毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第4巻 風餐露宿の巻
第五章 黒船物語

一 借り物のうてな

宝珠浄瓶を背負って海の中から現われてきた怪物は、
よくよく見ると一匹の大亀であった。
のろのろと陸の上へ這いあがってきたその大亀は、
観音菩薩の前に這いつくばると、
丁寧におじぎをしはじめる。
「なあんだ」
と下の方から眺めていた悟空はあてがはずれて
「遺失物をかえせとでもいうのかと思ったら、
 もともと浄瓶の番人だったのか?」
「悟空や」
と菩薩はきこえぬふりをして、
「お前、いま、何か言ったかね?」
「いえ、別に何も……」
とあわてて悟空は口を覆った。
「すまないが、お前、
 あの亀の背中にのっている浄瓶を
 持って来てくれぬかね?」
「へえ」
と悟空は早速、亀のいるところへとんで行って、
片手で浄瓶をもちあげようとしたが、
いやはや、その重いこと。
まるでとんぼが石柱を押すようにびくりともしない。
「観音さま。とても私では……」
とさすがの悟空も菩薩の前に
シャッポーをぬぐよりほかなかった。
「それ見ろ。
 いくら大きな口をきいたって、
 浄瓶の一つさえ動かせないではないか」
と観音菩薩はニヤニヤ笑っている。
「いえ、それが……」
と悟空も性来の負けず嫌いで、
「ふだんの私なら簡単に動かせるのですが、
 何しろ化け物に一杯食わされて
 足腰が弱っている時だものですから」
「男一匹、法螺を吹くのは
 いい加減にしておいた方がいいよ」
と菩薩は顔をほころばせながら、
「ああ見えても、あれはタダの空瓶ではない。
 さっき海の中へ投げた時はなるほどカラだったけれど、
 今は三江五湖、七つの海をくぐりぬけて、
 一つの大洋くらいの海水を中へ入れてきたのだ。
 お前は海の中にもぐることは出来るかもしれないが、
 東洋大海をちょっと片手で持ちあげるだけの、
 自信はあるかね?」
「へえ、そうだったのですか?
 道理でバカに重いと思いました」

菩薩は自分で立ちあがると、亀のそばへ近づいて、
右の手で浄瓶を軽々と持ちあげ、
左の掌の上にのせた。
「この瓶の中に入っている甘露水は、
 竜王が予算のやりくりをして降らせる
 社用の雨とはわけが違って三昧火くらいは
 簡単に消しとめてしまう。
 これをお前に持たせてやろうと思ったのだが、
 お前の力で持てないんじゃ仕方がないね」
「誰か観音さまのほかに
 持てる人はいないのでございますか?」
「海を動かす力をもっているものは、
 ほかに善財竜女しかいないよ。
 しかし、竜女は世間稀に見る美人だし、
 この浄瓶にしても世間稀に見る財宝だ。
 お前と一緒に行かせてもよいが、
 何しろお前はふだんから手癖のいい方じゃないからな」
「おやおや。菩薩さままでが私を疑うとは情ない。
 こう見えても私は僧門に入ってからというもの、
 かつて禁を犯したことはありませんよ」
「だからお前に禁を犯させたくないのだよ。
 もしお前がむらむらと悪心をおこして
 財色兼収とばかりに駈け落ちしたら、
 私はどこへ探しに行けばいいんだね?
 絶対にそんなことはやれないという証拠に、
 何か私に安心の出来る抵当でも
 おいて行くならまた話は別だけれど……」
「そんなことをおっしゃったって」
と悟空は自分の身のまわりを眺めながら、
「私の身につけているこの服は
 お師匠さまがくれたお古だし、
 この虎皮の腰巻じゃ質屋でも金は貸してくれまい。
 と言って、この如意棒をおいて行ったんじゃ、
 いざという時に身を守ることが出来なくなってしまう。 
 そうそう、俺のこの頭にしめてある緊箍児、
 こいつをひとつ抵当において行くことにしますよ」
「ハッハハハ……」
と観音菩薩は声を立てて笑いながら、
「お前もなかなか考えたね。
 しかし、私は服も如意棒も緊箍児も要らない。
 お前のその頭のうしろに私が生やしてあげた
 救命の毛を一本、
 抵当にもらっておけばそれでたくさんだ」
「と、と、とんでもありません。
 これはあなたがいざという時のために、
 私に下さったものではございませんか」
「毛の一本さえ抜き惜しみするようなけちんぼじゃ、
 私も善財竜女を渡すのが惜しくなってきたよ。
 アッハハハハ……」

さすがの悟空にも、この観音菩薩の冗談は通じたらしい。
悟空も一緒になって笑いながら、
「坊主の顔は立てなくとも仏の顔は立てろと申します。
 ひとつ菩薩さまの顔に免じて、
 どうかお師匠さまをお助け下さい」

そう言われると、菩薩は快く蓮台から立ちあがって、
潮音仙洞を出た。
「悟空や」
と観音菩薩は普陀巌の上に立って言った。
「お前がさきに海を渡ったら?」
「いえいえ、どうぞ観音さまがおさきに」
「何もそんなに遠慮することはないじゃないか?」
「そりゃそうですが、
 斗雲にのった私の姿を菩薩さまにお見せするのは、
 あまりいいザマではございませんから」
「ハハハハ……。きょうはえらく遠慮深いんだね」

そう言いながら、菩薩は善財竜女の方をふりかえると、
蓮花池から蓮の花の花びらを一片持ってくるように命じた。
竜女が花びらを持ってくると、
菩薩はそれを崖のすぐ下の海の上に浮べた。
「さあ、じゃ、あの上に乗るがいい。
 私がお前を海の向うまで渡してあげるから」
「へえ? あの花びらの上にのるのですか?」
と悟空は目を丸くして、
「板子一枚下は地獄と申しますけれど、
 あんな薄っぺらな花びらの上じゃ、
 とびこんだ途端に海の底ですよ。
 冬はただでさえリュウマチにこたえるのに、
 その上、風邪をひいちゃ大へんだ」
「ぐずぐず言わないで、さあ、ためしにのってみなさい」

菩薩が大きな声を出したので、
悟空はやむを得ず、崖の上からとびおりた。

と、さっきは小さな花びらと思ったのが、
上にのってみると、
結構、舟の中よりも広々としているではないか。
「菩薩さま、うまくのっかりましたよ」

悟空が子供のよう声を立てると、
「うまくのっかったのなら、舟を出しなさい」
「そんなことをおっしゃったって、
 この舟には櫓も櫂もありませんよ」
「櫓も櫂もなければ、舟は動かないものかね。
 ハッハハハ……。
 お前も案外、
 常識という名の俗見の中に生きている男じゃないか」

そう言って、菩薩が軽く口笛を吹くと、
花びらはたちまち爽やかなメロディにのって、
あれよあれよと思う間に、
南洋大海をすぎて対岸へ着いてしまっていた。
「どうも菩薩さまはこれだから困っちゃうよ。
 天下の斉天大聖を事もあろうに
 口笛ひとつで動かしてしまうんだからな」

一方、菩薩は善財竜女に留守番を頼むと、
自らは祥雲にのりながら、
「恵岸はいるか?」
と木叉を呼び出した。
「ハイ、只今」
と恵岸行者が御前にまかり出ると、
「お前はこれからすぐ天界へ行って、
 お父さんから天刀を借りて来てくれぬか?」
「何本借りてくればよろしいのですか?」
と恵岸はききかえした。
「あるだけ全部」
「ハイ、わかりました」

恵岸は直ちに雲の中を分けて南天門を入ると、
季天王の御殿へ真行した。
「おや。木叉じゃないか」

息子の顔を見ると李天王はすぐにきいた。
「お前、いまごろ何をしにここへ来た?」
「実はお師匠さまが化け物退治をなさるのに、
 父上から天刀を借りてくるようにと
 おっしゃられたので、お使いに参ったのです」

それをきくと、李天王はすぐに命じて
三十六本の刀をとりそろえて、
木叉にひきわたすようにと言った。

さて、から天刀を受取った木叉が
大急ぎで南海へ戻ってうやうやしく菩薩の前に捧げ出すと、
観音菩薩はそれを手にとって空高く投げあげた。
と見よ。
幾十本の刀は見る見る形をかえて蓮の花びらとなり、
たちまちきらびやかな千葉蓮台が
出来あがって行くではないか。
「アッハハハ……」
と遠くから見ていた悟空は思わず手をたたきながら、
「自分の蓮台を持って行って万一壊されたら損だから、
 他人のフンドシでという了簡なんだな」
「これ、何をつべこべ言っているんだ」

見ると、蓮台にのった観音菩薩は
早くも悟空のいるところを通りすぎて行く。
「早くついて来ないと、遅れをとるぞ」

あわててとびあがった悟空は
菩薩のあとをとんで行く白鸚鵡の、
そのまたあとを迫った。

2000-12-27-WED

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