毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第3巻 出たり入ったりの巻
第五章 山高ければ谷深し

二 狡猿計あり

さて、国王たちの盛大な見送りを受けて
宝象国をあとにした一行が
一路西へ西へと旅を続けているうちに、
またしても花ひらく春の季節になった。

乱れ咲く花を眺めながら、日のすぎるのも忘れていると、
またしても高い山に行く手を遮られてしまった。

「やあ、見るからに妖怪変化の棲んでいそうな山だな」

三蔵法師が早くも戦々兢々としていると、

「お師匠さま。出家が家にいる時のような話を
 するものじゃありませんよ」
と悟空がこの時ぞとばかりに言った。
「烏巣和尚の心経にも書いてあるじゃありませんか、
 心二過チナシ、過チナクンバ、
 怖ルルモノナシ、妄想ニ遠シ、と。
 またこうも言うじゃありませんか。
 心ノ上ノ垢ヲ掃キ除ケ、耳ノマワリノ塵ヲ洗イ浄メヨ、
 苦シキ思イヲセズンバ、人ノ上ノ人ト為リ難シ、と」

「おやおや、すっかりお前にお株を奪われてしまったね」
と三蔵は苦笑をした。

「いや、決してそんなつもりじゃありませんが、
 この悟空がいる限りは、たとえ天がおっこちてこようとも
 心配することはありませんよ」

「しかし、仏の顔を拝みたい一念で
 長安をとび出してきたものの、いつになったら、
 閑日月を楽しむことが出来るようになるだろうな」
と馬のたづなをひきながら三蔵はつぶやいた。

「閑日月を楽しみたいんですか」
と悟空はすかさずやりかえした。
「それなら坊主を廃業して
 サラリーマンにでもなるんですね。
 サラリーマンには停年がありますが、
 坊主にはありませんからね」

二人がそんなやりとりをしている折しも、
草叢の中から一人の樵夫が立ちあがってきた。
樵夫は一行が西へ向って進もうとしているのを見ると、
「もしもし、どちらへおいでになるのですか?」

よびとめられて一行が足をとめると、

「その山の中には、東から西へ行く人間を専門に狙っている
 人喰い毒魔が棲んでいるのですよ」

それをきいただけで三蔵法師は早くも身ぶるいがして、
鞍からすべりおちそぅになっている。
「お前たちにきこえたかね、
 今、あの樵夫が言っていたことが?」

「心配することはありませんよ、お師匠さま。
 私が行って詳しいことをきいてきましょう」

そう言って悟空は一人で樵夫のそばへ近づいて行った。
「いいお天気だね」

悟空が話しかけると、樵夫も軽く会釈をかえし、
「どうしてまたこんなところへおいでになったのです?」

「我々は東土から西天へお経をとりに行く探検隊ですよ。
 あの馬上にいるのが隊長だが、
 胆っ玉の小さな隊長でね、
 さっきあんたがあんなことを言っておどかすものだから、
 あの通りもうびくびくしているだろう?」

「おどかしているわけじゃないですよ。
 あの山の上には人喰い魔が根城を張っているのです」

「そいつは面白いや。
 一体、何という悪魔で、何という名前の奴だ?
 専業の悪魔か、それとも日曜悪魔か、
 ひとつ詳しいところを話してくれませんか?」

「おやおや。あんたはちっとも怖がらないんだね。
 私が嘘を言っていると思っているのですか?」

「別に嘘だとは思っていないが、
 相手次第ではふんづかまえて
 とっちめてやらんこともない」

「そいつはまた話が大きいや。
 これまで無事、悪魔の張った網の目を
 くぐり抜けた奴は一人だっていないのですよ」

「えらく化け物の肩を持つじゃないか」
と悟空は言った。
「どうも話をきいていると、
 あんたは化け物の身内の者のようだ。
 身内でないとしても隣人か、
 でなきゃ友人といったところかな?」

「何という大きな口をきく坊さんだろう」
と樵夫は笑いながら、
「私はただ好意で教えてあげたまでのことなのに、
 私まで化け物の仲間にするとはすこしひどすぎますよ。
 まあ、それはそれとしても、
 一体どうやって化け物をつかまえ、
 どこへ連れて行くつもりかおききしたいものですね」

「一口に化け物といっても色々と種類がある。
 色魔、モモ斬り魔、仲人魔、貯金魔、トンマにへマ、
 マのついたものがいなくなってしまったら、
 世の中は間が抜けて
 天国みたいに退屈になってしまうわい。
 だから悪魔は全滅させてしまわないで、
 戸籍を調べて、それぞれそのところを得せしめる。
 たとえばトンマは天の恵みで生きるよりほかないから
 玉皇上帝の子分にすればいいし、
 貯金魔なら二宮尊徳先生の弟子にする
 という具合にやるのさ。
 俺は天界から冥府まで顔が売れているから、
 俺の名刺をつけさえすれば、
 どこの親分でも喜んでひきうけてくれるよ」

「だまってきいておれば、
 ますます話が大きくなって行くな」
 と樵夫は声を立てて笑い出した。

「銀座や新宿のチンピラをやっつけたことは
 おありかも知れんが、
 ここの化け物はそんな素人と
 わけが違って物凄い奴ですよ」

「どういう具合に凄いのかね?」

「この山は平頂山といって道程がおよそ六百里、
 山の中に蓮花洞という洞窟があって、
 二人の悪魔が住んでいます。
 何でも近く唐から坊さんが来るというニュースをきいて、
 モンタージュ写真まで用意して、
 何が何でもその人をつかまえるんだと言っているのです。
 だからほかから来たのならまだしも、
 唐の字が出たらそれこそ百年目ですよ」

「我等はまさしくその磨から来た坊主だ」

「へえ、ほんとですか?」
と樵夫は目をむいて悟空の顔を見た。

しかし、悟空は相変らず微笑を浮べながら、
「さて、一体その化け物は
 人間をつかまえるとどんな食い方をするのだろう?」

「どんな食い方をされたって、
 食われることに変りはないじゃありませんか?」

「いや、頭からガブリと一口にやられればまだいいが、
 足からだとちょっと困るな」

「そいつはまたどうして?」

「そりゃ頭から一口にやられれば、
 もうそれっきりだから、
 あとは炒められようと煮られようと
 こっちの知ったことじゃない。
 しかし、足からやられると、
 死ぬまで時間がかかるから大へんだ」

「そのことなら心配御無用ですよ。
 あの化け物たちはなかなかの美食家だから、
 なまのままかじるようなことはしません。
 多分、生捕りにして、
 生きたまま蒸籠の中で蟹か鶏でも蒸すように
 丸蒸しにするでしょう」

「そいつは有難いや。
 蒸気の中で蒸されるのなら
 トルコ風呂で修練を積んでいるから、
 少々気が遠くなるだけで、
 却って気持がいいだろう」

「しかし、ここの化け物はよその化け物と違って
 門外不出の新兵器を五つも持っているのですよ。
 たとえ無事に坊さんを通すことが出来たとしても、
 気を失うようなひどい目にあわないではすむまい」

「何回、気を失えばいいんだ?」

「少くとも三、四回はね」

「三、四回くらいなら大したことはないや。
 我々と来た日にゃ一年に七、八百回くらいは
 気を失っているんだから。アッハハハハ……」
 
悟空は些かも怖れる様子を見せず樵夫のそばを離れると、
三蔵法師のところへ戻ってきた。

「お師匠さま。大したことはありませんよ。
 何でも二人組のチンピラがいるそうですが、
 この辺の人は人一倍臆病なんでしょう。
 さあ、出かけるとしましょうか」

「おや、さっきの樵夫の姿が見えないではないか?」

「やあ、またしても白昼幽霊に出食わしたぞ」
と傍らで八戒が叫んだ。

「大方、林の中へ柴を刈りに入ったのでしょう。
 ちょっとたしかめて見ましょう」

悟空はさっきのところへ駈けもどって目を見ひらくと、
ちょうど山の上の雲の中へ、
天の当番軍曹がもぐり込んで行くところであった。

「この野郎め!」
と悟空は怒鳴りつけた。
「言いたいことがあったら
 直接俺に言えばいいじゃないか。
 何だってあんなシャラ臭い真似をしやがるんだ」

「いや、失敬、失敬」
と当番軍曹は正体を見破られたテレ臭さをかくしかねて 、
「とにかく、ここの化け物は大物ですぜ。
 死力をつくさないで山を越えようなんて
 虫のいいことを考えるのは間違いですよ」

「いらんお節介だ」

悟空は空へ向って悪態をつくと、
またもとのところへ戻って来た。
何も知らないで道を歩いている一行の後姿を見ながら、
悟空はひそかに考えた。

「こりゃもし俺が本当のことを打ち明けたら、
 お師匠さまのことだからきっと泣き出すぜ。
 といって何も知らせないで
 いきなり悪魔の洞府へ入って行って、
 悪魔のお料理の材料にでもされてしまったら、
 いい面よごしだ。……ウム。そうだ。
 ひとつ猪八戒の奴を先陣に立てて
 化け物と一合戦やらせて見よう。
 それで八戒がうまく相手をつかまえたら、
 八戒の手柄だし、反対に八戒が生け捕りにされたら、
 それから俺が出て行っても遅くはない。
 ……しかし八戒の奴、俺のいうことをきくだろうか。
 よしよし。俺の口から言わずに
 お師匠さまが自分から言い出すように仕向けてやれ」

悟空は目がしらをこすって涙をしぼり出すと、
皆のところへ追いついて来た。
悟空の目の涙をいち早く見つけた八戒はすっかりあわてて、
「おい。沙悟浄。その荷物をおろせ」

「おろしてどうするんだ?」

「おろして二つに分けるんだ」

「二つに分けてどうする?」
「いいから二つに分けるんだ。
 お前は流沙河へ帰って化け物業を再開し、
 俺は高老荘へ帰って女房と一緒に暮らす。
 この白馬は売りとばして棺桶に代えて
 お師匠さまに贈ろうじゃないか」

「何をバカなことを言っている!」
と馬上の三蔵がききとがめて怒鳴りつけた。

「まあ、見て下さい、お師匠さま」
と八戒は悟空の方を指さしながら言った。
「兄貴ときた日には火であぶられても油で煮られても
 弱気の一つだって吐いたことのない男。
 その兄貴があの通り涙を流しているのですから、
 西天へ行くのはもうおよしになった方がいいですよ」

「お前は黙っていなさい」
と三蔵はたしなめてから、
「悟空や。一体どうしたんだね?
 辛いことがあったら、遠慮なく言いなさい。
 お前がそうして泣いているのを見ると、
 私はどうしてよいかわからないよ」

「お師匠さま。さっきの樵夫は天の当番軍曹でしたよ」
と悟空は言った。
「何でもこの山の中には兇悪な化け物が住んでいて、
 とても通れないから引返した方がいいそうです」

「引返すって?」

とんでもないというように三蔵は大きな声を立てた。
「さんざ苦労をして
 長い道程の半分ぐらいまでは来たんだよ」

「それはわかっています。
 でも二人に一人ではどうして太刀打ちが出来ましょう?
 いくら鉄の塊りでも真赤な火の燃えている炉の中では
 釘を打つことが出来ませんよ」

「お前のいうことは本当だ」
と三蔵は言った。
「兵書の中にも寡ハ衆ニ敵ス可カラズと書いてある。
 しかし、私たちには八戒も悟浄もいることだし、
 何からかにまでお前ひとりで
 やらねはならないということもあるまい」

悟空の狙いは
三蔵の口からこの言葉を言わせることであった。

そこで彼は涙をぬぐいながら、
「お師匠さま。この山を越えるためには  
 どうしても猪八戒にやってもらわねばならないことが
 二つあるのです。
 もし八戒が承知してくれれば、
 何とか目鼻がつくかもしれませんが、
 でなければ、到底、見込みが立ちません」

「見込みが立たなければ解散すればいいじゃないか」
と八戒が口をとんがらせた。
「何も俺をダシに使ぅことはないよ」

「八戒や。そんなことをいう前に
 まず悟空が何を考えているかきいたらどうだね?」

「そりゃそうだ。
 な。兄貴。一体、俺にどうしろと言うんだ?」

「一つはお師匠さまの護衛をすること。
 もう一つは斥候に出ること」

「冗談いうなよ。
 お師匠さまの番をするのはそばにいてやること、
 斥候に出るのはそばを離れる仕事。
 身体が一つしかないのに
 同時に二つのことが出来るかっていうんだ」

「二つ同時にやれというわけじゃない。
 二つの中、どちらか一つをやってくれれはいいんだ」

「それならそうと早くそぅいえばいいのに」
と八戒は笑いながら、
「ところでどういう仕事なのか、
 仕事の内容を先にきかしてもらってから
 きめようじゃないか」

「お師匠さまの護衛というのはだな、
 お師匠さまが小便をする時はうしろで待っている、
 お師匠さまが歩けは、お師匠さまを抱えてやる、
 お師匠さまがお腹が空いたと言えば、
 すぐ托鉢をやってくる。
 もしお師匠さまが飢えたり、栄養失調になって、
 少しでも目方が減って見ろ。
 その時はこの鉄棒が鳴る時だ」

「そいつは大へんだ」
と八戒はびっくりして言った。
「大小便の世話や一緒に歩きまわるのは
 まだいいとしても托鉢は大仕事だ。
 何しろこういうところでは、
 俺が大使命を帯びた坊主であることを
 わかってくれる奴はいない。
 うっかり熊手を担いで人里へ出て行って、
 逆にベーコンにでもされたら、
 とりかえしがつかないからな」

「それなら斥候へ出ればいいんだろう?」

「斥候の仕事は何をするんだ?」

「山の中へ入って、化け物がどのくらいいるのか、
 何という山で何という洞窟があるのか、
 そういうことをさぐってくるのだ」

「この方がまだよさそうだ。
 じゃ俺は斥侯に行くことにするよ」

八戒はやおら熊手を担ぎあげると、
意気揚々と山の中へと入って行った。

2000-11-27-MON

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