毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第3巻 出たり入ったりの巻
第二章 出て行けと言うなら

二 山河ありき

「ああ」
と思わず悟空は長大息をした。

自分の誠意を人に知ってもらうのは何と難しいことだろう。
誠意は必ず人を打つというのは嘘ッぱちだ。
誠意が通ずるためには何よりもまず相手が
誠意と不誠意の見分けがつく人間でなければならない。
また相手が他人の言動によって
動揺するようであってはならない。
俺は三蔵法師に助けられて両界山の石牢を出たが、
それ以来、三蔵のために山を分け入り、
谷をよぎり、化け物を退治したり、
八戒や悟浄のような弟子さえ見つけ出してやった。
三蔵が少しばかり読者からチヤホヤされるのも、
もとをいえば、この俺のせいじゃないか。
それなのに、自分が二枚目としてすこしばかり売り出すと、
もうお前なんか要らないという。
鳥尽きて弓蔵われ、狡兎死して走狗煮らるとはこのことだ。
えいッ。どうともなれや。汽笛一声闇の中……だ。

しかし、ふと手でおさえた頭には
依然として黄金の輪がはまっていた。
それを見ると、
悟空が何も言わないうちに三蔵が先手を打って、
「私はもう緊箍児を読まないことにするよ」
と言った。
「さあ、どうですかね」
と悟空は首をかしげながら、
「そりゃ平穏無事で、馬の背で居眠りの出来る時は、
 私のことなど思い出しもしないでしょう。
 でも悪魔の手におちいって、
 八戒や悟浄ではどうにもならない時はどうします?
 窮余の一策で、あなたがお経を読み出せば、
 十万里離れて居ようとも、私の頭は痛むのですよ。
 困った時になってから私を呼ぷぐらいなら、
 最初から私を追っ払わない方が
 身のためと思うのですがね」

そう言われると、さすがの三蔵も色をなして怒り出した。
「悟浄や。荷物の中から紙と筆を出しておくれ」

悟浄が紙と筆をとり出すと、
三蔵はさらさらと破門状を書いて、悟空の前につき出した。
「さあ、もう二度とお前の顔は見たくない。
 もし私が約束を破ったら、私は地獄へおちてもかまわん」
「お師匠さま。誓いを立てることはありませんよ。
 私が出て行けばいいのでしょう」

破門状を袖の中へしまい込むと、
悟空は俄かに柔和な表情になって、
「長い間、雨にも負けず風にも負けず、
 苦労を共にしてきたのに、
 こんな形で喧嘩別れになるのは本当に情ない。
 せめて別れ際ぐらいは私にもう一度顔を拝ませて下さい」
「悪党に拝んでもらう顔なんぞ持っちゃおらんよ」

三蔵が意地を張って背中をむけると、
悟空は頭のうしろから毛を三本抜いて、「変れ」と叫んだ。
すると、忽ちもう三人の悟空が現われ
四方から三蔵を坂り囲んだので、
三蔵はどちらを向いたらよいかわからない。

坐っていた地面からとび起きると、
悟空は沙悟浄の肩を叩いた。
「今はただお前を頼りにするよりほかない。
 八戒はあの通り嘘出鱈目を言って
 仲間をおとしいれる男だから、
 精々、気をつけて、お師匠さまを守って行ってくれ。
 万一、途中で化け物が出て来たら、
 お師匠さまには孫悟空という弟子がいるぞと言えば、
 向こうもおそれをなして少しは手控えるだろう」
「口が腐ってもお前の名前を使ったりするものか」
と三歳は冷ややかに言った。

この上はもう三蔵と袂を分つよりほかなかった。
悟空はただひとり涙をのみ込むと、
さあッと斗雲にとびのった。

雲は悟空の意志に反して反対の方向へ向って進んで行く。
遙か下界を見おろすと、潮騒の遠い響きが心にしみてくる。
三蔵法師のこと、過ぎ去りし歳月のこと、
自分の善への意志などを思い出すと、
思わず知らず涙がこぼれおちて来た。
「ああ、士は己れを知る者のために死す、
 というが、今は全くその気持だな」

無限の虚空にも似た限りない淋しさだった。
しかし、雲は悟空の気持を知らぬ気に
海の上を東へ東へと流れて行く。
ほどなく花果山に近い東洋大海が見えてきた。
「思えばもう五百年余りもこの辺を歩いたことがない。
 いつ見ても変らないのは故郷の山河だけだ」

悟空はしばし感傷的な気分に浸っていたが、
やがて花果山の上空へ到着した。
見ると、むかし緑に覆われ花に埋もれていた山のあたりは
煙も霞も立たず、見渡す限り一面の焼野が原である。
五百年前、彼があの顕聖二郎神君に捕えられた時、
洞窟を焼かれて灰燼に帰したそのままの姿なのだ。

飾る錦衣もなければ、
迎えてくれる故郷もないような凄絶な気持だった。
悟空が山の上におりて、ぼんやり立っていると、
草叢の中から七、入匹の小猿がとび出してきた。
「我等の大王ではありませんか?」
「やあ、まだ俺のことを覚えていたか」
と悟空は顔をあげて皆の者を見た。
「もう世の中は共産主義の時代になって、
 誰も王様のことなど
 思い出してくれないものとばかり思っていたが……」
「どうして、どうして」
と猿どもは一せいに口を揃えて言った。
「大王が天界に拉致されて行ってからこの方、
 花果山は天から見離されたも同然でした。
 誰もがむかしを思い出して、生き甲斐のあった
 あの佳き時代のことばかり懐かしがっています」
「そんなに悪政続きだったのか?」
「悪政も悪政。
 いっそ共産かファッショかどっちかへ徹底すれば
 まだましだったのですが、
 東西冷戦の犠牲になって内憂外患あいついで起り、
 もう誰もお互に人を信用しなくなっでしまったのです。
 世も末ですよ」

それをきくと、悟空はますますみじめな気持になった。
「して、今はどのくらいの者が生き残っている?」
「そうですね。てんでんバラバラに生きていますが、
 全部合わせても恐らく千を出ないでしょう」
「ウム」
と悟空は大きく唸った。
「俺がこの国を治めていた頃は
 旗本八万騎とまでは行かなかったが、
 とにかく、話半分の人数はいた。
 それがどうしてこんなにさびれてしまったのだ?」
「あの大戦の絨毯爆撃で
 大半が焼き殺されてしまったのです。
 我々のように井戸の中や鉄橋の下にかくれたものは
 辛うじて一命をとりとめましたが、
 ご覧の通り敗戦後の食糧難と住宅難で、
 若い元気のある者は皆、海外移民に行ってしまうし、
 残った者も猿狩りにあって、このていたらくなんです」
「猿狩りつて、猿をつかまえてどうするんだ?
 料理にでも使うのか?」
「ええ、一頃は猿の脳味噌が天下の珍味だといって
 盛んに食べたらしいんです。
 何でも生捕りにしたのを生きたまま頭を割って
 脳味噌を抉るとか」
「うーむ」
「そればかりではありません。
 近頃は動物実験に使うとかで、
 西牛賀洲から大量に買いに来ているそうです。
 それで猿狩りがますます大規模化して、
 このままの状態では今に猿族が絶滅しかねないと
 国際間題化しているのですが、
 それでもまだ密猟が絶えません」

きけばきくほど向っ腹の立つ話である。
いつまでもセンチメソタリズムに酔っているわけには
行かなくなった。
「洞中では今、誰が政権を握っている?」
と悟空はきいた。
「馬元帥と流元帥、それから奔将軍と巴将軍の四人です」
「そうか。俺が帰って来たと知らせて来い」

猿どもが大急ぎで知らせにとんで行くと、
四人の実力者たちはあわてて洞門の外まで迎えに出て来た。
「これはこれは、ようこそお帰りになりました」
と四人の者は口を揃えて言った。
「大王が三蔵法師と共に西方へおいでになったと
 風の便りにきいておりましたが、
 どういうわけでお帰りになったのでございますか?」
「三蔵法師と大喧嘩をしてしまったのだ」
「へえ。それはまたどうして?」
「話せば長いことだが、
 要するに三蔵法師は人を見る目がないのさ」
と悟空は吐き出すように言った。
「それじゃもう坊主は廃業ですか?」
「非自発的失業という奴さ。
 猿はやっばり猿の世界に生きるよりほかあるまい」
「万歳!」
「万歳!」
と集まってきた猿どもはてんでに歓声をあげた。
「そうですよ。大王。
 もう一度、我々の国を建てなおして下さい。
 歴史始まって以来の大敗戦で、
 我が国には民主主義だとか進歩的文化人だとか
 色んな思想や化け物が流行しましたが、
 もうそろそろあきられてきました。
 ちょうどそんなところへ大王がお帰りになられたのも
 何かのご縁でしょう。
 やっばり上に万乗の君をいただかなくては
 強力政治はやれませんよ」

猿どもは口々に祝賀会を開こうの、
提灯行列をやろうの、と唱え出したが、悟空は、
「待て、待て」
と皆の者を制した。
「酒を飲む前にまず仇討ちだ。
 さっき猟人が来ると言っていたが、
 一体、いつごろ、ここへ現われる?」
「しょっちゅうやってきますよ」
「しかし、今日は見えないではないか?」
「いや、今に見えます」
「じゃ、お前たち、
 これからすぐ小石や砂利を集めてくれぬか?」
「小石や砂利をどうするのです?」
「俺に考えがある。お前たちは黙って見ていろ」

いわれた通り猿どもが小石や砂利を積みあげた頃、
猟師が隊を組んで山の南側から登ってきた。
見ると手に手に刀や槍を握り、犬や鷹を従えている。
銅鑼や太鼓を鳴らしながら
威風堂々と入ってきたのを眺めた悟空は、
怒髪冠を衝かんばかりの形相になって、
ロに風を吸い込むや、フーとばかりに吐き出した。

すると見よ。
突如として一陣の狂風が巻き起り、
木は折れ、海は吠え、小石や砂利は弾丸の如く
猟師の大群の中へと乱れとんで行くではないか。
哀れ。哀れ。さしもの金銭亡者も
人亡び馬死して花果山の朝露と消えて行ったのである。
「アッハハハハ……」
と悟空の笑い声だけが山にこだまし続けた。
「三蔵法師の奴、俺にうまいことを言ったわい。
 千日善を行ってもまだ足らず、一日悪を行えば、
 なお余りあり、だとさ。
 化け物を一人や二人殺してもクドクドと説教されたが、
 今日は一日で五百年たまっていた鬱憤を
 一挙にして吐き出したぞ。
 ざまあ見やがれ。アッハハハハ……」

2000-11-16-THU

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