毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第4巻 風餐露宿の巻
第四章 冷戦熱戦

四 真贋のあいだ


「なるほどお前にそれほど腕前があれば、
 孫行者如きは大してこわくはないだろう」

悟空は笑うのをやめると、急に真面目な顔になって、
「しかし、折角の好意を無にするようだが、
 今日は人間の肉を食べるのは
 遠慮することになっているんだ」
「それはまたどうして?」
「年をとってからというもの、
 お前のお母さんから口うるさくすすめられてな、
 この頃は、精進をしているんだよ」
「へえ?
 それはまたどうした心境の変化なんですか?」
「心境の変化というほどでもないが、
 年をとると、どうも肉食より
 野菜サラダとか果物の方が身体にいいようだな」
「じゃ、年百年中、野菜ばかり食べるんですか?」
「いやいや。儂のは雷斎と言って、月に四回の精進だ。
 今日は生憎とその日にあたるが、
 明日になれば何を食べてもさしつかえないから、
 明日の楽しみにのこしておこう」

いかにももっともらしい口吻であるが、
化け物は何となく心にひっかかるものがあった。
「待てよ。
 うちのオヤジは平生から肉食主義者ではなかったか?
 それが千年も続いた今になって月に四日の月賦償還では、
 いつになったら完済がきくことか。
 おかしいぞ。おかしいぞ」

化け物は父親のそばを離れると、
六健将のいるところへやって来た。
「お前ら、どこから老大王を迎えてきた?」
「途中でお会いしたのです」
「道理でいつもより早いと思った。
 じゃ家まで行かなかったわけだな?」
「ハイ。ちょうど、途中でお会いしたものですから」
「しまった!」
と紅孩児は叫んだ。
「こりゃ偽者だ。老大王じゃないぞ」
「そんなことをおっしゃっても、
 大王ご自身のお父上ではございませんか?」
「恰好や身ぶりはそっくりだが、
 どうも言葉つきがおかしい。
 ひょっとしたら、
 一杯食わされているのかもしれないから、
 お前たち、油断をするな。
 俺は、これから行って、色々さぐりを入れて見る。
 もし偽者だったら、合図をするから、
 すぐに打ってかかれ」

化け物は再び悟空のいるところへ戻って来ると、
「そうそう。この間、空を散策していたら、
 偶然、張道齢先生にお会いしましたよ」
「張天師のことかね?」
「ええ、そうです」
「儂もしばらく会っていないが、元気だったかね?」
「ええ、父上にあったら、
 よろしくとおっしゃっておりました。
 先生は占いでは第一人者だそうですが本当ですか?」
「本当だとも。
 坐れほピタリとあたるというのはあの人のことだ」
「なるほど。それでわかった」
「どうしたんだね?」
「いや、張先生は私に会うと、じっと私の顔を見て、
 なかなかいい相をしているな、
 とほめて下さったのですよ。
 それで私の生年月日をきかれたんですが、
 さあ、自分の生れた月日を記憶している天才は
 どこにもいませんやね、仕方がないから、
 この次、父上にあった時に教えてもらっておきます
 と言って別れたんです」
「困ったことになったぞ」
と悟空は思わず舌打ちをした。
「小遣いがないからよこせという話なら
 何とか答える術がないでもないが、
 化け物の生年月日を
 俺が知っているわけがないじゃないか」
と言っていつまでも黙っているわけには行かない。
こうなったらトボけるに限ると思った悟空は、
「さあ、お前の生れた日はいつだったか、
 ちょっと度忘れしたな。
 何も急ぐ話ではないだろう。
 明日にも家へ帰ったら、
 お前のお坊さんにきいておいてあげるよ」
「この野郎!」
と紅孩児は声をはりあげて叫んだ。
「化けの皮が剥がれたぞ。
 俺のオヤジは、会えばいつも俺の生年月日を口にして、
 お前は天地と共に生命永らえる相だと言っている。
 本当のオヤジが
 俺の生年月日を忘れるようなことがあるものか。
 者ども、かかれ!」

化け物の合図と共に小妖怪どもは、
わあッとばかりにおどりかかってきた。

悟空は如意棒をとり出して防ぎとめると、
すばやくもとの姿にかえって、
「これこれ、坊や。
 親に向って腕をふりあげる奴があるか!」
化け物の顔は羞しさのあまり見る見る真赤になって、
まともに悟空の顔を正視することが出来ない。
その隙に悟空は一条の光となって
洞門から姿を消して行った。
「大王。孫行者が逃げて行きました」
「勝手にしやがれ」

化け物は悟空の前に膝をついて大言壮語した手前、
地団駄ふむよりも、穴があったら、
入ってしまいたいような思いで胸が一杯になっている。
「洞門をしめてしまって、猿なんか相手にするな」

さて、如意棒片手に洞門をぬけ出した悟空は、
おかしくておかしくて笑いがとまらない。
川をとびこえ、松林の中へ入っても、
まだ腹の皮をよじらせて笑いつづけている。
「なにがそんなにおかしいのですか?」
と沙悟浄が怪訝な顔をして問いかけた。
「お師匠さまは無事だったのですか?」
「いやいや。
 お師匠さまはまだ助けていないんだが、
 俺は化け物に一杯食らわせたんだ。
 おかげで胸の溜飲が一ペんにさがってしまったよ。
 アッハハハハ……」
「どうしたんです?」
「いや、八戒の奴、観音菩薩のところへ行こうとしたら、
 化け物の化けた偽者の観音菩薩にだまされて、
 洞門の中へつれこまれたんだ。
 それで今度は俺が化け物のオヤジに化けて、
 化け物におとっつぁん、おとっつぁんと
 大歓迎をうけたというわけさ。
 アッハハハハ……」
「そんなことよりも、
 お師匠さまの生命はどうなんですか?」
「心配することはないよ。
 俺がこれから菩薩のところへ行ってくる」
「でも兄貴は足腰がまだきかないのじゃないですか?」
「アッハハハ……。
 さっき化け物が七重の膝を八重に折って
 三拝九拝してくれたおかげで、
 足腰の痛みなんぞすっとんでしまったよ」

悟空は沙悟浄に馬と荷物の番をたのむと、
早速、斗雲を走らせて、南海へ向った。

須臾にして、斗雲は落伽山のほとりに到着した。
「観音菩薩にお目どおりを」

悟空はすぐ奥へ通された。
「今日はまた何用があってきたのだね?」

蓮台の上の観音菩薩は何もかもご存じのくせに、
いつものことながら微笑を浮べている。
「実は六百里鑚頭号山のほとり火雲洞で、
 お師匠さまが難にあっているのでございます」
と悟空は、火雲洞の化け物に
行く手を阻まれてい経緯を話した。
「三昧真火がそんなに手のつけられないものなら、
 どうして四海竜モのところへ頼みに行って、
 私のところへ頼みに来ない?」
「本当は私が自分で来るつもりだったのですが、
 煙にやられて、雲にのれなかったので、
 八戒に来るように言いつけたのです」
「八戒はここには来ていないよ」
「そのことです。
 実は化け物が菩薩さまに化けて
 八戒を洞中に連れこんでしまったのです。
 人もあろうに菩薩さまの姿に化けたのでございますよ」

悟空は菩薩が今にも眉をつりあげて怒り出すかと思ったが、
相変らずニコニコ顔で、
「私の偽者はうまく出来ていたかね?」
「さあ、
 私ならもちろん見破ることが出来たと思うのですが……」
「画描きさんなども偽者が横行するようになると
 一人前だそうだからね。
 どれ、偽者がどういう具合に出来あがっているか、
 ひとつ見物に出かけるとしようか」
菩薩は手にもっていた宝珠浄瓶もちあげると、
あッ、と悟空が叫ぶ間もなく海の中へ投げすてた。
「もったいないことをするお方だな。
 捨てると知っていたら、私に下さいと頼むんだったがな」

だが、見よ。

宝珠浄瓶の投げ捨てられたあたりから
波はむくむくともりあがり、
宝珠浄瓶はまたも波の上に浮きあがってきた。

いや、浮きあがってきたのではない。
一匹の怪物がその背に浄瓶をのせて
海の中から現われ出でたのである。

2000-12-26-TUE

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