毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第五巻 色は匂えどの巻
第四章 白 い 輪
 

三 太上老君の牛


「一体、こりゃどうしたことだ?」
と悟空は不満そうな声をあげた。
「どうしたも、こうしたも、
 ヒューンと一声鳴ったかと思うと、
 金丹砂は影も形も見えなくなってしまったのですよ」
「そのセリフはもう聞きあきてしまったよ」
と悟空は笑った。
「へえ、そうですか。
 ずいぷん手ごわい相手なんですね。
 金丹砂をなくしちゃ我々も帰ろうに帰れないし、
 困ったことになったな」

皆が弱ったような顔をしていると、
降竜と伏虎の二羅漢が悟空のそばへやってきて、
「悟空さん。
 どうして我々二人が遅れて出てきたかご存じですか?」
「いや、わからないな。
 一体、どうしたっていうんだ?」
「如来様から言づけがあったんですよ。
 あの化け物は並大抵のことじゃ手に負えないから、
 万が一、金丹砂が役に立たなかったら、
 あなたに離恨天の兜率宮に
 太上老君を尋ねて行くように、言えと」
「なあんだ。
 それならそうと最初からそう言えばいいのに。
 如来もずいぶん勿体ぶったやり方のお好きな人だな」
「いや、実は天竺の予算が余って
 使い途に困っていたところなんですよ。
 如来様は寛大なお方だから、我々に出張旅費を
 稼がしてやろうとなさっただけのことです」

きいてみると、天竺でもこの世と同じく
予算を来年度に繰越すようなバカな事は
やらないのだそうである。
「こうなったら、大聖。如来さんのおっしゃるとおり
 片時も早く離恨天へ行って来て下さい」
と李天王が臨から言った。
「考えてみると、あなた方は皆、
 天界や天竺から出張旅費や特別手当をもらって
 ここへ来てるんだね。
 天の遙か彼方から地の底まで縦横に動きまわっても、
 俺はすべて自前だから嫌になっちゃうよ」

そう言いながらも、悟空は
「あばよ」
と一声、早くも南天門を通り抜けて、
三十三天の外、離恨天にある兜率宮へとやってきた。

宮殿の門前には二人の仙童がしかつめらしく立っている。
悟空が挨拶もせずにいつもの調子で素通りしようとすると、
二人がびっくりして悟空の袖をつかまえた。
「もしもし、あなたはどなた様です?」
「俺は斉天大聖だ」
「どこへおいでになるのです?」
「太上老君に会いに来たんだ」
「どういうご用件でございますか?」
「どういうご用件だって?」
と悟空は目をむきながら、
「用事がなきゃ
 誰がこんな許なところにやってくるかっていうんだ」
「ではその面会票に、
 お名前とご用件をお書きになって下さい」
「チェッ」
と悟空は舌をならした。
「太上老君といえば、
 天下の俗物どもを笑いものにすることによって
 売り出した反俗主義のチャンピオンじゃないか。
 面会用紙にいちいち記入をさせるようになっちゃ
 チャンピオンが泣くぜ」
「でもこういう規則になっているんです」
「規則もへったくれもあるものか」

悟空が守衛と言い争っている折しも、
奥から太上老君が現われた。
「やあ、お久しぶりです」

悟空が挨拶をすると、
「おや、お経をとりに行くお猿さんが
 またしてもここに油を売りに来たのかい?」
「お経、お経、お経、朝も昼も晩もお経、
 たまには油のひとつも売りたくなりますが、
 今日は油を売りにきたのではないのです。
 西方へ行く途中で道をふさがれてしまったのです」
「西方へ行く道が通行止めになったからって、
 儂と何の関孫がある?
 酔っ払いが自動車にひかれたのまで
 政府の責任にする国もあるそうだが、
 儂はもともと政治は嫌いだし、
 その争いにまきこまれるのは真平御免だね」
「今日は政治の話をしに来たんじゃないんです。
 ひょっとしたら責任問題になるかも知れないと思って
 ご忠告に参ったのですよ」
「責任問題だって?
 儂のところはこのとおり片田舎で、
 住んでいる連中はいずれもそのもの、
 都へ出て行って悪さをするはずもないじゃありませんか」
「まあまあ、待って下さい。
 その言葉はもう少ししてからきくことにしましょう」
悟空は兜率宮の中へ入ると、
眼を皿のようにしてあちらこちら見まわした。
邸の中を隈なく見てまわり、牛小屋までやってくると、
牛番の子供がコックリコックリ居眠りをしている。
見ると、小屋の中にいる筈の青牛の姿が見当らない。
「ほれ。牛が逃げ出していますよ」
「おや、本当だ」
と太上老君はびっくり仰天して、
「あん畜生、いつ逃げ出したんだろうか?
 そばで寝ていた子供をゆすりおこすと、
 子供はハッと目をさまして、
「あれ。牛がいない」
「牛がいないじゃすまないよ。
 お前、何だって居限りをしたりするんだ?」
「すみません。
 さっき丹房で仙丹を一粒拾って食べたら、
 何となくねむくなってしまったんです」
「さっきじゃない。あれは七日前だ」
と太上老君は言った。
「七返火丹が一粒足りないと思っていたら、
 お前が口に入れてしまったのか。
 あれを一粒飲むと七日間は前後を知らず
 ねむりこけるんだから、
 お前がねむっている間に牛が逃げ出したんだな。
 牛の奴、何か持ち逃げしやしなかったかな?」
「金山の化け物はピカピカ光る白い輪を持っていますが、
 あれは何ですか?」
と悟空はきいた。
「白い輪だって?
 おや、そういえば、儂の金剛琢が見当らない」
「金銅琢といえば、そのむかし
 私があなたにしてやられた時の武器じゃありませんか。
 道理で敵わないと思いましたよ。
 あれが地上で猛威をふるっている様子を
 想像してみて下さい。
 ゾッとしますぜ」
「ぁん畜生は今どこにいるんだね?」
と太上老君はきいた。
「金山に根城をおいて大暴れですよ。
 うちの師匠は生捕りにされるし、
 私の如意棒はぶんどられるし、
 太子や火徳星君や十八羅漢の兵器まで
 一網打尽になっています。
 この責任は誰がとってくれるのです?」
「儂のあの武器はそのむかし
 函谷関を通る時に使ったものでね。
 金、火、水、何でも吸いあげてしまう威力を
 持っているんだ。
 もし芭蕉扇も一緒に盗まれていたら、
 いくら儂でもちょっと手がつけられんところだったね」

そういって太上老君は芭蕉扇をとりあげると、仙宮を出た。

やがて二人は南天門をすぎて金山へやってきた。
李天王の陣営では武器をとられた十八羅漢をはじめ、
各界の武将がこれまでの経過を口々に訴える。
名君はいちいち頷いて、
「まあ、儂が来たからには安心しなさい。
 あなたたちの顔が立つようにしてさしあげますから」

そう言って、まず悟空に
化け物をおびき出してくるように命じた。

悟空は山の峰をおりると、
「やい、畜生。早く出て来ておとなしく縄にかかれ」

小妖怪が奥へとんで行くと、魔王は、
「あの猿め、こんどは誰に頼みに行ったのかな」

武器を片手に門を出てきた。
それを見ると悟空は、
「やい、化け物。
 今度こそお前の年貢の納め時がきたぞ」
「何を、小癪な!」

化け物は鋼鎗を片手に悟空のあとを追った。
山の勾配を一足とびに殆ど峰まで迫った時、
蜂の上から声がした。
「もう帰らないと日が暮れてしまうぞ」

ふと化け物が頭をあげると、
目の前に太上老君が立っている。
「いけねえ。
 あん畜生、何だって俺の飼主を
 ひっばってきたりしたんだろう」

あわててうしろにとって返そうとしたが、
もう間に合わなかった。

太上老君は口に呪文をとなえながら、
パタリと芭煮扇を一あおぎあおいだ。
と、白い輪はスーッと老君の手へ戻ってきた。

また一あおぎした。
すると化け物は体中から力が抜けて
見る見る本相を現わした。
やはり一頭の青牛である。

老君は金銅琢に息を吹きかけると、
牛の鼻先へもって行って鼻の穴に通した。
それから帯をほどいてしばりつけ、
おもむろにその上にまたがった。
「じゃ元気でいっていらっしゃい」
「どうも色々と有難う存じました」

兜率宮へ帰る太上老君を見送ると、
一同は洞門に入って、三蔵と八戒と沙悟浄を救い出し、
奪われていた武器をとりかえした。
一行四人は、助太刀に来てくれた人々に
それぞれ別れを告げ、
更に西方への道を急ぐことになったのである。

2001-01-25-THU

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