毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第4巻 風餐露宿の巻
第四章 冷戦熱戦

二 八戒ペスト


「ア、ア、ア、フー、フー」

逃げながらも、悟空は喘ぎつづけている。
身体がやけつくようで、思わず枯松澗の中へとびこんだが、
よほど高熱にやかれていたと見えて、
あたりの水はジーンとわき立つような音を立てた。
「てへっ。俺にやきを入れるつもりか」

胸は息がつまりそうだし、
喉はカラカラに乾いてせきをする力もない。
「ア、ア、ア……」

今にもくたばりそうな声を立てている悟空の様子を見ると、
中空にいた四海竜王は度胆を抜かれて、
あわてて雨をとめた。
「天蓬元帥、捲簾将軍、いつまでもかくれていないで、
 早く出て来て下さい。
 斉天大聖が大へんですぞ」

竜王の叫び声をきいた八戒と沙悟浄は馬をひき立てると、
大急ぎで松林の中からとび出してきた。
見ると、さっきまで猛火に包まれていたあたりが、
一面のぬかるみになっている。
二人はぬかるみを物ともせず、川のほとりまで進み出た。

と、奔流さかまく中に、
頭がひとつ浮き沈みしているのが見える。
沙悟浄は自分の着ていたものを脱ぐ間もなく
流れの中へとびこむと、
浮いていた悟空の身体を抱いて岸辺へあがってきた。
気を失ったのか、悟空は身体を動かすことも出来ず、
手足は氷のように冷たくなっている。
「ああ!」
と沙悟浄は頭を抱えて、
「億万年不老不死を誇った兄貴が、
 とうとうこんな姿になってしまって……」

あとは自腹で流す満眼の涙雨である。
「泣くことはないよ。
 兄貴は死んだ真似をして
 俺たちをおどかしているだけのことさ」

八戒は笑いながらそばに立っていたが、
さすがに不安に襲わわて、
「おい。まだ胸のあたりにいくらかでも
 温かみがのこっているかどうかさわって見ろ」
「身体中、冷えきっているよ。
 これではとても生きかえるまい」
「しかし、七十二変化の持主だから、
 生命も七十二人分はもっている筈だ。
 お前が足の方を持っていろ。
 俺が人工呼吸をさせて見るから」

八戒は沙悟浄に悟空の足をもたせ、
自分は腕まくりをして、その場で按摩禅法をはじめた。
悟空はもともと死んだわけではなく、
冷たい水をしこたま飲んで
声か出なかっただけのことであるから、
八戒にマッサージをされると、すぐ息を吹きかえし、
「お師匠さま!」
と一声叫んで目をひらいた。
「ああ。兄貴」
ホッとした沙悟浄はまたしても涙ぐみながら、
「あなたのような死んでも
 お師匠さまの名を呼び続ける弟子をもって、
 お師匠さまも本当にしあわせだ」
「やあ。お前たちか。俺は惨敗したよ。
 どうだ、このざまは……」

自嘲するような口ぶりである。
「嘆くよりも先に、この俺にお礼でも言ったらどうだ?
 俺がマッサージをしてやらなかったら、
 兄貴は西方極楽にたどりつかないうちに
 早くもお陀仏だぜ」
と八戒は笑っている。

悟空はむくむくと起きあがると、
「竜王たちはどこにいる?」
「ここにいます」
と東海竜王は雲の中から応じた。
「色々と力をかしていただいて忝い」
「いや、何のお力にもならなくて恐縮しています」
「今日のところはひとまずお帰り下さらないか。
 いずれ改めてお礼に参上しますから」

いつまでもここにいても仕方がないので、竜王の一族は、
一同に別れを告げるともとの大海へ引きあげて行った。

あとに残された三人は松林の中にしばらくかくれていたが、
「いつまでもここでこうしていても埒があかないなあ」
と沙悟浄も言い出した。
「埒があかないと言ったって」
と八戒が嘴をとんがらせた。
「人生という奴はなるようにしかならないものだ。
 ケ・セラ・セラ、と歌にもうたわれているじゃないか」
「しかし、我々がこうしている間に、お師匠さまは
 料理台にのせられているかもしれないんだぜ」
「じゃどうすればいいと言うんだ?」
と脇から悟空がきいた。
「我々にお経をとりに行くようにと
 すすめてくれたお方は観音菩薩だ。
 我々が神聖なる事業に従事している限り、
 天を呼べば天が応え、地を呼べば地が応えるだろう
 とおっしゃって下さったのはあの方だ。
 あの方のところへ救いを求めに行かないという手は
 ないでしょう?」
「俺が天界荒らしをやったあの頃は」
と些かセンチメンタルになって悟空は言った。
「十万の神兵を相手どって戦っても、
 一歩も後へひかなかったものだがなあ。
 それがこんな小僧ッ子になめられるようになるなんて、
 ずいぷんモウロクしたものだよ」
「兄貴の口からそんな弱気の言葉をきくのははじめてだな」
と八戒は笑いながら、
「しかし、たまに弱気になるのも悪くはないよ。
 弱気のところを見せつけられると、
 兄貴もやっばり俺たちと大して違わない人間だったわい
 と言って世間の同情か集まるからな」
「世間とは、つまりお前のことか?」
と悟空はききかえした。
「ハハハハ……。兄貴は察しがいいな。
 いつだって俺は強い者には反発を感ずるが、
 弱い者には同情的だからな」
「それじゃ弱りついでに、頼むよ。
 この通り俺は足腰が立たなくて、
 斗雲にのるのは到底及びもつかないんだ」
「いいとも。いいとも。
 ほかならぬ兄貴の頼みとあれば、
 たとえ火の中、水の中……」
「バカヤロー」
と悟空は苦笑しながら、
「しかし、お前なら、
 まあ、何とか落伽山まで辿りつくことは出来るだろう。
 ただ観音菩薩の前に出た時は、
 言葉遣いなどにも十分気をつけるんだぜ」
「おべっかを使うことなら、ほばかりながら、
 この俺の方が兄貴よりは一枚うわてだよ」

八戒はそういうと、早速、雲に乗る準備にとりかかった。

折しも火雲洞へ引きあげた妖怪は、
小妖怪どもを相手に酒宴のさなかであった。
「さあ、今度という今度は奴も思い知っただろう。
 あの調子じゃたとえ死ななかったとしても、
 気絶くらいはしたに違いない。
 アッハハハハ……。──だが、待てよ」
と紅孩児は俄に立ちあがると、
「おい。急いで門をあけて見ろ」

門のひらかれるのももどかしそうに、
紅孩児はそとへとび出した。
見ると、今しも猪八戒が雲の上にのって
南の方角さしてとび立って行くところである。
「やっばりそうだった。
 あの方角へ行くところを見ると、
 さては観音菩薩のところへ援軍を求めに行くのだな。
 よしよし」
妖王はうしろをふりかえると、
「おい。お前たち。俺のあの皮袋を探し出しておいてくれ。
 長い間使わなかったから
 紐が駄目になっているかもしれんが。
 そうだ、
 新しい奴ととりかえておく方が安全かもしれんな。
 俺が猪八戒を生捕りにしてくるまでの間に
 とりかえておけ」

そう言って火雲洞を出ると、これまた雲にのり、
近道をして八戒の行く手に何食わぬ顔をして
待ちかまえていたのである。

そんなこととは知らないから、
えっちらおっちらと雲を走らせていた八戒が
ふと顔をあげると、
絶壁の上に観音菩薩が端坐しているのが目に入ってきた。
「兄貴の奴、落伽山はずいぶん遠いところだといって
 おどかしやがったが、大したことはないじゃないか。
 いや、それとも俺の駕雲術が
 大したものだということなのかな」

八戒はすっかりいい気分になって、
絶壁の前に近づくと、雲の上に膝をついて、
「観音菩薩さま。私は弟子の猪八戒でございます」
「お前は三蔵法師のお供をしないで、今頃、
 ここに何をしに参った」
と偽者の観音菩薩は言った。
「ハイ、それが……」
と八戒は号山枯松澗のほとりで、
三蔵法師が化け物にさらわれ、
悟空がそれを奪いかえそうとして
さんぎんな目にあわされた経緯を話した。
「そういうわけで、この上はどうしても菩薩さまのお力を
 お借りするよりほか方法もございませんのです」
「号山の化け物と言えば、聖嬰大王紅孩児ではないのか?」
「ハイ。おっしゃる通りでございます」
「紅孩児なら、私もよく知っているが、
 そんな話のわからん奴ではないと思うがな。
 大方、お前たちが先に挑発したのだろう?」
「とんでもございません。
 私たちは旅の坊主で、
 只でいただくことになれているので、
 喧嘩を売られても買わないことに致しております」
「それならば、私が行ってお話をつけてきてあげよう。
 その代りもし相手が私の顔に免じて
 三蔵法師をかえしてくれるなら、
 頭を地にこすりつけてお礼をいうんだよ」
「ええ、ええ、頭を地にこすりつけるくらいのことなら
 お安い御用でございます」

化け物は岩の上から立ちあがると、
猪八戒を連れて、もときた道を火雲洞まで戻ってきた。
「紅孩児なら一面識のある仲だからね。
 お前も一緒に中へ入るがいい」

そう言って化け物は先に立って洞門をくぐったが、
あとからついて八戒が中へ入った途端に
そばにひかえていた小妖怪どもが、
わあッとばかりにとりかこんで無理矢理しばりあげ、
如意袋の中に入れてしまった。
「やい。猪八戒!」
と紅孩児は、
天井からぶらさげられた袋の中のブタに向って言った。
「聖嬰大王と観音菩薩¥の見分けもつかない奴が
 西方へお経をとりに行こうなんて、大それた魂胆だぞ。
 お前のような重要食糧は蒸籠の中で蒸されて、
 小妖怪どもの口の中へ入って行くのが一番似合いだ」
「何を。無礼千万な。
 人もあろうに観音菩薩に化けてカタリを働くとは、
 いまに天罰があたってペストで死ぬか、
 コレラで倒れるか、がオチだぞ」
「何だい、そのペストっていうのは?」
「田舎者はこれだから困るよ。
 ペストというのはおそろしい病気だぞ。
 一コロだぞ」
「豚のかかる病気か?」
「そうだ。そうだ。
 その病気にかかった豚を食べると、病気がうつる。
 俺はその病気にかかっているんだ」
「ハハン。それでわかった。
 実は前々から何だってブタペストという町があるのかと
 不思議に思っていたが、
 おかげで今日は新知識をひとつ仕入れたぞ。
 アッハハハハ……」

2000-12-23-SAT

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