毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第五巻 色は匂えどの巻
第三章 泥棒一家

一 欲を制する術


いくら眼をこすっても、
いるべきところに三蔵たちの姿が見当らない。

それもそのはず、悟空が托鉢に出かけているあいだに、
一行はすっかり待ちくたびれてしまったからである。
「あの猿め、どこをどうウロウロしているんだろうな」

三蔵は悟空がえがいてくれた丸い輪の中で、
何度もあくびをしながら言った。
その様子を見てとると、八戒は笑いながら、
「どこへ行ったか、わかったものじゃありませんよ。
 大方、我々をうまく牢屋に入れたわいと言って
 蔭で手を叩いていることでしょう」
「たしかにね、ここにこうしてじっと坐らされているのは
 牢屋に坐らされているようなものだね」
と三蔵は苦笑した。

「そうですよ。
 むかしの人は牢屋をつくる代りに、
 土の上に輪をえがいて、
 お前はその中に入っておれと言って
 罪人を処罰したそうですからね。
 仮りにここへ猛獣が襲いかかってきたと
 してごらんなさい。
 ここから一歩も動いちゃならんと言われちゃ、
 生命がいくつあっても足りませんよ」
「じゃ、お前はどうするのが一番いいと思うかね?」
と三蔵はきいた。
「兄貴がかえってくるまでの間に、
 一歩でも西へ近づいていた方がいいと思いませんか。
 どうせ兄貴は
 二本の足で歩いているわけじゃありませんから、
 我々がいないと見りゃすぐ追いついてきますよ。
 いずれにせよ、
 こう寒い風をまともに受けるところに坐っていちゃ、
 腰から下が冷えてかないませんや」

実のところ、三蔵自身もさっきからいらいらしていたので、
その言葉をきくと、
「じゃ、ぼつぼつ先に出かけるとしようか」
と言って、すぐその場から立ちあがった。

八戒は馬のたづなをとり、沙悟浄は荷物を肩に担い、
三蔵は馬のうしろから徒歩で、二人のあとに続いた。

ほどなく三人はさっき遠くから見えていた
楼閣のそばへ到着した。
見ると、それは南何きの家で、
家の門は五色に塗られた堂々たる構えである。
「こりゃ王族貴族の邸宅に違いない。
 門外に誰もいないところを見ると、
 奥で焚火でもしているのだろう。
 どれ、俺がひとつ様子を見て来よう」

頼まれもしないのに、
八戒が先に立って門をくぐろうとした。
「気をつけて、粗忽な真似はしないようにな」
と心配気に三蔵が言った。
「なあに。大丈夫ですよ。
 これでもいささか礼を心得るようになったのですから」

八戒は熊手を腰にさし、襟元を正すと、
お上品な足取りで奥へ入って行った。
門を入ると三間つづきの大きな庁があるが、
簾は捲きあげられたままだし、
人影もなければ、坐るべき椅子すらもない。
脇の門を通って更に奥に進むと、
黄色いカーテンがさがったままになっているのが見えた。
「寒いもんだから、
 なかなか布団から離れられないでいるんだろうか」

八戒は部屋の前に立って、二、三度、案内を乞うたが、
中から何の返事もないので、つかつかと部屋の中へ入った。
入って見て、思わず、
「あッ」
と叫んだ。
というのは、カーテンの裏側に
象牙でつくった寝台があって、
その上に一具の白骨が
ながながと横たわっていたからである。
「こりゃどういうわけだ。
 何だってこんな宏壮な邸宅の中に
 祭る人もない白骨が横たわっているのだ?」

奇怪といえば奇怪なことだが、
八戒は推理狂であるよりも先に坊主であったから、
両手をあわせると、思わず白骨の前に威儀を正した。

その時、奥から明りがもれてくるのが見えた。
「ハハン。祭主たちは奥にいるんだな」

急いでカーテンをあけると、
それは窓からもれてくる明りで、
その明りに照らし拙された壁のそばに机がおいてあって、
机の上に錦の着物が乱雑に投げ出されていた。
八戒がそれを手にとって見ると、
綿で出来た肌着がちょうど三枚ある。

あたりを見まわしたが、誰も見ている様子はない。
すると、坊主の心の中にねむっていた泥棒根性が
俄かに頭をもたげてきた。
彼は三枚の肌着を手につかむと、
そのまま息をはずませながら、表へとび出してきた。
「お師匠さま。ここは幽霊屋敷ですよ。
 白骨が一つ残っているだけです」
「八戒や。お前のその手に持っているのは何だね?」
「ああ。これですか。これは家の中にあったものです。
 寒さは寒し、天が我々に恵んでくれたものでございます」
「そういうわけには行かないよ。
 だまって他人の物を失敬するのは泥棒じゃないか?」
「でも中には誰もいませんでしたよ。
 目撃者のいない泥棒は泥棒の中には入りません」
「目撃者がいなくても、天知る地知る我知る、じゃないか」
「ハッハハハ……」
と八戒は笑った。
「お師匠さまはいつまてもそんな頭だから、
 なかなか現代の英雄になれないんですよ。
 今はむかしと違って法律万能の世の中ですから、
 泥棒をしたかしないかが問題ではなくて、
 泥棒をした証拠があるかどうかが
 問題にされるだけですよ」
「いやいや、今はそういう世の中かも知れないが、
 我々はそういう世の中を拒否するからこそ
 坊主になったのではないか。
 悪いことは言わないから、
 これをもとのところへかえしていらっしゃい」
「でもお師匠さま。
 この錦の肌着というのは
 ちょっとしゃれているじゃありませんか」
と八戒は笑いながら、
「な、沙悟浄。
 お前だって肌着の二枚や三枚は着たことがあるだろうが、
 綿の肌着という奴は着たことがあるかい?」
「いや、実はさっきから、素晴しいものがあるな、
 と感心していたところなんだ」
と沙悟浄は答えた。
「そうだろう。
 お師匠さまは欲望を抑えることばかり教えるが、
 坊主が普通の人よりもおしゃれなのは、
 坊主は着ているものなんかかまうなと
 戒められているからなんだ。
 そんな古色蒼然とした戒律に生きるよりも、
 欲しいものは何でも手に入れてみる、
 そうすると実はそれが
 何でもないものだということがわかる、
 そういう逆療法の方が効果があると思うんだが、
 どうだろうか?」

八戒はそう言って、
ひとり自分の着ているものを脱ぎはじめた。
三蔵が黙ったまま言も発しないので、
沙悟浄も我慢がならなくなって一緒に服を脱ぎはじめた。

二人が肌着を身につけて、上着をその上から着ると、
どうしたわけか、
身体をしめつけられるような感じがしてきた。
「おい。八戒兄貴。
 ぴったり肌にくっつきすぎて気持が悪いな」
「この方が保温上、都合がいいんだ。
 これはゴム縮みという織り方をした
 最新式の肌着なんだよ」

八戒が知ったかぶりをしている折しも、
肌着は見る見る収縮して、
「イテテテ……」
と二人が叫んだかと思うと、
いつの間にかがんじがらめにしばりつけられて
その場にころがされているではないか。
肌着と見えたのは、実は餌食をしばるために
この家の化け物がしかけておいた道具だったのである。

二人のわめく声に三蔵はびっくりして、
大急ぎで縄目をほどきにかかったが、
三蔵の非力をもってしてはいかんとすることも出来ない。
三人が大騒ぎをしているうちに、
化け物は眼をさましてしまった。
「どうやらネズミ取りにネズミがひっかかったらしいぞ。
 者ども、すぐつかまえてまいれ」

化け物が命令すると、
小妖怪どもは早速三人を奥へ引立ててきた。
「お前らはどこからきた泥棒集団だ?」
と化け物は一段と高い台の上から叫んだ。
「私どもは……」
と言いかけて三蔵は俄かに涙声になってしまった。
泥棒ではありませんと言いたいのだが、
他人の物を失敬した証拠は歴然としているのだから、
申しひらきの仕様がないのである。
「恰好だけを見ると、お前らは坊主らしいが、
 さては坊主の恰好をした泥棒の集まりだな!」
「私は泥棒ではございません。
 唐土から西方へお経をとりに参る僧侶でございます」
と、やっとの思いで三蔵が言った。
「あんまり、お腹がすいたので、
 さっき、弟子の一人を托鉢に出したところ、
 帰りが遅いので、
 せめて風を避けようと思ってこちらへやってきたのです。
 そうしたら、こいつらがなかから無断で
 着る物を持ち出してきたものですから、
 すぐにかえしてくるように申したのですが、
 言うことをきかないために
 こんなことになってしまいまして……」
「ハッハハハ……。
 泥棒にも三分の理というが、
 親分だけあってなかなか言い逃がれがうまいぞ。
 子分どもに罪をなすりつけて、
 自分だけ助かろうと思ってもそうはいかぬ」
「いえいえ、自分だけ助かろうなんて、
 そんな了簡ではございません。
 ただ私どもは大事な使命を持っておりますので、
 ここのところはお目こぼしをいただいて、
 どうか一命を助けていただきたいのでございます」
「一命を助けてやったら、何かいいことでもあるのか?」
「幸いにして一命を助けていただいたら、
 国へかえってから、
 あなたの度量の大きいことを宣揚してさしあげます」
「況棒の親玉に度量が大きいと賞められたって
 仕方がないわい。
 それに俺は、
 事実、それほど度量の大きな男でもないからな。
 アッハハハハ……」

化け物はそう言うと、部下に命じて
八戒と沙悟浄をしめつけていた道具をとりはずさせ、
代りに三人に縄をかけて、奥にひき立てて行かせた。

悟空が托鈍に出かけたホンの僅かの間の出来事である。

2001-01-19-FRI

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