毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第4巻 風餐露宿の巻
第三章  赤 い 雲

三 昨日の友は


「おい、八戒」

悟空の呼ぶ声に八戒は伏せていた顔をあげた。
「すげえ風だな」
「つむじ風だよ」
と沙悟浄が言った。
「おや、お師匠さまの姿が見えないじゃないか?」
「や、ほんとうだ。
 さっき馬の上に伏せるのを見たんだがな」
「どこへ行っちゃったんだろ?」
と悟空が反問した。
「大方、風と共に去りぬ、だろう」
と八戒がすぐに相槌を打った。
「こうなったら我々としても
 身のふり方を考えなけりゃならんな」
と悟空は二人の方へ向きなおって、
「な、兄弟、親分がいなくなってしまったからには、
 この辺で解散することにしようじゃないか?」
「そいつはいい考えだ」
我が意を得たりとばかりに八戒は応じた。
「大体、俺は前々から一日も早く解散して、
 それぞれ正業につく方が身のためだと思っていたんだ。
 真理を求めて幾億万里というときこえはいいが、
 生産事業に従事しないで人の慈悲にすがって
 飯にありつくのは乞食のやることだからな」

驚いたのはそばで二人の話をきいていた沙悟浄である。
「お師匠さまが死んでしまったわけでもないのに、
 早くもお家騒動とは情ないじゃありませんか。
 仮にお師匠さまがなくなられたとしても、
 衣鉢をついで西へ行くのが
 弟子として守るべき道ではありませんか。
 ああ、それなのに、それなのに……」

早くも涙が喉につかえた声になっている。
「俺がいま言ったのは、
 お前らの本心を試してみたまでのことさ」
と悟空は笑い顔に戻って、
「大体、俺が化け物の存在を見破って
 何度も警告を発したのに、
 お師拝さまをはじめお前たちまで
 俺を気違い扱いにするからこんなことになったんだ。
 しかし、沙悟浄ほさすがに立派だな。
 お前の真心を知ったら、お師匠さまもきっと喜ぶだろう。
 俺だってお前を見捨てて
 このまま帰ってまうわけにはゆかないよ。
 時に、八戒、お前はやっばり帰りたいかい?」
「いや、俺がさっき言ったのも、
 アドバルンをあげて
 皆の気持をたしかめて見たかっただけのことだ。
 皆してお師匠さまを探し出したいというのなら、
 俺ももちろん多数意見に服するよ」

三人はそれからただちに手分けをして、
五十里四方を隈なく探しまわったが、
三蔵の消息はようとして知れない。

悟空は次第にムカムカしてきて、
いきなり山の頂上へとびあがると、ただ一声、
「変れ!」
と叫んだ。

と見よ。
かつて天宮を荒らした三頭六臂の英姿は、
手に三本の如意棒を握りしめて風車のように
ブンブンふりまわしているではないか。
「見ろよ。兄貴の奴、ヒステリーをおこしているぜ」

八戒が大声をあげると、沙悟浄はあわててその袖をひいた。
「さわらぬ神に崇りなしだ。
 あれで気がすむものなら、
 だまってやるに任せた方がいいぜ」

しかし、悟空はただ無闇に
如意棒をふりまわしているわけではなかった。
その激しい勢いに驚いて、
この土地を守る山神や土地神がとるものもとりあえず
ゾロゾロととび出してきたのである。
「何だ。数ばかり出鱈目に多いじゃないか?」
「ハイ、私どもは零細企業で、
 狭いところにごらんの通り六十人から住んでおります」
「ここは一体、何というところだ?」
「六百里鑚頭号山と申します」
「六百里に六十人か。
 それじゃ道を通る人も線香代がかさんでたまらんな。
 時に、この山に化け物は何人住んでいる?」
「ハイ、たった一人でざいます」
「なんだ、たった一人か」
「一人は一人でも、
 その一人のために我々はピンをハネられて、
 食うや食わずの生活をしております」
「たった一人なら六十人力をあわせれば、
 追い出すのはわけがないじゃないか」
「へえ、ですが、それが中小企業の悲しさで……」
「つまりお互いに生存競争が激しくて、
 大同団結が出来ないというわけか?」
「その通りでございます」
「そういう時は協同組合をつくればいいじゃないか。
 過当競争でお互いに食いあうよりその方がいいぞ」
「お説ごもっともでございますが、
 世界中どこに中小企業の協同組合があるのでしょう。
 仮にあるとしても、
 蔭でお互いに出し抜くのが関の山ですよ。
 そのために化け物に食い物にされていることは
 重々承知しているのでございますが……」
「して、その化け物はどこに住んでいる?」
「この山の中に枯松澗という谷川が流れています。
 その川のほとりに火雲洞というり洞窟がございます」
「お前らはそいつに税金を払っているのか?」
「払わないではこの土地に住んでおられません」
「こんな山の中では人通りも少いし、
 お賽銭だって大したことはないだろう」
「ょくご存じでいらっしゃいますね。
 ですから我々はアルバイトに日曜猟師をつとめて
 化け物のところへ獲物をもって行くのです。
 でないと、
 我々のあばら屋をさしおさえるというものですから」
「化け物の名前は何というのか?」
「そういえは、或いは大聖もご存じかもしれません。
 牛魔王の息子で、羅刹女に養われて育った
 紅孩児というのでございます。
 火焔山で三百年ほど修行して、
 三昧真火という素暗しい武器を発明した男です」
「なあんだ。アッハハハハ……」

にわかに悟空は大きな声を立てて笑い出した。
そして、山神土地神を退散させると、
悟空はもとの姿に戻って山の頂上からおりてきた。
「全然心配することはないよ」
と悟空は八戒と沙悟浄に向って言った。
「きいて見りゃここの化け物は俺とは親戚なんだ」
「じゃやっばり猿の化け物かい?」
と八戒はきいた。
「バカ言え。牛魔王というのを知らんか?
 五百年のむかし、俺が天下に名を売っていた頃、
 義兄弟の契りを結んだ豪傑に牛魔王というのがいる。
 そいつの息子だそうだから、俺の甥にあたるわけだ」
「ハハハハ……」
と今度は八戒が笑い出した。
「三年行き来がなくなりゃ
 親戚も赤の他人という言葉があるのを知らんのか。
 五、六百年前の話を今頃持ち出して来ても、
 向うは親戚だとは思っていないかもしれんぜ」
「一枚の葉っぱだって流れ流れて
 大海でめぐりあうという言葉もあるじゃないか」
と悟空も逆襲した。
「俺は何も奴にご馳走を期待しているわけじゃない。
 ただお師匠さまを食卓にのせる代りに、
 豚の照焼でも食えとすすめるだけのことだからな」

三人は馬をひいて、教えられた道を進んで行くと、
やがて松林の間に水しぷきのあがっているのが見えてきた。
谷川の上には石の橋が渡してあるが、
それは洞門へ通ずる道らしい。
「馬の番を一人残して、
 もう一人が俺と一緒に行くことにすれはいいだろう」

悟空が言うと、
「俺が行くよ」
とすぐ八戒は自ら志願して出た。
「何しろ俺は貧乏性で、
 じっと坐っているのが大の苦手だからな」
「じゃ、悟浄に馬と荷物の番を頼むことにしよう」

二人は沙悟浄に後事を託すると、
枯松澗を一跳びに跳びこえて火雲洞の門前へとやって来た。

2000-12-20-WED

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