毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第3巻 出たり入ったりの巻
第八章 金銀無縁

二 金銀無縁

金角は悟空のあとを追うのを断念して、
ひとまず我が根城へと足を向けた。
見ると、門のまわりは死屍累々として、
さながらこの世の地獄である。
「ああ」
と立ちどまった金角は思わず天を仰いで長大息した。
人の定めはまことにわからぬものである。
たかが天竺へお経をとりに行く四人の坊主、
黙って通してやれば、こんなことにはならなかったのだが、
少しばかり慾を出したはかりにこの通りの有様だ。

金角は流れおちる涙をふるいながら、
一歩一歩と歩き出した。
しかし、中へ入って見ると、ここはまだ荒らされておらず 、
家具も調度も出て行った時のままになっている。
たださっきと違うのは傍らにはべる人もなく、
シーンとしずまりかえっていることだ。

金角は石の寝台の上に腰をおろすと、剣を杖にして、
しばらくの間、じっと悲しみに耐えていた。
力と頼む銀角を失っては
もはや再起を図ろうというだけの気力もない。
威勢のよい時は気分爽快で目もパッチリあいているが、
気色衰えると、瞼までが重苦しく垂れてくる。

知らぬ間に金角はうとうとと居眠りをはじめた。

一方、洞門から脱け出した悟空は
斗雲に乗って山の上まであがったが、
金角があとを追って来ないので、
またそっと洞門のところまで戻ってきた。
見ると、洞門はひらいたままになっていて、
あたりには人の気配も見えない。
忍び足で、洞門をくぐった悟空はそのまま奥へ入った。
と、石の寝台の上で金角が居眠りをしている。
その背中には芭蕉扇がさしてあるのが見える。
「しめたぞ」

舌なめずりをすると、
悟空はぬき足さし足で金角のそばへ近づいた。
手をそっとさしのべた。
金角はまだ気がつかない。
手が芭蕉扇にとどいた。
素早く抜きとったが、その途端に金角は目をさました。
芭蕉扇が髪の毛にひっかかったからである。
「こらッ」

あわてて剣を握りなおすと、金角はあとを追ったが、
悟空はすでに洞門をとび出していた。
「待て待て、泥棒」
「ハッハハハ……」

外へ出た悟空はクルリとうしろへ向きなおると、
手に如意棒をもって待ち構えた。
「お前は何と話のわからねえ化け物だ。
 卵を手に握って石を打ち砕くつもりかい?」

こうなっては仁義もクソもない。
二人は片や鉄棒、片や宝剣、
互いに秘術のかぎりを尽して戦い出したが、
三、四十回わたりあってもなお勝負がつかない。
そのうちに日が暮れかかってきた。
かなわないと見た金角は身をひくと、
西南の方、圧竜洞めざして逃げ出したが、
悟空はあとを追うことをやめて、運花洞の中へ入ると、
すぐ三蔵、八戒、悟浄の縄目をといてやった。
「化け物はどこへ行ってしまったんだ?」
と八戒はきいた。
「銀角はこの葫蘆の中へ入れてある。
 恐らくもう溶けてしまった頃だろう」

そう言って悟空は腰にぶらさげた葫蘆をふって見せながら、
「しかし、金角はどこかへ逃げて行ったから、
 また援軍を集めて攻めてくるかも知れんぜ」
「そいつは大へんだ」
と三蔵は喜びも束の間、またしても青くなった。
「なあに、ご心配には及びませんよ。
 これこの通り、相手の持っている五つの武器のうち
 五つまで分捕ってしまったのですから」
と悟空は笑いながら、
身体につけていた紅葫蘆と玉浄瓶と幌金縄と
芭蕉扇をとり出して見せた。
「どれどれ」
と八戒は身体を乗り出してきて、
「ひとつ銀角のメッキが剥げたかどうか
 のぞいて見ようじゃないか」
「駄目だ。駄目だ」
と悟空は手をふりながら、
「俺が先に容れられた時も、
 もし奴らが蓋をあけて見なかったら、
 今頃、俺の方がとけて流れて
 三島に注いでいたかも知れん。
 今、うっかりあけると、どんなことになるかわからんぞ」

おどかされて八戒は首を縮めたが、
「俺のこの腹の葫蘆も
 何か溶かしたくてゴロゴロ鳴っているよ。
 おい、沙悟浄。
 何か食べる物をさがしに行こうじゃないか」

二人は連れだって食糧貯蔵室へ入ったが、
さすがは名にし負う食いしん坊の家だけあって、
あるわ、あるわ、
坊主になったのが悔やまれるほど山海の珍味が並んでいる。
それらの中から湯葉や椎茸やわらびなど、
精進料理の材料を選び出して、
早速、夕食の用意にかかったことはいうまでもない。

一方、圧竜山へおちのびた金角は
圧竜洞の女怪たちを集めて、母親が打ち殺された次第や
銀角が犠牲になった経過を述べた。
「サルは駄目かも知れないけれど、ブタと三蔵法師なら、 
 私、腕によりをかけて蕩しこんでやる自信があるわ」
と悟空を陥落させそこなった女怪はさかんにいきまく。
「待て待て」
と金角は些かあわてながら、
「肉弾であたってくれる心意気はまことに有難いが、
 同じことなら敵を刺するよりも
 まず味方を鼓舞しようじゃないか。
 これから裏山へ行って、親族郎党の者を集めて
 大挙して孫行者にあたることにしよう」

そう言っているところへ小妖怪が入って来て、
「大王。只今、裏山の大叔父様が
 手兵をひきつれてご到着になりました」
「そうか。すぐお通し申せ」

金角は急いで喪服に着かえると、
叔父の狐阿七大王を迎えに出た。
狐阿七は喪服を着た金角の姿を見ると、
「やっばり本当だったんだな」

金角が悟空の暴状を話すと、
阿七はそもそもの挑発者がどちらであるかも忘れて、
カンカンに怒り出した。
「親や弟をダマシ討ちにされて
 喪服を着ているという手はない。
 一番いい弔いの方法は
 その喪服を脱いで一合戦やることだ」

化け物ながら、阿七はなかなか道理をわきまえている。
金角は再び武装に身をかためると、
圧竜洞の女兵と狐阿七の軍勢に守られて
蓮花洞めざして押しよせて来た。
達花洞では三蔵法師の左が朝奴を終え、さて、
化け物の軍隊が押しよせて来ないうちに出発しようと
準備に大童な最中である。
そこへ突然、軍馬の響きがしてきたので、
悟空が顔を出すと、おびただしい砂煙である。
「おい、八戒」
と彼はあわてて奥へとぴこんで、
「敵の軍勢がせまってきたぞ」
「そいつは大へんだ」
と早くも三蔵はおろおろしている。
「まあ、ご心配には及びませんよ。
 敵は幾万ありとても……」
と悟空は鼻唄まじりで、
「敵のおいて行った武器をこっちへ下さい。
 それから悟浄はお師匠さまのそばに残って、
 八或は俺と表に外へ出よう」
悟空は葫蘆と玉浄瓶を渡にさげ、幌金縄を袖の中に蔵い、
また芭蕉扇を肩にさすと、八戒を従えて洞門を出て行った。
「おやおや、これはどうしたことか」
と八或は円陣を組んだ軍隊を見ると、
目をパチクリとさせた。
それもその筈、敵軍の中には
目のさめるような美女の姿もちらほらしていたからである。
「こういう戦争は俺には苦手だ。
 何しろ俺は女に弱いことを誇りにしているんだからな」
「戦わずして早くも兜を脱ぐ奴があるか」
と悟空は怒鳴りつけた。
「あれを見よ。あすこに大将らしいのが控えているぞ」

なるほど女兵たちの真中には、
見事な髭を蓄えた阿七大王が立っている。
「やい。向う見ザル、思わザル」
と阿七は手に握った戟を高々とあげながら叫んだ。
「よくも人をだましたり泥棒をしたり、
 その上、我が身内を殺したりしやがったな。
 一人一人ひきずり出して、
 因果のほどを思い知らせてくれよう」
「何をッ」
と悟空は目をむいて言った。
「お前らこそ生命知らずにも程がある。
 死の行進が一回では不足というなら、
 二度でも三度でも好きなだけ繰りかえして見せてやるぞ」

化け物は戟を構えなおすと、
悟空の如意棒を巧みにかわした。
三度四度、山間狭しとわたりあったが、
阿七はとうてい、悟空の敵ではない。
力尽きて戟をおさめると、今度は金角がとって代った。
しかし、金角が悟空と互角にわたりあっているのを見ると、
阿七はまた助太刀に出てきた。
遠くからそれを見ていた八戒も急いで熊手をとりなおすと、
阿七に襲いかかった。
一対一の勝負が繰りかえされ、
しばらくは勝敗のほどがわからなかったが、
金角が合図をすると、わあッとばかりに
女の兵隊が襲いかかってきた。

虚をつかれたのは八戒である。
「おいおい。合戦は一対一で行こうじゃないか。
 いくら俺が多情仏心でも、
 こんなにたくさんじゃ生命がもたないよ」
「何を言っているのよ」
「助平じじい」

女たちは聞いちゃいない。
どッと橋声をあげて詰めよせてくるから、
八戒はとてもたまったものじゃない。
忽ち逃げ腰になったが、
そこへ奥から沙悟浄が宝杖をもってとび出してきた。
「ナムマイダー」
と唱えながら悟浄は女兵たちをなぎ払った。
阿七は形勢不利と見るや、
きびすをかえして逃げ出そうとしたが、
八戒はこんな時になると減法強い。
熊手をふりあげて力まかせにひっかいたから、
阿七は身体中から血を吹いてドッとその場に倒れた。
着物を剥いで見ると、正体は一匹の狐である。

阿七が倒れたのを見ると、金角は悟空と戦うのをやめて、
八戒に立ちむかってきた。
八戒は熊手をとりあげて応戦したが、
悟浄が宝杖を握って助太刀にきたから、
さしもの金角もかなわじと思い、
風に乗って姿をくらまそうとした。

それを見た悟空は急いで雲に乗って中空へあがると、
腰にぶらさげていた玉浄瓶を逆さにもちながら、
「金角大王」
と大声で呼んだ。

金角はあわてていたから、
手下の小妖怪から声をかけられたのだと思ったらしい。
「おう」
と言ってうしろをふりむいた途端に
身体は物すごい力にひっばられて、
そのまま玉浄瓶の中へ吸い込まれて行くではないか。
悟空が「太上老君急急如律令」の封をすると、
八戒が地上におちていた七星剣を拾いあげながら、
そばへ近づいて来た。
「兄貴、金角の姿が見えないが、どこへ行ったんだろう」
「この中に入っているよ」
と悟空は得意そうに玉浄瓶をふって見せた。
「金角が見えなくなったのはいいが、
 女兵たちの姿まで見えないのはどうしたわけだろう?」
「そんなに女たちのことが気にかかるか」
と悟空は笑いながら、
「何ならもう一度金角をこの中から出してやろうか。
 金のあるところでないと、女が集まらないとは
 むかしから言われていることだからな」
「いや、結構だ。
 今の俺の身分じゃ、
 どうせかんざしを買う金もないからな。アッハハハ……」

ようやく化け物を掃蕩したので、
一同は蓬花洞を出発することになった。
しばらく行くと、
道端から一人ののつんぼがとび出して来て、
いきなり三蔵の乗っている馬の前に立ちふさがった。
「和尚さん、私の宝物をかえして下さい」
「やあ、化け物がまた生きかえってきたぞ」
と八戒はとびあがるほど驚いたが、
悟空がよくよく見ると、それは太上老君である。
「これはこれは、老君ではございませんか」

老君は自分の正体を見破られると、忽ち空に昇り、
空の上から、
「悟空よ。お前がとった宝物を儂にかえしておくれ」
「宝物って何のことでございますか?」
と悟空は空とぼけて見せた。
「お前が腰にぷらさげている葫蘆は儂が仙丹を入れる器で、
 玉浄瓶は儂が水を入れる器だ。
 芭蕉扇は火をあおぐ団扇で、幌金縄は儂の腰紐でね」
「へえ、何でまたあなたの腰紐が
 こんなところにあるのですか?」
「さっきお前のつかまえた二人の中、
 一人は儂の金炉の番をする童子で、
 もう一人は銀炉番の童子だよ。
 二人して儂が昼寝をしているすきに
 ドロンと消えてなくなったのでね、
 どこへ行ったのかと思って探していたら、
 お前がつかまえてくれていた」
「そんなことを言ったって私はだまされませんよ」
と悟空は言った。
「大体、自分の手下をつかって
 私たちの邪魔立てをするとは、
 これはどういう料簡ですか」
「儂の責任ではないよ」
と太上老君は苦笑しながら、
「儂は貸さないと言ったんだが、
 南海菩薩から三度も重ねて頼まれたものだからね」
「全く仏面鬼心とはこのことだ」
と悟空は舌打ちしながら、
「面と向うとしっかりせいよと励ましているかと思うと、
 蔭にまわって俺たちの妨害をしやがる。
 一体、南海菩薩は男か女か、
 そういう心掛けだから奴が生涯、
 結婚の相手を見つけられないでいるのも無理はないよ」

心にそうは思ったが、三蔵法師もかえせと言うので、
悟空は仕方なくせっかくの戦利品をといて
太上老君へ手渡した。
老君は葫蘆と浄瓶の蓋をとって手で指さすと、
中から二条の煙が立ち、やがて金銀の二童子が現われた。
「では元気で行っていらっしゃい」

三人揃って手をふるが、
「何を言ってやがるんだ」
と悟空はひとりツンツンしながら、
うしろをふりかえろうともしない。

2000-12-08-FRI

BACK
戻る