毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
第五巻 色は匂えどの巻 第一章 早い雪 |
一 大学教授は知らない 月日のたつのは早いもので、 ついこのあいだが春だと思っていたのに、 もう夏もすぎていつのまにか膚寒い朝晩である。 「そろそろ秋だな」 と馬上の三蔵法師は遠い空を眺めながら言った。 西空は夕焼小焼で、 西向くサムライたちの顔もまっかッかである。 「もう日が暮れるというのに、 どこにも人家らしいのが見当らないな」 と三蔵があたりを見まわすと、 「お師匠さまも近頃はめっきり人なつっこくなりましたな」 と先頭に立っていた悟空はうしろをふりかえって言った。 「独身主義者のお師匠さままでが 家に女房でも待っているような口をきくと、 八戒の奴が高老荘を思い出して、 また人生の無情を嘆きはじめますよ」 「ハッハハハハ。人生の無情にはもうなれっこになったよ」 と八戒は笑いながら、 「それよりも、兄貴、 俺のこの荷物の方が嘆きのタネなんだ。 早くどこぞ人間の泊れるところをさがして、 今夜一晩ぐっすりねむって、少し銑気を養いたいな。 でないと、 この運搬機械は油がきれて動かなくなってしまうよ」 「機械というものは 少しくらい酷使をしても大丈夫なものさ。 今夜は月も出るようだから、 もう少し先まで行って 家があるかどうか探してみようじゃないか」 仕方がないので、 一同は悟空のあとについてさらに先へ進んだ。 と、たちまち耳を塞ぐばかりの ゴーゴーたる水の音がきこえて来た。 「いよいよ袋小路に迷いこんでしまったぞ」 と八戒が叫んだ。 「河にさしかかっただけのことだろう。 何もそんなに騒ぐことはないよ」 と沙悟浄は落ち着いている。 「でも困ったな。どうして河を渡ったものだろうか?」 「ちょっとお待ちになって下さい、お師匠さま」 と八戒はすぐに、 「私がいま河の深さをはかってみますから」 「河の深さをはかるってどうやってはかるんだね?」 「なあに。わけはありませんよ。 卵のような形の石をひとつ技げ込んでみて、 もし水しぷきをあげるようなら浅いし、 ぶくぷくと沈んでしまうようなら、 とてもこのままわたるってわけには行きません」 そう言って八戒は丸い石を拾いあげて 河の中めがけて投げ込むと、 ぶくぶくぶく……と水の底ふかく沈んで行ってしまった。 「深いぞ。深いぞ。とてもわたれそうにないぞ」 「お前は深さのことばかり気にしているようだが、 河の幅の方はどうなのかね?」 と三蔵はきいた。 「さあ、そいつは私にはわかりません」 「やっばりこの俺でないと駄目なようだな。 どれどれ、俺が見て来よう」 悟空は斗雲に乗ると、たちまち空の上へとびあがった。 見ると、月の光を受けて白く輝く夜の河が、 まるで海のように視界の彼方まで続いている。 「お師匠さま」 と雲をおりた悟空は言った。 「とてもわたれそうにありません。 私のこの眼で見れば、昼間なら一望千里、 夜間でも四、五百里は見通せるのですが、 その私に向う岸が見えないのでございますから」 三蔵はすっかり勇気を挫かれて 言葉をかえす気力すらもない。 暗がりの中でクスンクスンとすすりあげているのは、 どうやらしやくりあげているのらしい。 「お師匠さま。 嘆きのセレナーデを奏でるのはまだ早すぎますよ」 と沙悟浄は慰めた。 「ほら。あすこに誰か人間が立っているじゃありませんか」 「うむ、漁師いるようだな。 俺が行って様子をきいて来よう」 悟空が如意棒を片手にそばへ近づいて行くと、 ああ、人と思いきや、 そこにつっ立っているのは一つの石碑であった。 「お師匠さま。ちょっとご覧になって下さい」 一同が近づいて見ると、 通天河と大書してある下に小さな文字で二行、 径過八百里(かわのはばははっぴゃくり) 亘古少行人(こらいわたるひとすくなし) と書いてある。 「ああ、どうして人生にはこう山や河ばかり多いのだろう。 西天の夢を見るのと、西天への道を行くのは大違いだな」 「そうですよ。 インテリなんてものは家にいて、 “翼よ、あれがパリの灯だ” なんて本でも読んでいる方が無事なんですよ。 それが身のほどを知らぬ探検心をおこせば、 まずこんなことになるのがおちです」 と、すかさず八戒は言った。 「しかし、お師匠さま、あれがきこえませんか?」 と沙悟浄は俄かに緊張して、 「どこかで 笛や太鼓を鳴らしている声がきこえてきませんか」 一同が耳をすますと、 なるほど遠くから楽器の音がかすかにきこえてくる。 「お祭りの音楽らしいぞ」 と八戒がきき耳を立てた。 「早く行って何か食べるものでも恵んでもらおう。 河を渡るのは明日になってからでも遅くはないよ」 八戒が先頭に立って馬のたづなをひき、 一行は音楽の鳴る方へと進んで行った。 音を唯一の頼りにしての強行軍だから、 道もクソもあったものではない。 河原の石のごろごろしたなかをガムシャラに進んで行くと、 やがて人家のあるところへ出た。 「悟空や。ここならひさしを借りるだけでも あの河原よりはよっぽどましだよ」 と三蔵が言った。 「お前たち、ここでしばらく待ってておくれ。 私が奥へ行って、 宿を貸してくれるかどうか交渉してきてみるから」 そう言って三歳は馬をおりると、 門前に旗の立った家の中へ入って行った。 「もしもし」 半びらきになった門の奥から明るい光がもれてくる。 案内を乞う声に、 やがて数珠を片手にした一人の宅人が出て来た。 老人は坊主姿の三蔵を見ると、 「やれやれ、あなたは来方が少し遅すぎましたよ」 「ぇ? 何ですって?」 「もう家には何もございません。 さっきまで斎僧が沢山集まって鱈腹食べ、 その上、布地や鋼銭をおうけになって おかえりになったはかりです。 どうしてあなただけ こんなに遅れておいでになったのでございますか?」 「いえいえ、 私はお布施をちょうだいにあがったのではございません」 と三蔵はあわてて手をふった。 「でないとおっしゃると、 何のご用事でおいでになったのでございますか?」 「私は長安大唐国から西方極楽へお経をとりに参る 旅の僧でございます。 御地までまいりましたところ、 たまたま日が暮れてしまいましたので、 もし一夜の宿をお貸し願えたら と思ってお伺いした者でございます」 「長安大唐国からですって?」 と老人は大袈裟に眼をむいて、 「あんまり大風呂敷をひろげないで下さいよ。 長安大唐国と言えば、 ここから五万四千里もある遠いところです。 そんなところから単身で、 しかも何ひとつ持たないでここまでおいでになるなんて、 とても信じられません」 「おっしゃるとおりでございます。 実は私には弟子が三人おりまして、 一行四人でさんざん苦労を重ねて やっとこちらまで辿りついたのでございます」 「ほかの三人はどちらにおいでですか」 「門の外に待たせております」 「じゃお呼びになって下さい。 大しておもてなしは出来ませんが、 寝るだけのところならごさいますから」 三蔵がうしろをふりかえって弟子たちを呼ぷと、 三人の者はいきおい込んで入ってきた。 ところが三人の風体ときたら、 天下にその名の轟いた醜男ぞろいである。 その容貌を一目見た老人は驚いて、 「やあ、化け物だ。化け物が来た」 「化け物ではございません。私の弟子でございます」 逃げ出そうとする老人を三蔵はおしとどめた。 「これがあなたの弟子ですって? あなたのような美貌の僧侶に、 どうしてまたこんな醜男の弟子がいるのですか?L 「見かけは醜男でもなかなか役に立つ連中でございますよ。 一人一人よおく見て下さい。 なかなか味のある顔付きで、 この連中の中に入っていると、 私はいかにも“金と力”がないように 見えてしまうのですよ」 と三蔵はなかなか弟子たちの持ちあげ方がうまい。 一行は門の中に入ると、馬をつなぎ、荷物をおろした。 大広間ではなお仏事が続けられていて、 四、五人の坊主がお経をあげていたが、 一行が案内されて入ってくるのを見ると、 これまた驚いて雲を霞と逃げ出してしまった。 「アッハハハハ……」 坊主のくせに人間を容貌でしか判断しない連中が、 ほうほうのていで這い出して行くのを見ると、 三人の弟子たちは腹をかかえて笑っている。 「お前たちのいたずらぶりには全くあきれてしまうよ。 まるで全学連そっくりじゃないか」 と三蔵は色をなして怒り出した。 「私は大学教授じゃないんだから、 お前たちの方が純真で世間の方が間違っている なんて言っておだてたりしやしないよ」 「私たちだって別にお師匠さまを大学教授と ごっちゃにしちゃいませんよ。 あんな連中と一緒にしちゃ、 教えを乞う我々の方が退学したくなりますからね」 と沙悟浄は言った。 「しかし、デモというのは面白いね。 野球場で声をからして応援しているよりも、 運動不足にならないだけでもいいや」 と八戒がちょっかいを入れる。 「だから、お前たちにはいつまでたっても 卒業証書をやるわけには行かないんだ。 むかしの人も言っているじゃないか、 “教育を受けなくても善を行う者は聖人で、 教育を受けて善を行う者は善人だ”と。 しかし、お前たちは教育を受けても 善を行うことを知らないバカ老だよ」 「しかし、そのバカ者がいるおかげで お師匠さまがひき立って見えるのではありませんか。 もし八戒が豚カツにされないで 豚聖と仰がれるようになったら、 お師匠さまは明日から飯の食いあげではございませんか。 アッハハハハ…」 と悟空も負けてはいない。 「そのくらいのことは私だって知っているよ」 と三蔵はくやしまぎれの微苦笑。 |
2001-01-11-THU
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