毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第五巻 色は匂えどの巻
第三章 泥棒一家

二 低姿勢ばやり


悟空のかいた輪のあとはまだそのままだった。
「言わずと知れたこと。
 きっと化け物の毒手にかかったに違いない」

馬の蹄のあとを頼りに、悟空はすぐ道を急いだ。
五、六里ほど進むと、蹄のあとは崖のところで途絶えた。
あとは石だらけの広場で、ふと向うを見ると、
小妖怪どもが石門の前で練兵をしている。
「ハハン、ここだな」

悟空は腰の紐をしめなおし、手に如意棒を握りなおすと、
つかつかとそばへ近づいて行った。
「やい、ここはどこの何というところだ?
 何だって看板を出していないんだ?」
「看板を出さないと、
 営業が出来ないという法律でもあるのか?」
と小妖怪どもはききかえした。
「看板を出さなきゃ、
 旅の者が化け物屋敷と知らないで、
 間違えて入って行くじゃないか。
 この馬鹿野郎!」

はじめから喧嘩腰である。
「看板を出さなくたって、
 ここがどこか知らない奴はこのあたりに一人もおらん。
 おればそいつはもぐりだ」
と小妖怪の方も負けてはいない。
「なるほど、なるほど」
と思わず悟空は頷きながら、
「ところで、ここは何というところで
 お前らの親分は何という名前だ?」
「金山、金洞の独角大王といえば、
 泣く子もだまる天下の大親分だ。
 その辺の事業会社なら汽車の沿線に看板を出したり、
 ラジオやテレビで宣伝したりするが、
 政府が広告を出しているのを見たことがあるか!」
「ハッハハハハ……」
と悟空は声を立てて笑った。
「近頃はどこの国でも宜伝大臣をつくったり
 弘報室長を任命してPRにこれつとめている時代だ。
 いつまでも親分だ、実力者だ、党人派だ、
 なんぞと自己陶酔していたら、
 時代にとりのこされてしまうぞ。
 それよりも、お前らの親分にこう言ってくれ。
 唐の聖僧の徒弟、斉天大聖孫悟空が
 師匠をかえしてもらいにやってきた、と」

それをきくと、小妖怪どもは奥へとんで行った。
「なに? 斉天大聖だと?」
と魔王はちょっとびっくりしたが、
「あの坊主の弟子が一人托鉢に行っているときいたが、
 さては斉天大聖だったのか。
 俺も天降りをしてから久しく腕だめしをしていないから、
 ちょうどいい。
 者ども、すぐ武器を持って参れ」

魔王は武装に身をかためると、
家来をひきつれて洞門を出てきた。
「孫悟空と名乗るのはどいつだ?」
「やい、お前がこの洞窟の親玉か」
と悟空も怒鳴った。
「俺の師匠やおとうと弟子はお前のところにいるだろう?
 悪いことは言わないから、おとなしくこちらへ渡せ。
 さもないとお前の死骸を埋める土地をさがすのに
 苦労するぞ」
「お前の師匠とは一体誰のことだ・」
「唐王の御弟三蔵法師を知らないか?」
「ハッハハハハ……。
 お前の師匠は誰かと思ったら泥棒のことか。
 さっき俺の邸に泥棒が入って衣類を盗んだから、
 つかまえて奥につないである。
 泥棒を働くような男だから、
 もう少し腰が坐っているかと思ったら、
 助けてくれなんて、
 おろおろして今にも泣き出さんばかりだったぞ」
「嘘でたらめもいい加減にしろ。
 俺の師匠はそんなケチな男じゃないぞ」
「俺のいうことが嘘か真実か、
 お望みとあらば、ご対面させてあげてもよろしい。
 しかし、その前に、
 お前のその腕前を見せてもらおうじゃないか。
 この俺と三回も打ちあってまだ生命があれば、
 お前の師匠の生命を助けてやらぬでもないが、
 さもなければ、地獄への道を教えてやるまでのことだ」
「何をッ」

悟空は如意棒をふりあげると、
魔王に向っておどりかかって行った。
魔王は一丈二尺もある鋼鎗をしごいて
巧みにそれをうけとめた。
二人は互いに死力をつくして戦うこと三十回。
「さすがは天宮荒らしの猿だけある。見事なものだ」

相手が感心して喝采をすると悟空も負けずに、
「大した化け物だ。
 シルク・ロードに巣喰う実力者の名に恥じないぞ」

二人は互いに相手をたたえながら、
なおも十数回わたりあったが、
手間どっては面倒と見てとった魔王は
鎗先を地面につきさすと、
「者ども、かかれ」

それを合図に小妖怪どもは一せいに悟空へ向って行った。
悟空はひるむどころか、
待っていましたとばかりに如意棒を縦横にふりまわし、
更に「変れ!」と叫ぶと、
一本の如意棒が幾百千本になって、
まるで蛇か蟒のように乱れとぷ。
これには衆をたのんだ小妖怪どもも生きた心地を失って、
総崩れになった。
「山猿め、しやらくさい真似をしやがる。
 よし、俺の腕前を見せてくれる」

魔王はそう言って袖の中から
ピカピカ光る丸い輪をとり出すと、
「えいっ」
と言って空高く投げあげた。
丸い輪はくるくるまわりながら、悟空のそばへ落ちて行く。

その頃合を見て、魔王が、
「来い」
と叫ぶと、丸い輪は悟空の持っていた如意棒を挟んで、
あっという間に魔王のもとへもち去ってしまった。
武器を奪われた悟空は生命からがら逃げ出したが、
魔王はあとを追おうとせず、
部下をひきつれて悠々と洞門の中へ引き上げて行った。

長い戦歴を誇る悟空だが、
こんなブザマな目にあわされたことは一度もない。
ただ一人金山のうしろに身をかくした彼は
無念の思いに胸も張りさけんばかりであったが、
ふと魔王が
「さすがは天宮荒らしの猿」
と言った言葉を思い出した。
「俺がそのむかし
 天宮荒らしをやったことを知っているとすれば、
 あの化け物はむかし天界にいた者に違いない。
 よしよし、奴の前歴を洗えば、
 案外いい方法が見つかるかもしれないぞ」

やっと気をとりもどした悟空は直ちに斗雲に乗ると、
南天門へとやって来た。
「大聖。今日はお珍しいことで」
と広目天王が門前に迎えた。
「どちらへおでかけでございます?」
「ちょっと玉帝にお目にかかりたいと思ってね」
「何か重要な用事でもあるのですか?」
「金山というところで、
 いまひどい目にあっているところなんだ。
 ところがその元兇が、どうも天界の生活にあきたりなくて
 天降りをした元役人か何からしい。
 もしそうだとしたら、
 これは玉帝にも責任のあることだから、
 ひとつどういう了簡なのかきいてみようと思ってね」
「相変らず口の悪い猿だな」
と、そばできいていた許天師が笑った。
「口が悪いわけじゃないんだ。
 どうにもこうにも弱ったので、
 血路をひらく必要に迫られているところなんだよ」
「とにかくほかならぬ大聖のことだ。
 四の五のと言うよりも、とりついでやろうじゃないか」
と張天師が言った。
そこで悟空は霊霄殿連れて行かれて、
玉帝の前に額づかされた。
「玉帝陛下。今日、お伺いしたのはほかでもありません。
 実は金山で私の師匠が難にあっているのでございます。
 道を拒んでいるのは独角大王という化け物ですが、
 どうもその化け物は天界から俗界にあこがれて
 天降りをした役人らしいんです。
 ですからどうぞ天界をおしらべになって、
 化け物をしかるべきところへ
 よびもどしていただきたいと存じます」

そう言って悟空は頭を地にすりつけた。
「おやおや。今日の猿はずいぶん低姿勢ではないか」
と、そばできいていた葛仙翁が笑った。
さすがの悟空も思わず苦笑しながら、
「低姿勢たらざるを得ません。
 今日は暴れたいと思っても、
 如意棒が手元にないのですから」

玉帝は悟空の申し出をきくと、早速、可韓司に命じて
諸天星、各宿神主の員数をしらべさせた。
しかし、四天門の神王官吏から三徴垣、雷霆官、
はては三十三天をくまなくさがしまわっても、
職をすてて地上へおりて行った者は見あたらない。
「ごらんの通り、
 天界を捨てて行った者は一人もおりませんよ」
と可韓真君は言った。
「しかし、近頃は天降りが多くて、
 民間会社だけでなく公団とか金庫とか
 高級官吏の自己救済設備が
 ずいぶん発達しているではありませんか」
と悟空は言いかえした。
「金山も案外その中の一つではないのですか?
 でなければ、
 あんなに威張った口をきく筈がないと思うんですがね」
「いやいや、
 この頃は公団や金庫でもなかなか低姿勢ですよ。
 それはきっと院外暴力団か何かのなれの果てでしょう」
「とにかく暴力追放は天界の政治スローガンなんですから、
 ひとつ何とか考えてみてくれませんか?」
「ではちょっとお待ち下さい。
 いま玉帝のご意見をきいてまいりますから」

そろ言って可韓真者は一旦、御殿へ入って行ったが、
しばらくするとまた出て来た。
「陛下はあなたの希望する部将を二、三人
 おつかわしになってもよろしいという思召しでした」
「私の希望する部将とおっしやっても……」
と悟空は不満な様子で、
「この天界には私よりも腕のある者は
 殆んどいないではありませんか。
 そのかみ十万の天兵が束になってかかってきても、
 私にはかなわなかった。
 やっと二郎真君の助太刀で
 僅かに私と互角に勝負が出来たくらいだから、
 私よりも強い化け物と戦って
 勝てる道理がないではないですか?」
「むかしはむかし、今は今、と言うじゃありませんか?」
と許天師が脇から口を出した。
「せっかく玉帝が
 援軍を送ってくださるとおっしゃるんですから、
 誰なりとあたたのお眼鏡にかなった者を
 おえらびになったらどうですか?」
「そりやそうだ。
 今更、空手でかえるわけにも行かないし、
 玉帝のご厚意を無にするのも申しわけない。
 じゃ、ご面倒でも李天王と太子にご足労願うよう、
 あなたからお願いしてみて下さいませんか?」

許天師が玉帝にその旨、上奏すると、
やがて李天王父子に出陣の命令が出た。

2001-01-20-SAT

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