二 怒れ悟空
「こりゃいけねえ。この調子じゃ殺されかねないぞ」
八戒がブツプツ言っているうちに、
早くも水簾洞の入口までひき立てられてきていた。
「こらッ」
と悟空は崖の上から声をはりあげた。
「かげにまわって俺の悪口をいうとは何事だ、
この糠食い野郎!」
「俺は兄貴の悪口を言った覚えはない」
と八戒は地に頭をすりつけんばかりにして、
「俺が兄貴の悪口を言ったのなら
舌をかみ切って死んでしまってもいい。
俺はただ兄貴が行かないなら、
その通り報告すると言ったまでのことだ」
「嘘をつけ。俺のこの耳を見ろ。
俺のこの耳は三十三天の有閑マダムが
何を喋っているかさえ皆きくことが出来るし、
俺のこの右の耳は
地獄で十代閻王や判官がどんな算盤をはじいているか、
皆きくことが出来るんだぞ。
それでも俺をだませると思っているのか」
「兄貴、わかったよ」
と八戒は急におとなしくなった。
「どうせお前の頭の中にはろくな考えは詰っておらん。
大方、また何かに化けて俺のあとを尾行したんだろう」
「さあ、棍棒を持って来い」
と悟空は手下の者に向って叫んだ。
「まず前から二十回、それから背中を二十回ぷんなぐれ、
地獄へは俺がこの鉄棒で送り届けてやる!」
「助けてくれ!」
と八戒はびっくりして叫んだ。
「お師匠さまの顔に免じて俺を許してくれ」
「お師匠さまは情深い奴だったからな」
と悟空は皮肉たっぷりに言った。
「お師匠さまじゃない、観音菩薩の顔に免じてだ。
助けてくれ」
観音菩薩の名前をひきあいに出されると、
さすがの悟空もいささかたじろいだ。
「じゃ本当のことを言うか?
お前がここへやって来たのは
三蔵法師が災難にあっているからだろう?」
「いや、災難にあっているなんてことはありません。
兄貴のことを思っているんです」
「この野郎。まだ俺をからかうつもりか。
俺はこうして水簾洞へ戻って来たが、
心はお経をとりに行く人のあとを追っているんだぞ。
早く本当のことを白状したらどうだ?」
「兄貴はやっばり偉いな」
と八戒は頭を地にすりつけながら、
「俺は兄貴をだまして連れて行くつもりだったが、
兄貴の読みがこんなに深いとは知らなんだ。
本当のことをいうから俺を立たせてくれないか?」
「よし、起きるがいい」
まわりにいた猿どもが手をはなすと、
八戒はとび起きてあちこち見まわしている。
「ウロチョロ何を覗いているんだ?」
「ハハハ……。
どの道から逃げたらいいか偵察しているところだ」
「どこへ逃げるんだ? 逃げたかったら逃げて見るがいい。
何なら三日間の余裕を与えてやってもいいぜ。
お前がどこへかくれても必ずひきずり出して見せるから」
「兄貴の腕前についちゃイヤというほど知っているよ。
だからこうしてわざわざここまでやって来たんだ」
そう言って八戒は黄金宝塔で黄袍怪に会ったことから、
宝象国で三歳法師が虎にされてしまったいきさつまで
事細かに述べた。
「兄貴が仁義に厚い、
ちょうど浪花節に出て来るような立派な男であることは、
われわれの間では定説になっているよ。
義を見て為ざるは勇なきなりじゃないか」
「しかし、この本の読者は浪花節なんか軽蔑しているぜ」
「かまうことはありゃしない。
ぐずぐずしているうちに三蔵法師が
くたばってしまったら、話が途中できれてしまって、
元も子もなくなってしまうぜ」
「それもそうだ。しかし、袂を分った時、
俺はあれほど口を酸っぱくして言ったじゃないか。
もし化け物が出て来て
お師匠さまをつかまえそうになったら、
この孫悟空が弟子だと言えと。
何だってその通りにしなかったんだ?」
「うむ。こいつはしめたぞ」
と八戒はうまいところに気がついた。
仁義礼智信が駄目なら怒らせるという手がまだ残っている。
そこで八戒は大袈裟に両手を動かしながら、
「もちろん俺は兄貴の名前をひき合いに出したさ。
しかし、結果から言えば、
言わざるは言うにまさる、だったぜ」
「何だって?」
「俺はこう言ったんだ、
やい、化け物、俺の師匠に指一本でもふれて見ろ、
俺たちにはもう一人孫行者いう兄弟子がいて、
天下無双の神通力を持っている、
兄貴が来た日にゃお前のようなへナチョコは
死体を埋める墓地にもありつけなくなるぞ、とね。
そうしたら、奴は何と言ったと思う?
何の孫行者如きが怖くて化け物業がつとまるか。
奴が来たら、俺は奴の皮を剥いでやる、
筋をぬきとって骨までしゃぷってやる、
もし痩せ猿なら天プラにして
ボンとこの通りロの中へ入れてやるわい、
とこう言うんだよ」
はたして悟空は烈火の如く怒り出した。
「誰だ、俺のことを悪し様に言う生命知らずは?
「まあ、そう怒ることはないよ。
ひょっとしたら兄貴だって
あの黄袍怪には敵わないかも知れんのだから」
「バカを言うな。
売られた喧嘩を買わないようでどうして男が立つ?
さあ、俺と一緒にこれからすぐに行こう。
五百年前に天宮を荒らして神々から大聖大聖と
怖れられたこの俺の腕前を見せてくれる」
「そうだ、そうだ。仇も討てないようじゃ、
斉天大聖がきいてあきれらあね」
悟空は洞の中へ入って僧衣に着かえると、
再び洞門の外へ出て来た。
「そんな恰好をなされて、
どちらへお出ましでございますか?」
手下の猿どもはロを揃えてきいた。
「これから三蔵法師のところへ行く」
「でも大王は
あの方と仲たがいをされたんじゃありませんか?」
「そんなことは小さな問題だ。
俺が三蔵法師の弟子だということは天下周知の事実。
その三蔵が進退谷まっている時に俺が見殺しにしたら、
俺はそれこそ天下の笑い者にされる。
俺はこれから行ってくるから、
お前たちは俺の言いつけをよく守って
しっかり留守番をしてくれ」
そう言って悟空は八戒と一緒に雲を駕すると、
忽ち東洋大海を越えて、その西岸へ着いた。
「おい、兄弟。
ちょっと海へおりて身体を洗うから待ってくれんか?
「身体を洗うって。この忙しい時に」
「そうだ。何しろ俺は坊主を休業していた間に
俗気が身にしみ込んでしまったからな。
まず俗気をきれいに洗いおとさないことにゃ、
お師匠さまに顔向けが出来んよ」
どうやら悟空は、
ただ黄袍怪に一矢報いるだけの気持ではなさそうである。
身体を清めると、二人はまた雲に乗って西へ進んだ。
程なく二人の眼下に金塔が見えてきた。
「あれが化け物の家だ。
沙悟浄はあの中にとじこめられている筈だ」
「よし。お前はここで待っていろ。
俺が家の様子を偵察して来る」
「中へ入ったって仕方がないよ。
どうせ化け物は留守なんだから」
「わかっているよ」
悟空は頷きながら雲をおりると、洞門の前へ下り立った。
見ると門前で二人の子供が羽根をついて遊んでいる。
一人は年の頃十歳でもう一人は七、八歳。
「ハハン。こいつらが化け物の子供だな」
遊びに夢中になっている二人の子供のそばへ近づくと、
悟空はいきなり手をのばして襟首をつかまえた。
子供がびっくりして泣きわめくのをきいて、
小妖怪どもが奥へ駈け込んで行く。
「奥様。大へんです。
坊ちゃまが誰かに誘拐されて行きました」
色を失った王女が大急ぎでとび出して行くと、
門前の崖の上で孫悟空が二人の子供を抱きかかえている。
子供たちは足をジタバタさせているので、
今にも下へおちそうだった。
「何をなさるんです!」
と王女は鋭い声をあげて叫んだ。
「あなたと私は恩も恨みもないのに、
何だって私の子供をさらったりするのです?
子供たちの父親がタダじゃおきませんよ」
「俺を知らないか」
と悟空は言いかえした。
「三蔵法師の大徒弟孫悟空とは俺のことだ。
お前の家の中に俺のおとうと弟子の沙悟浄がいるだろう。
奴を離してくれたら、この二人の子供をかえしてやろう。
二人で一人と交換なら悪い根引じゃあるまい」
「ちょっと待って」
話をきくと、王女は急いで洞門の中へ戻り、
小妖怪どもに手伝わせて沙悟浄の縄をほどきはじめた。
「王女さま。私を助けて下さらなくてもいいのです」
と悟浄はあまり嬉しそうな顔もしないで言った。
「私を逃がしたことがわかったら、
あなたはまたひどい目にお会いなさいますよ」
「あなたは私の生命の恩人です。
機会があったら、あなたを放してやるつもりだったけど、
ちょうど、いま外に孫悟空という
あなたの兄弟子さんがきているのですよ」
ああ。孫悟空という三字をきいただけで、
沙悟浄は暗闇の中へ突如、
光が射し込んで来たような気がした。
あわてて外へとび出して見ると、
悟空が崖の上に立っている。
「兄貴。まるで天から救世主がおりて来たみたいだ」
「ハハハハ……」
と悟空は笑いながら、
「お前は坊主かと思ったら、
尼さんみたいに意気地がないじゃねえか。
お師匠さまは女にはやさしいんだから、
ひとつ緊箍児経を読まれそうになったら、
俺のためによろしく取り結んでくれよ」
「君子は人の既往を咎めず、というじゃありませんか。
敗戦の将をひやかすのは少し残酷ですよ」
と悟浄は顔を赤らめて言った。
「まあ、あがって来いよ」
と悟空は微笑を浮べたまま催促した。
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