!」
「こいつは人間でなくて、化け物ですよ」
「デタラメをいうな。
この世の中にそんなに化け物が沢山いてなるものか。
お前は自分がよこしまな考えを持っているから
誰でも化け物に見えるんだ。化け物はお前自身だ」
「そりゃもちろんおっしゃる通りです。
だけど今は隠退をして、化け物の取締役になったのです。
永年この道で飯を食ってきたおかげで、
化け物を見る目は持っていますよ」
「それなら化け物協会の審議会員にでもなるがいい。
もう私はお前のような弟子は要らないよ」
「また出て行けとおっしゃるのですか?」
「そうだ。どこへでも消えてなくなるがいい」
「消えてなくなれというなら、
いつでも消えてなくなりますがね」
と悟空もムキになって言った。
「ただ一つ、
このまま出て行くわけには行かない事情があるんです」
「どんな事情だ?」
「そりゃ言わずと知れたこと、
退職金をくれと言っているのですよ」
とそばから八戒がちょっかいを出した。
「兄貴はお師匠さまについて
何年も働いて来たじゃありませんか。
途中で馘にするなら、
それ相応の涙金を出すのが福祉国家の常識ですよ」
「そんなことを言ったって、
私は営利が目的で、この事業をやっているわけじゃない。
それにこの通り私は無一文だよ」
「ハハハハ……」
と八戒は笑った。
「今の世の中に
そんな理窟が通用すると思っているのですか。
兄貴がお師匠さまの処分に不服で、
化け物協会に応援を頼みに行ったらどうします?
私たちだって今日は人の身、明日は我が身、
お師匠さまの肩ばかり持つわけには行きませんよ。
だから古着だとか帽子だとか、
猿のほしがりそうなものを二つ三つ投げ与えて
穏便に片づけた方が身のためですね」
「黙れ!」
と悟空は我慢がならなくなって怒鳴った。
「だまってきいていりゃ減らず口を叩きやがる。
俺が慾張りなら
はじめから坊主なんぞになったりするものか」
「慾がないのなら、何故、だまって出て行かぬ」
とすかさず三蔵は言った。
「まあ、きいて下さい。お師匠さま」
と悟空は三蔵の方へ向きなおった。
「今はこうしてお師拝さまのお供をしていますが、
これでも五百年前は花果山水簾洞を居城にして、
七十二洞の妖魔に参勤交代をやらせ、
四万七千の旗本ザムライを擁していたのです。
あの頃は頭に紫金冠をいただき、
身に赭黄色の錦衣をまとい、腰に藍田帯をつけ、
足には歩雲履を穿いていました。
それが今はどうです。
頭を剃って坊主になったのはまあ、
望むところとしても、
緊箍児などというへンテコなものを
頭にかけられてしまいました。
こんな恰好でどうして故郷の人に顔向けが出来ましょう?
ですからもしお師匠さまが私を破門なさるのなら、
この金の輪をゆるめるお経をよんで下さい。
そしたら、この輪はお返し致しますから、
これと思う男を見つけて、その男の頭にかぶせて下さい」
それをきいた三蔵はびっくり仰天してしまった。
「悟空や。
私は観音菩薩から緊箍児経を伝授してもらったが、
緩箍児経は教えていただかなかったよ」
「しかし、私は何年も
お師匠さまのお供をしてきたではございませんか。
サラリーなしはいいとしても、
退職後の自由までないのはあんまりです」
「お前のいうことももっともだ。
でも本当に私は知らないんだよ」
「それなら私は辞令をご辞退致します」
結局、三蔵は追放令を撤回するよりほかなかった。
「じゃ今回は勘弁してやるが、
もう二度と乱暴な真似はするなよ」
「ハイ、わかりました」
悟空はついていた膝をおこすと、
三蔵法師を馬上に扶けあげた。
さて、
老婆に化けていた妖精は第二撃でもまだ死ななかった。
「さすがは音にきく猿王だわい」
と中空へ逃げながらも、
妖精は感嘆の言葉を禁じ得なかった。
「しかし、このまま指をくわえて、
あの一行が逃げ出すのを
見守っているという手はないだろう。
ここの縄張りを越えてから
ほかの化け物にでもさらわれたら、
それこそ世間の物笑いのタネだからな。
よしよし、あの手で行かなけれは、この手で行こう」
妖精は再び山道へおりると、
揺身一変、今度はよぼよぼの老人に化けた。
手に数珠を握り、
ロに阿弥陀経を唱えながら歩いてくるその姿は、
さながら蓬莱仙境の寿星翁である。
「ナムアミダー」
と三蔵法師は忽ち調子を合わせながら、
「西へ行けば行くほど人間は信心深くなるものと見える。
有難いことだ。見なさい。
あのお爺さんは歩くのもやっとだというのに、
口ではまだお経を唱えているではないか」
「お師匠さま。有難がるのは早すぎますよ。
いよいよ、大へんなことになってきたではありませんか」
と八戒が顔色を変えて叫んだ。
「何が大へんなんだね」
「あれは娘や婆さんを探しに出て来たところですよ。
もし兄貴があの二人を殴り殺したことがバレたら、
お師匠さま、あんたはしばり首で、
私はさしずめ強制従軍、
沙悟浄の島流しはまず免れませんぜ。
そして、
兄貴一人が蚊かトンボにでも化けてさあっと逃げ出し、
あとは涼しい顔というところでしょう」
「バカヤロー」
と悟空は声を大にして怒鳴りつけた。
「お師匠さまが天下無頼の臆病者だってことを
お前は知らんのか。待て待て。
俺が行って様子を見てくる」
悟空は手の中に如意棒をかくし持つと、
一人だけ先に立って駈け出して行った。
「これはこれはご老体。
どちらへおいでになるところです?」
悟空が丁寧に挨拶をすると、
「私はこの土地に住む者ですが、娘が朝から出かけたのに、
まだ戻って来ないので、心配になって探しに参ったのです」
「ハハハ……」
と悟空は笑った。
「お前はうちの師匠をだますことは出来るかも知れんが、
俺をだますことは出来んぞ」
「ナ、ナ、ナンのことです?」
「いや、今日が年貢の納め時だと言っているのだ」
悟空はすぐにも一撃をくらわせたかったが、
三蔵にまた緊箍児経を読まれるのかと思うと腕が鈍った。
しかし、ここで手控えたばかりに、
もし三蔵をさらわれたら、
もっと大へんなことになるぞとも思いかえした。
「よし。こうなったら、俺も男だ」
悟空は呪文を唱えて土地神を呼び出すと、
妖精が中空へ逃げ出せないように監視せよと命じた。
それから、如意棒をふりかざすと、
「えいッ」
と一撃をくらわせたのである。
「やあやあ。兄貴がまた人殺しをしたぞ」
と八戒は大声で叫んだ。
「一日に三人も人殺しをするなんて、
いよいよ精神病院行きだ」
三蔵が緊箍児経を唱えようとすると、
悟空はあわててその前にとんで行って、
「お師匠さま。あれを見て下さい」
三蔵が経をあげると、
たった今、死んだ筈の老人が
一具の白骨になって目の前に横たわっているではないか。
「おお。これはどうしたことだ!」
「だから言ったじゃありませんか。こいつは化け物だって」
見ると、
白骨の背骨には「白骨夫人」という字が浮んでいる。
「うむ」
と三蔵は小さく唸った。
それを見ると、八戒が素早く三蔵の袖をひいた。
「お師匠さま。猿の言葉を真に受けてはいけません。
あれは人を殺しておいて、
お師匠さまに叱られるのが怖いので、
あんな具合にしてしまったのです」
八戒は美人を殺されたのが無念でたまらない。
そう言われると、
根が善良な三蔵法師は忽ちまたよろめいてしまった。
「お師匠さま。お師匠さま」
三蔵が再びお経を唱え出すと、悟空は悲鳴をあげた。
「何故、茶坊主のいうことに耳を傾けて、
忠臣の言葉を信用しないのです?」
「何でお前が忠臣なものか。
この山の中で人殺しをしても、知っているのは、
大と地とそれから我々だけだからいいようなものを、
もしこれが町中なら、
私はいくつ生命があっても足りんだろう。
お前のような悪党とは今日限りさよならだ」
「お師匠さま」
とさすがの悟空も真剣な表情になって言った。
「それはあなたの誤解というものです。
こいつは明らかに化け物で、
あなたに危害を加えようとしていたのです。
だから私は先手を打って、あなたを救ったのです。
だのにあなたは茶坊主の讒言きいて、
私を追っ払おうとばかりなさる。
三度追っ払われても、まだ出て行かなかったら、
私はそれこそ私知らずでしょう。
だから残念だけれど、私は出て行きます。
そうです、お望み通りとっとと消えてなくなりますよ。
ああ。だけど、私がいなくなると、
あなたのもとにはもう人がいない。
あなたの努力もやがては水の泡だ」
「無礼者!」
と三蔵法師は声を荒げて怒鳴った。
「世の中でお前ひとりが人間で、
八戒や悟浄は人でなしとでもいうのか。
お前のような奴がこの世から消えてなくなっても、
地球は相変らず廻っているわい」
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