毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第3巻 出たり入ったりの巻
第二章 出て行けと言うなら

四 サイノロジスト

一方、八戒を探しに林を出た沙悟浄は西へ西へと向ったが、
十数里歩いても村里ひとつ見当らない。
小高いところへあがって四方を見渡していると、
どこからともなくグウスカグウスカと
高いびきをかいているのがきこえてきた。
驚いて草をかきわけると、
何と八戒が草の中に埋もれて
正体もなくねこんでいるではないか。
「おい、こら」
と悟浄がブタの耳をつかまえてひっばった。
「アイタタタ……」
「会いたいも会いたくないもあるものか。
 誰がここで道草を食えと言ったんだ」

目をさました八戒はびっくりして、
「おい、今、何時だ?」
「早く起きろよ。
 お師匠さまは食べ物はなくてもいいから
 早く戻って来いと言っていたぜ」

八戒は大儀そうに身体を起すと、
やおら熊手を担いで悟浄のあとについて松林へ戻ってきた。
しかし、さっきまで三蔵のいたところには
馬と荷物がのこしてあるだけである。
「お前が帰って来ないからこんなことになったんだ。
 お師匠さまは俺たちの留守の間に
 化け物にさらわれてしまったのかも知れないぞ」
「そんなことがあるものか。
 大方、松風に誘われて野の花でも見に出かけたのだろう。
 どれ、二人で探しに行って見よう」

二人は馬をひき、荷物を背負うと、松林から出て来た。

三蔵法師のいそうなところをあちらこちら歩いて見たが、
呼べど答えず探せど姿は見えない。
そのうちに陽が落ちかかって、
さっき三歳の目に映ったように
キラキラと宝塔の屋根の輝くのが二人の目に映った。
「やあ。あすこを見ろよ」
と八戒が叫んだ。
「食い違のある奴はどこまで行っても食い運があるぞ。
 お師匠さまはきっとあすこへ行って
 歓待を受けているに違いない。
 俺たちも早く行こう」

沙悟浄はまぷしそうに宝塔の屋根を眺めていたが、
「お寺ならいいが、あすこはどうも化け物屋敷のようだ」
「化け物屋敷だっていいじゃないか。
 飯にさえありつけたら」

八戒は悟浄の袖をひっばるようにして、
門前までおりて来た。
「ありゃ。門がしまっているぞ」

見ると、門の上の白い右に「碗子山波月洞」と
横書きに六文字刻まれている。
「やっばり妖怪変化の洞窟だ。
 仮にお師匠さまが中にいるとしても、
 簡単に会えないかも知れないぞ」
「かまうことはあるものか」
と八戒は熊手をとりなおすと、
「お前は馬と荷物の番をしていてくれ。
 俺がちょっと様子を見てくる」

八戒は門前に進み出ると、
「門をあけろ」
と怒鳴った。

のぞき窓をあけた小妖怪はあわてて奥へとんで入って、
「大王。押売りがやって来ました」
「押売りはどこに来ている?」
「玄関の方です。
 それも二人組で、一人は耳の長いトンガリ口で、
 もう一人は苦虫をかみつぶしたようなムッツリ男です」
「ウム。さては猪八戒と沙倍浄に相違ない。
 それにしてもよく俺の住家を探しあてたものだ。
 よしよし。俺の鎧兜を持って参れ」

妖魔は鎧兜に身をかためると、
手に大刀をふりかざして洞門を悠々と出て来た。
「誰だ。その辺でウロチョロしているのは!
 俺の家ではゴム紐は要らねえぞ」

二人が声のする方を見ると、
赤い髪の毛に赤い髭。
黄色い衣に黄金の甲冑を着た黄袍老怪である。
「お前のおやじの見分けもつかねえのか。坊やちゃん」
と八戒がカラ元気をふるいおこして叫んだ。
「誰あろう、俺はお前のおやじの猪八戒だ。
 つべこべ言わんと、三蔵法師をここへ出せ。
 さもないとこの熊手に物見せてくれるぞ」
「アッハハハ……」
と怪物は腹を抱えて笑いながら、
「いかにも唐の坊主は我が家に来てござる。
 腹が減っているというから、
 さっきも人肉饅頭をご馳走したが、
 お前らも食いたかったら、奥へどうぞ」

八戒の食いしん坊奴、
ご馳走ときいて、すぐにも中へ入ろうとしたが、
沙悟浄があわててひきとめた。
「兄貴。あいつはお前をからかっているんだぜ」
「うむ。そうか」
やっと気がついて、八戒は大あわてで熊手をふりあげたが、
それより一瞬早く身をかわした黄袍老怪は
大刀をふりあげると、逆に八戒に向って襲いかかってきた。

八戒がいささか形勢不利になると、
沙悟浄も助太刀に加わったが、
二人を相手にしても妖魔は些かもひけをとらない。

三つ巴になって三人が大決戦をやっているのも知らないで、
洞窟の中に縛られた三蔵法師は、
悲々切々として我が身の不幸をば嘆き続けている。
「ああ。八戒よ。
 お前は今頃どこで何を食べているんだ。
 悟浄よ。お前はまだ八戒を探しあてていないのか。
 お前のお師匠さんはこの通り、
 もうすぐ饅頭のあんこにされてしまうんだよ。
 ああ。ああ……」

ポロポロと涙を流していると、すぐそばで、
「おや。どこの和尚さんかしら」
と女の声がした。
見ると、年の頃、三十歳あまりの女がそこに立っている。
「何だってこんなところに縛られているの?」
と女はきいた。
「今更、そんなことをきいて何の役に立つのです?
 間違えてこの家の門をくぐったのも私の運命なら、
 化け物の食膳にのぼるのも私の運命です」
「それじゃ黄袍郎につかまったのね」
と女は小さな声で言った。
「私は黄袍郎の女房だけれど、
 もともとはこの家の者ではありませんわ。
 だから人の肉なんか食べたりしませんわ」
「じゃあなたは誰です?」
「私はここから西へ三百里ほど行ったところにある
 宝象国の第三王女です。
 子供の時の名前を百花羞と申しますの」

女はちょっとうつむいて悲しそうな顔をした。
「思えばもう十三年も前のことですわ。
 八月十五日の月の美しい晩でした。
 腰元たちにつきそわれて夜の庭を歩いていたら、
 突然、一陣の狂風が吹いてきて、
 あれよあれよと思う間に私をさらって行ったのです」
「じゃあ、あなたも私と同じ身の上?」

女は黙って頷いた。
「あれから十三年。
 つい昨日のことのように思うけれど、
 もう十三年にもなるのね。
 子供だって上の子はもう十二歳になるんだもの。
 父や母はどうしているかしら?」
「全然消息がないのですか?」
「私がどこにいるかさえ知らないわ。
 ね、あなたはどこから捉えられてきましたの?」
「私は唐の国から西方へお経をとりに行くものなのです」
と三蔵がこれまでの経過を話した。
「あら。お経をとりに行く人なの」
と急に女は微笑を浮べながら、
「それならば、
 あなたを助けてさしあげられるかも知れないわ」
「どうしてお経をとりに行くものなら
 助けて下さるのです?」
「まあ、だまっていう通りになさい。
 その代り私の手紙を一通、
 父のところへ届けて下さいます?」
「ええ、よろしゅうございますとも」

女は奥へ引込んで素早く手紙を書きあげると、
密封をして出て来た。
それから三蔵の縄をほどいて、
「じゃこの手紙を必ずお願いしますよ」

三蔵は手紙を懐中にしまい込むと、
やにわに洞門を出て行こうとした。
「待って!」
と女はあわてて三蔵をよびとめた。
「表門では今、
 あなたの弟子たちとうちの人が大合戦をしていますわ。
 あなたは裏門からお逃げなさい」

女は三蔵法師を裏門から逃がすと、
自分は表門の方へかけて行って、
「黄袍郎! 黄袍郎!」
と大声で呼んだ。

中空で八戒、悟浄と戦っていた妖魔は女の声をきくと、
「待て待て。女房が呼んでいるから戦争は一時休止だ」
「こら、逃げるな」

二人はあとから追っかけたが、
妖魔は二人をグッと睨みつけると、
「女房が呼んでいるというのに、
 お前たちの相手をしておれるか」
「手放しでノロける奴があるか」
と悟浄が言いかえすと、八戒は、
「武士の情だ。しばらく待ってやれ」
「うむ。猪八戒はなかなか話せるぞ」

妖魔はニヤリと笑うと、そのままあとすざりをして、
女のところまで戻って行った。
「何だね。私の可愛い人!」

女の顔を見ると、
妖魔は目を細めて急にやさしい言葉になった。
「ね、あなた」
と女は妖魔の腕にもたれかかりながら、
「さっき、家の中でうつらうつらしていたら、
 夢を見てしまったの」
「どんな夢だね」
「坊さんが一人やってきて、
 十三年間、野合だった私たちを
 父にとり結んで下さるんですって。
 私たち天下晴れて正式の夫婦になれるかも知れないわ。
 ね、あなた、嬉しくない?」
「ウム、ウム、」
と妖魔は戦争などどこ吹く風ときき惚れている。

2000-11-18-SAT

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