毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
第4巻 風餐露宿の巻 第四章 冷戦熱戦 |
一 火攻め水攻め煙攻め 「なるほどそうだ」 と手をたたいて悟空は立ちあがった。 「目先のことにばかり気をとられて 肝心のことをつい忘れていた。 火事になれば消防署へ救援をたのむのが順序だったな」 「そこですよ、私が言っているのは」 と沙悟浄は相槌を打った。 「よしわかった」 と悟空はすかさず、 「俺はこれから東洋大海へ行って、 東海竜王から給水隊を借りてくる。 お前らは化け物につかまえられんように 気をつけるんだぞ」 悟空は八戒と沙悟浄をその場にのこしたまま、 ただちに雲にのると東洋大海へ向った。 心は焦っているから、 風景をゆっくり観賞している余裕はない。 目的の場所へ着くと、すぐ海の中へもぐった。 近頃は海底も通信網が完備しているので、 悟空の来訪は巡海夜叉によって即座に竜宮へ報告され、 悟空が門前に到着すると、 そこには既に東海竜王が竜子竜孫を率いて迎えに出ていた。 「これはお珍しい。さあどうぞどうぞ」 竜王は悟空を奥へ案内し、 部下にお茶の用意を命じようとした。 「いやいや、お茶を飲んでいる時間なんかないんです」 悟空は枯松澗で三蔵法師がさらわれ、それがもとで、 紅孩児と合戦になったところ、 火攻めでさんざん苦しめられた経緯を話した。 「実はそれで、あなたにお願いがあって参ったのですよ。 ひとつあなたの腕で、 雨をふらせてあの火を消しとめてくれませんか?」 「私の腕で?」 すぐにもオーケーと言うと思いきや、 竜王は渋い顔になって、 「雨をふらせることを 私のところへ頼みにいらっしゃるなんて、 あなた、お門違いじゃありませんか?」 「しかし、あなたは雨を司る長官でしょう?」 「そりゃまあその通りですが、 どの地方にいつどれだけの雨をふらせるかは、 天界の予算によってきまっているのですよ。 玉皇上帝の批准が必要なことはいうまでもありませんが、 その前に大蔵省という難関があるし、 うまくその難関を通っても、それを実行する段になれば、 更に何十というハンコが必要なんです。 そのハンコが揃った上で、 今度は所管の違う雷公や電母や風伯や雲童の 協力を得なければなりません。 世間の人はそんなことをご存じないから、 雨をふらせようと思うとすぐ私のところへ デモをかけに来ますが、俗言にも言うじゃありませんか、 竜も雲がなければ動きがとれないものだと」 「しかし、私は雷や稲妻のような伴奏は要らないのです。 いくら予算にしばられたり、 世論に監視されているといったって、 長官ともなれば少しは自分の自由になる雨を お持ちでしょう。 たとえば、 接待費を道路の修理費にまわすといったような……」 「そいつは反対ですよ。 役所というところは雨をふらせる金が 時々酒を飲む金に化けるところです」 「ですから、私の場合は接待をしてくれる金で、 雨をふらせてくれと言っているんですよ。 それとも何です、 会計検査院のお役人さんを接待する金はあっても、 私のような山猿をもてなす金はない とおっしゃるのですか?」 「いやいや」 と竜王はあわてて首をふりながら、 「私にも多少は融通のきくふところ金はあるんです。 ですが雨をふらせる費用は なかなかバカになりませんから、 弟たちにも分科させようと思うんですが、 どうでしょうか?」 「弟さんたちというと?」 「南海竜王、北海竜王、西海竜王の三人ですよ」 「私に三つの海を遊説してまわれとおっしゃるのですか。 そんなひまがあったら、 玉皇上帝のところへ直談判した方がまだ早いなあ」 「いや、あなたにわざわざおいで願わなくとも、 私が鐘と太鼓を叩けば、すぐにもここへ参りますよ」 「それじゃご面倒でも、早速呼んでいただけますか?」 東海竜王が鐘と太鼓を叩くと、 はたして三人の竜王が まるで隣室で持ちかまえていたかのように、 直ちに部屋の中へ入ってきた。 「兄さん、何用ですか?」 「実はね」 と東海竜王は、三蔵法師が枯松澗で難にあっていること、 悟空が助力を乞いにきた経過を話した。 お互いに腹の痛むことではあるが、事が事だから、 三人の弟たちも異議は唱えなかった。 「ではいますぐ一緒に来て下さい」 悟空が先に立って、四海竜王を案内した。 ほどなく四人の竜王に率いられた海底の消防隊は 号山の上空へ到着した。 「ご苦労でも皆さんはここでお待ち下さいませんか」 と悟空は言った。 「私がこれから化け物をおびき出してきますが、 もし私がうまく相手をやっつけることが出来たら、 それでよし、万一、負けても 助太刀をしていただくには及びません。 ただ奴が火を吐き出した時には、合図をしますから、 その畔は一せいに雨をふらせて下さい」 万事、手配をととのえてから、 悟空は松林の中にいる八戒と沙悟浄のところへ戻ってきた。 「兄貴。竜王が来てくれましたか?」 「うん。一大隊くらい連れて来たよ。 あれで一せいにホースを向けられた日には 馬も荷物もびしょ濡れになるから、 うまいところ避難させておいてくれぬか」 「よし来た」 八戒と沙悟浄が腰をあげると、悟空は単身、 枯松澗をとびこえて火雲洞の門前に姿を現わした。 「やい。戸をあけろ」 悟空の叫び七rをきくと、小妖怪たちは奥へとんで入った。 「大王。また孫行者がやって来ました」 「ハッハハハ……。 またやって来たところを見ると、 さっきは焼け損なったと見えるな。 よしよし。今度こそ猿の丸焼を料理してくれる」 紅孩児はかたわらにあった長鎗を手にとって 二、三度軽くふりまわすと、 「者ども、すぐ火車子を外へ出せ」 そして、自分は扉を押して洞門のそとへ出てきた。 「しつこい奴だな。また懲りずにやって来たか?」 「おとなしく俺たちの師匠をひきわたせば、 何度も来たりはしないさ」 と悟空は言いかえした。 「ハッハハハ……。 何というわかりの悪い頭だ。 あの坊主はお前にとっちゃお師匠さまか何か知らねえが、 俺にとっちゃ酒の肴さ。 酒の肴をかえすのは真平御免だが、 一緒に酒盛りをしようというのなら、 ご馳走しないでもないぜ」 「何を!」 怒り心頭に発した悟空は如意棒をふりかざすと、 化け物めがけておどりかかって行った。 化け物もさるもの、手に持った火尖鎗をしごいて迎え撃ち、 互いに死力をつくして戦うことおよそ二十数回に及んだが、 一向に勝負がつかない。 そのうちに隙を見て如意棒の下をくぐりぬけた妖王は、 またしても拳を握りしめて 自分の鼻の下を続けて二回ほどなぐりつけた。 と、そこから忽ち猛火が噴然とふき出してきた。 同時にうしろにひかえていた火中車からも 濛々と煙が立ちはじめ、 山のいただきの雪は一瞬にして消え去って あたり一面が火焔の海と化したのである。 「竜王、頼むぞ」 悟空がふりかえって叫ぶと、 さっきから待ちかまえていた竜王部隊が 妖火に向って一せいにホースを向けた。 ザーッと胸にひびくような沛然たる豪雨である。 見よ。見よ。 あたかも七つの海が一せいに怒り狂ったようなその雄叫び。 枯松澗の水は見る見る溢れて、 岩にぷっつかる水の音は 竜王のポケット・マネーでふらせている雨とは思えないほど 気前のいいものではないか。 さしもの妖火もこれで消しとめられるかと見えた。 ところが、どう致しまして。 化け物の火は七厘やかまどの火とは違って、 世にも珍しい三昧真火である。 雨がそそぐと、まるで火に油をそそいだように、 一段と燃えあがり、煙はいよい立ちこめて天を覆うばかり。 「なに。 この程度のことで俺がまいると思ったら見当違いだぞ」 悟空は呪文を唱えて防火体制をとると、 敢然と猛火の中へとびこんで行った。 化け物は火の中に立っている悟空の姿を見かけると、 口一杯に息を吸いこんで、いきなり吹き出してきた。 と、それは猛火ならぬ猛煙となって、 悟空の眼の中へとびこんできたのである。 「いけねえ。アイタタタタ……」 かつて太上老君の八卦炉の中で 七七、四十九日間焼かれても くたばらなかった悟空であるが、 あの炉の中の煙にはさんざ苦しめられた経験がある。 悟空が目をしょぼつかせているのを見た紅孩児は 更にもう一口、煙を吐きかけてきた。 かなわじと見た悟空はあわてて雲にのって逃げ出したが、 化け物はあとを追おうともせず武器をおさめると、 悠然と洞門の中へひきあげてしまったのである。 |
2000-12-22-FRI
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