毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第五巻 色は匂えどの巻
第二章 金魚を釣る話

四 オーロラ地帯


通天河をわたると、ふたたび天下の大道となった。
一行は広い道を西へ西へと進んだが、時はすでに冬で、
森の木の葉はおち、人家の煙も細々と途絶えがちで、
見わたす限り荒涼とした風景である。

吹きすさぶ寒風の中を四人して進んで行くと、
やがて道は次第に細くなって
石また石の山道にさしかかった。
「ご覧よ。また山だ」
馬上の三蔵は、
行く手を遮る蹴しい山に気づいて遠くを指さした。
「あの山も、見るからに妖怪変化の住んでいそうな恰好を
 しているじゃないか」
「アッハハハ……」
と悟空は笑いながら、
「山を見た途端に妖怪変化を連想するとは、
 お師匠さまも精神状態がだんだん犬に似てきましたね」
「犬に似てきたって、お前と犬猿の仲だというのかね?」
「動物実験で条件反射というのがあるじゃありませんか。
 電流を通じてから食い物を与えると、
 しまいには電流を通じただけで
 犬がよだれをたれるようになるって。
 あれですよ」
「大体、妖怪変化は山の奥や河の中にしかいないと思うのは
 間違いですよ」
と八戒も負けずに言った。
「妖怪変化は、私に言わせると、
 都会の人ごみの中にかくれている。
 なかでもベッドの中や夢枕の中にいる。
 私には女が一番怖いですね」
「なるほど。
 八戒兄貴が行きずりの女性にウインクをしたり
 口笛で合図をしたりするのは
 怖いもの見たさだったわけですか?」
と沙悟浄がその言葉尻をとらえて言った。
「しかし、お師匠さまは経験主義者で、
 過去の経験から統計的にわり出すと、
 妖怪変化は山もしくは河に
 根城をおいているという結論が出てくるんです。
 あの山は見るからに妖気が漂っていますから、
 お互いに気をつけるに越したことはありませんよ」

四人がそんな無駄話をしながら山道をのぼっていると、
山の凹みのあたりに一軒の壮麗な建物が見えてきた。
「おや。あすこに家が見える」

三蔵がそういうと、とたんに皆は飢えを覚えてきた。
「待て、待て。俺があの家の吉凶を判断してみるから」

悟空が進み出て遥かに見わたすと、
建物のあたりから妖気が立ちのぼっている。
「お師匠さま。
 やっばり沙悟浄の言っている通りです。
 あすこへは近づかない方が安全です」
「どうしてだね?」
と三蔵はいかにも不満そうな顔をした。
「竜には色んな種類の子供が生まれるので、
 俗に“竜は九種を生む”
 という言葉があるではありませんか」
と悟空は笑いながら、
「その中に蜃という変種があります。
 蜃は怯しげな光を放って空中に楼閣をつくるので、
 蜃気楼という名がついております。
 鳥などがそれを本物の楼閣とカン違いしてとんで行くと、
 そのままあの中に呑みこまれてしまうのです」
「すると、あれは蜃気楼だというのかね?」
「そう思う方が安全ですよ」
「しかし、それにしても
 どこか身体を休めるところが欲しいな。
 いい加減、身体も疲れたし、腹もペコペコだし」
「それじゃ私がどこかへ托鉢に行ってきましょう。
 お師匠さまたちはここで待っていてくれますか?」

悟空は八戒から托鉢の鉢をぅけとると、
「じゃ、私がここに円をえがいて
 悪魔除けの安全地帯をつくっておきますから、
 私がかえってくるまではどんなことがあっても
 ここから外へ出ないようにして下さいよ」
そう言って如意棒をとり出すと、
三人のまわりに大きな円をえがいて、呪文をとなえた。
「こうしておきゃ金城鉄壁の中にいるのと同じだ。
 自動車が間違えて突っこんでくりゃ、
 自動車の方がひっくりかえってしまうだろう」
悟空は二人のおとうと弟子に師匠のことを頼むと、
自分は斗雲にのってたちまち南の方へとんで行った。

やがて鬱蒼とした老樹に囲まれた村が見えてきた。
橋のそばには茅ぷきの大きな家があって、
家の前で一人の老人が天を仰ぎながら、
「西北風が吹きはじめたから、明日は天気だね」
とひとりごとを言っている。

悟空がそのそばへおりると、
突然、家の中から犬がとび出してきて猛然と吠え出した。
老人はその吠え声で、やっと悟空に気づいた様子である。
「ご免下さい。私は西方へ行く旅の僧侶ですが、
 少し食べ物をめぐんでいただけませんでしょうか?」
と悟空は言った。
「西方へ行く坊さんだって。
 じゃ道を間違えておられますよ」
「いえ、道は別に間違えておりません」
「西方へ行く道は、ここからずっと北の方へ
 千里ほども行った先にあるのですよ」
「その通りです」
と悟空は笑いながら、
「私のお師匠さまはその道の傍らで
 いま休んでおられます」
「嘘おっしゃい。
 あそこからここまで早馬にのっても
 六、七日はかかるところですよ」
「ですが、私はついさっき出てきたばかりで、
 これからかえってまたお昼の用意を
 しなければならないんです」
「じゃあなたは人間じゃないな。
 私の家には何もさしあげるものはありませんから、
 どこかよその家へ行って下さい」

そう言って老人はあわてて家の中へ入ろうとした。
その袖を急いでつかまえた悟空は、
「まあ、そうおっしゃらないで、何かめぐんで下さい。
 私のお師匠さまは腹をすかせて
 私のかえってくるのを今か今かと待っているのです」
「ですが、生憎とうちではさっき米を火にかけたばかりで、
 まだ御飯がたきあがっていないのです」
「それなら御飯のたきあがるまで
 ここで待たせていただきましょう。
 “三軒まわるより一軒で坐りこめ”
 と押売り戦陣訓にも書いてありますから」
「お前は私にたかるつもりか。
 早く出て行かないと、ひっばたくぞ」

老人は杖をふりあげていきなり悟空の頭を
六、七回もつづけざまに殴りつけたが、
悟空はかゆいところをかいてもらってでもいるように
涼しい顔をしている。
「ご老人。では殴り賃をいただくことにいたしましょうか。
 一殴り一升という値段ではいかがです?」
度胆を抜かれた老人はあわてて家の中へとびこむと、
「お化けだ。お化けだ」
と叫びながら戸をしめてしまった。
「ずいぶん不人情な年寄りもあったものだな。
 今、飯をたきはじめたばかりだというが、
 一体、本当だろうか」
そう言って悟空はこっそりと台所へまわった。
見ると、ちょうど御飯がたきあがったところである。
「では殴り賃をもらって行くか」
悟空は鍋の蓋をとって鉢に山盛り押しこむと、
大急ぎで今きた道をひきかえした。
しかし、さっきえがいた安全地帯はそのまま残っているが、
三蔵をはじめ八戒や沙悟浄の姿は、
オーロラのように消え失せてしまっているではないか。

2001-01-18-THU

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