毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第4巻 風餐露宿の巻
第二章 二人の三蔵

二 通 り 魔


すでに秋も暮れて、寒風膚しみる冬の季節になっていた。

一行は烏鶏国をすぎてから、暁に宿を発ち、
夕闇追ってから足とめる旅を続けたが、半月ほどもたつと、
再び巨大な山に行く手を遮られてしまった。
「はて。またしても妖怪変化の棲家が近づいてきたぞ」

先手を打って悟空が言い出した。
「悟空や。人の悪いことを言っておどかすものじゃないよ」

もともと臆病者の三蔵も
こう化け物とばかり出会っていると、化け物ずれがして、
割合に落着いている。
「見てごらんなさい、お師匠さま」
と悟空は雪のかかった山の項上を指し示しながら、
「あの岩の険しさ。雪の白さ。
 見るからに化け物が住んでいそうじゃありませんか?」
「化け物が住んでいようがいまいが、
 もう私は何も怖い者はおらないよ」
「ほんとに怖くはないのですか?」
と悟空はききかえした。
「怖くはないね」

以前の三蔵とは人が違ったように悠々たる態度である。
以前の臆病な三蔵にも不満な悟空だったが、
糞落着きに落着かれるとやはり不満だから妙なものである。
悟空の気抜けしたような表情に気がつくと、三蔵は言った。
「私はね、絶対に死なないという自信がついてきたんだよ」
「それはまたどうしたわけですか?」
「私には大切な使命があるからね。
 その使命を果たしおわるまでは絶対に死なないよ」
「絶対に死なないって?
 絶対に死なないのじゃなくて
 絶対に死ねないということじゃないのですか?」
「それはまあそうだけれどね」
と三蔵は頷きながら、
「以前の私はね、自分に重大な使命があるから
 死なないようにしなければならないと思っていたんだよ。
 お前から見たら、さぞかし臆病者に見えたことだろうね。
 でも何何も災難にあっているうちに、私は人間は、
 やらなければならない仕事がのこっている限りは
 絶対死ぬものじゃないということに気づいてきた。
 死ねない、と、死なない、
 は字が一字しか違わないけれども、
 死ねない者は死なないで生き抜いて行くものだ。
 結局は同じことじゃないか」
「そう言えば、八戒がこんなことを言っていましたよ。
 女遊びのやれないものとやらないものは
 字が一字しか違わないけれど、実は同じことだって。
 八戒説によれば、坊主は不能者と同じだそうです」
「バカな!」
と思わず三蔵は失笑した。
「味噌も糞も一緒にして論ずる奴があるか。
 我々が女を断っているのは、
 欲望を制御するのが修行の第一歩と思っているからだ。
 自分の克己心の強さと欲望の強さを
 秤にかけてはかっているのであって、
 不能者ならこの楽しみは味わえるものではないよ」
「すると禁欲もまた快楽の一種だとおっしゃるのですか」
「いかにもそうだ。
 ちょうど、お金を使わないでせっせと貯めれば
 億万長者になれるようなものだ」
「お金はそうかもしれませんが、
 あの方は使わないからといって
 たまるものじゃないでしょう。
 西牛賀洲のラマルクという学者が
 用不用の説というのを唱えて、
 人間の機能は使えば使うほど発達するが、
 使わないと逆に衰えるものだと言っておりますょ」
「お前たちは、たまるとか、
 たまらないとかいうところでしか論じないから
 そういうことになる。
 人生の快楽は精神の持ち方が中心なんだからね」
「そりゃそうかも知れませんね。
 お金などもたまることもたまるけれども、
 それを楽しみにしている人は嬉しくてたまらない、
 と言いますからね。アッハハハハ……」

二人があらぬ議論を続けていると、
突然、山の凹みから真赤な色の雲が湧きあがって、
見る見る空の上へのぼりはじめた。
「やあ、やあ。化け物が現われたぞ」

悟空が驚いて叫び声を立てると、
八域と沙悟浄はあわてて身構えをした。
しかし、耳をすまし、あたりを見まわしても、
どこにも妖しげな様子は見当らない。
「なあんだ。何も現われないじゃないか?」
「いや、さっき山の中腹から
 真赤な妖気が立ちのぼるのが確かに見えたぞ」
「兄貴も少しイカレたんじゃないか?」
と八戒は笑いながら、
「何しろお互いに欲望を断ってから久しいからな。
 見えたのは赤いパンツじゃないのか」
「いやいや、たしかにこの眼で見た。
 俺の眼に狂いはない筈だ。
 お師匠さま。油断をなさってはいけませんよ」
「私は別に油断はしていないが、
 お前のあわてぶりはどうだね?」
「さっきあすこから
 赤い雲が立ちのぼるのが見えたんですよ。
 でもすぐに消えてなくなりましたから、
 あるいは単なる通り魔だったのかもしれません」
「兄貴はなかなか言いのがれがうまいや。
 化け物に通り魔も宿借り魔もあるものか」
と八戒が嘴を入れた。
「現にお前のような色魔もいるじゃないか」
と悟空も負けずに言いかえした。
「大体、色魔はいつも単独行動だから
 チーム・ワークには慣れておらんだろうが、
 近頃は圧力団体ばやりだから、
 化け物にも同業組合が出来て、
 横の連絡がなかなかよく出来ている。
 今日は大方、組合の総会でもあって、
 そこへ行くところだろう。
 そういう時だと、
 化け物は選挙のことに気々とられているから、
 道でパッタリぶつかったりさえしなければ、
 まず、安心というわけさ」

三蔵はニコニコしながち二人のやりとりをきいていたが、
「まあ、化け物に出会わなかったんだからいいじゃないか」

一行は更に馬をすすめたが、一里ほども行かないうちに、
「助けてくれ……」
と山にこだまする声をきいた。
びっくりした三蔵は思わず手綱をひいて立ちどまった。
「あれは何だね?」
「あれが化け物の呼び声ですよ」
「でも助けてくれと言っているようにきこえるじゃないか」
「化け物はいつだって
 俺は化け物だぞと名乗って出て来やしません。
 たいてい、人間の慈悲心を利用します。
 だからお師匠さまのような底抜けの善人が
 まっさきにひっかかるんですよ」
「そう言われると私は一言もないがね」
と三蔵は苦笑を浮べながら、
「でもあれは誰かが山の中で
 遭難しているんじゃないかしら。
 もしそうだとしたら、
 このまま行きすぎてしまうのは気の毒だよ」
「これまでさんざんな目にあってもまだ懲りないんですか」
「いや、私はもうコリゴリだ。
 人を信じてだまされるのは
 だまされた方に罪はないけれど、
 同じことを三度もくりかえしちゃ
 だまされる方がバカだということになるからね」
「それじゃ、ひとつお師匠さま、
 この山をこえてしまうまで、しばらくの間、
 慈悲心は胸の中にしまいこんで、
 鍵をかけておいて下さい」
「ああ、お前のいう通りにしょう」

一行四人は山の峰づたいに道を急いだが、
救いを求める声はなおも続いている。
口では耳に蓋をするようなことを言ったが、
三蔵の本心が必ずしもそうでないことは
その表情を見ただけでもわかる。
「大分、遠のいたようだね。
 もし本当に遭難者だったら、
 あの人はずいぶん運のない人だね」
「人の運よりも自分の運の方が大切ですよ、お師匠さま」
と悟空は言った。

さて、しばらく行くと、
また真赤な雲が空をとんで行くのが見えた。
「やあ、やあ、またしても化け物がやって来たぞ。
 気をつけろ」

悟空の叫び声に一同は俄かに緊張して、
三蔵のまわりをとりかこんだ。
しかし、あたりには依然として何の変化も起らない。
赤い雲は一行の頭の上をとおりすぎると、
再び谷へおちて行ったのである。
「お前はまた化け物がやってきたというけれど、
 何も見えやしないじゃないか?」
「今度もきっと通り魔だったのですよ」
「バカなことをいうものじゃないよ」
と三蔵は少し色をなして言った。
「大体、お前は私たちがお前を信用していると思って
 少しいい気になりすぎている。
 そりゃこれまではお前のいう通りに
 色んなことが起ったかもしれないが、
 人をからかぅにも程があるじゃないか。
 もし私が驚いて馬からおちるようなことがあったら、
 冗談だけじゃすまないよ」
「転んで怪我をしても癒す方法はいくらでもあります。
 しかし、化け物にさらわれて行ったら
 探しようがないじゃありませんか?」
「まだ減らず口を叩いているのか!」

三蔵は遂に堪忍袋の緒をきらして、
いまにも緊箍児経をとなえんばかりの勢いである。
「私のいうことを信用しないのなら、
 どうぞ気のすむまでやって下さい」
と悟空もふてくされている。
「まあ、そう怒らないで下さい、お師匠さま」
と沙悟浄が二人の間へわりこんで行った。
「烏鶏国ではお師匠さまも
 兄貴にはお経の借りがあるのですから、
 こんどのところはひとつ
 私の顔に免じて許してやって下さい」
ところがまだ許すとも許さないとも言わないうちに突然、
一陣の風が山の頂きから吹きおろしきた。
その冷たく激しいこと。
思わず一同が顔を伏せると、
その瞬間に三蔵の姿が
鞍の上から消えてしまっていたのである。

2000-12-19-TUE

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