毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
第五巻 色は匂えどの巻 第四章 白 い 輪 |
四 男の妊娠 さて、名にし負う金山の高峰を越えて、 相も変らぬ風餐露宿の旅を続けているうちに、 またしても春の季節になった。 春霞の立つ山ぞいに道を進んで行くうちに、 左は小さな河にさしかかった。 さらさらと流れる水は、 河床が透きとおって見えるくらい清く澄んでいる。 見ると、向こう岸の新しく芽を吹いた柳の木の下に 茅葺きの家が二、三軒並んでいる。 「あれは船頭の家じゃないだろうか?」 と悟空が指さした。 「でも船が見えないようだね」 と三蔵がいうと、八戒は肩の荷をおろしながら、 「柳のかげにかくれて見えないのかもしれませんよ。 オーイ、船頭さん」 続けざまに何度か呼ぶと、柳の蔭から櫓の音がして 一隻の船がこちらへ何ってやって来た。 しかし、船を漕いできたのを見ると、 もういい加減年をとった女の人である。 「お前さんが船頭さんかい?」 「さようでございますよ」 顔に似合わぬ若やいだ声である。 「どうして男の船頭さんがいなくて、 女船頭さんなんだい?」 悟空がきいても、 女船頭はにこにこ笑っているだけで何も答えない。 船を岸辺につけ、黙って蹴板を岸へ渡すので、 まず沙悟浄が先に船に渡り、 続いて悟空が三蔵を扶けて船に乗り込み、 最後に八戒が馬を中に引き入れた。 蹴板をしまうと、 女船頭は櫓を動かして船を河の中へ押しすすめた。 対岸にはすぐ着いた。 まことに愛想のよい女船頭で、三蔵が沙悟浄に命じて 財布の中からナニガシの銭を出して渡しても、 にこにこ笑い続けるだけで、中を改めて見ょうともしない。 「きれいな流れだな。 おい、八戒。 ちょっとその水を一杯汲んでくれないか」 女船頭が家の中にひっこむのを見ると、三蔵が言った。 「へい。私もちょうど喉がかわいていたところです」 八戒は鉢に一杯水を汲んで三蔵に渡した。 三蔵が三分の一ほど飲んで鉢を八戒にかえすと、 八戒がその残りを一気に飲みほしてしまった。 ところがそれから半時間もしない中に、 三蔵は急に馬の上で唸り出した。 「妙に腹の具合が悪くなってきたな」 「いや、私もさっきから腹がチクチクしているところです」 と八戒も腹を押えている。 「多分、水が当ったのてすよ」 沙悟浄が言い終るか終らないうちに、 「痛い、痛い」 「たまらないくらい痛い」 二人して七転八倒をし出した。 そればかりでなく下腹がだんだんふくれあがってきて、 手でさわってみると、 肉の塊のようなものが中で動いている。 「弱ったな。どこかに休むところがないかな」 見ると、うまい具合に路傍に家が一軒立っている。 「お師匠さま。あそこに茶佑のような店がありますよ。 私が行ってお湯をもらってきてさしあげましょう。 ついでに腹痛の薬もあるといいんですがね」 悟空の言葉をきいて、三蔵は漸く少し元気をとり戻した。 一行が家の前まで辿りつくと、 門の前で一人の老婆が麻を紡いでいる。 「おばさん。 私らは西の方へ行く旅の僧ですが、 腹痛のお薬はございませんか?」 悟空が話しかけると、 「おや、まあ、どうなさったのですか?」 「実はさっきここへ来る途中で河の水を飲んだら、 急にお腹が痛くなったのです」 「ホホホホ。どこの河の水でございますか?」 と老婆は俄かに笑い出した。 「向うのきれいな河の水です」 「ホホホホ……」 と老婆はますます大きな声を立てて笑い出した。 「まあまあ、そいつは大へんなことだ。 とにかく家へお入りなさい」 悟空が三蔵を、 沙悟浄が八戒を抱えるようにして中へ入ると、 二人は気息奄々として 今にもあの世に行きかねまじき恰好である。 一方、家の中へ入った老婆は奥に向って、 「早く出て来てごらん。珍しい人たちがきましたよ」 その声をきいて奥から出て来たのを見ると、 三人の中年の女である。 女たちは三蔵と八戒の姿を見ると、 袖でロをかくしたまま笑いころげている。 「こらッ。人の苦しがっているのを見て笑う奴があるか」 雷のような悟空の怒声に、 女たちはとびあがらんばかりにびっくりした。 「早くお湯をわかせ。さもないとただではおかんぞ」 「お湯をわかしても、 この人たちの腹痛はどうにもなりませんよ」 老婆はびくびくしながら答えた。 「そいつはまたどういうわけだ?」 「どういうわけって、 私たちは久しぷりに男の人にあったので、 それで喜んでいるのです。 でもあなたのお師匠さまがあの水を飲んだとなると、 大変なことになりましたね」 「一体、ここはどこの何という所なんだ? お前らは何者だ?」 「ここは西梁女国といって、女しか住んでいない国です。 さっきあなたのお師匠さまが水を飲んだ河は 子母河と言って、あの河の水を飲むと胎児を宿して、 三日もすると子供が生まれるのですよ」 「えッ? そりゃほんとですか?」 三蔵は色を失ってその場にひっくりかえってしまった。 「子供を生むのはいいけれど、俺ゃ男だぜ」 と八戒は股のあたりをさすりながら、 「一体、どこをどう開いて子供を生めばいいんだ。 どこから生まれてくるんだ?」 「ハハハハ……」 とさすがの悟空も怒るのを忘れて、 「瓜という奴は熟れると自然に落ちてくるそうじゃないか。 心配をしないでも、案ずるよりも産むはやすしさ」 「勝手にしやがれ。 死にゃいいんだろう、死んでしまえや」 焼けくそになって八戒は叫んだ。 「でも兄貴。女にだって子宮外妊娠というのがあるぜ」 と沙悟浄がひやかした。 「へんなところに子供が出来た時のことを考えてみろよ」 「頼むから、兄貴」 と八戒は身ぷるいしながら悟空の腕にしがみついた。 「早くどこかから産婆さんを呼んできておくれ。 何人でもいいから、 気のきいたのを一ダースほど集めておくれ。 俺のこの腹の具合は陣痛らしいんだ。早く早く」 「それよりもおばさん」 と喘ぎ喘ぎ三蔵は言った。 「この近所にお医者はいないのかね? いれば堕胎薬をもらってきておくれ」 「どんな名医でも男の妊娠をおろす薬は調合できませんよ」 と老婆は言った。 「ただ一つここから南の方へ行くと 解陽山という山があって、 その中に破児洞という洞窟があります。 その洞窟の中に落胎泉という井戸が湧いています。 その水を一口飲めば、 お腹のふくれたのがスーッとひいてしまうのです」 じゃ早くそこの水をもらってきておくれ」 「ところが、それがなかなか手に入らないのです。 というのは近年、如意真仙という道士が この洞に住みついて名も聚仙俺と改め、 落胎泉を一人占めしているからです」 「一人占めしていると言っても、 金を払えば水を分けてはくれるでしょう?」 「それがべらぼうに高いことふっかけるのですよ。 見たところあなた方は旅の坊さんで、 とてもそんな大金はおもちあわせありますまい。 いっそあきらめて 生命がけで子供を生まれる方がよろしいですよ」 「おばさん、今、あなたの言った解陽山というのは ここからどのくらいのところにあるのですか?」 と悟空がきいた。 「三千里ほどです」 「じゃ大したことはない。 お師匠さま。ご安心下さい。 私がその水を持って来たさしあげますから」 悟空が沙悟浄にあとを頼んで出て行こうとすると、 老婆は大きな甕を持ち出してきた。 「どうせついでですから、 私たちの使ぅ分ももらってきて下さい」 「よしよし」 悟空は笑いながら、甕を受けとると、直ちに雲に乗った。 「あれ。あの和尚さんは雲に乗れるよ」 婆さんたちはびっくり仰天して、 俄かに三蔵たちに対する態度を改めた。 一方、雲に乗った悟空は 間もなく解陽山らしい山の上までとんできた。 見ると山を背に一軒の荘院がそびえている。 荘院の前には一人の老道士が芝生の上に坐っている。 「もしもし、聚仙庵というのはこちらですか?」 と悟空はきいた。 「さようでございます」 「実は落胎泉の水を 少しばかりいただきたいと思ってまいったのですが……」 「あなたはどういうお方ですか?」 と老道士はきいた。 「私は唐三蔵の高弟孫悟空と申す者。 実は私の師匠が誤って子母河の水を飲んで 難儀をしているのです」 「して代金は?」 「我々は旅の僧ですから生憎と持ち合わせはございません」 「おやおや、こりゃあきれたお方だ」 と老道士は笑った。 「うちの師匠が井戸を守っているのは 慈善事業のためではございませんょ」 「しかし、情は人のためならずというじゃありませんか。 悪いことは言わないから、 奥へ行って孫悟空が水をもらいに来たと伝えて下さい。 水をくれるのさえケチケチしていると、 井戸ごとくれる羽目にならんとも限りませんぞ」 なんと言っても、悟空がそこを動きそうにないので、 老道土はやむなく奥へ入って行った。 奥からは琴を奏でる音が響いてくる。 その音がやむのを待ってから、 「お師匠さま。 そとに孫悟空という坊主がきて 胎泉水をいただきたいと言って、 さっきから待っています」 「何? 孫悟空だと?」 怒りに充ちた声と共に如意真仙は立ちあがった。 |
2001-01-26-FRI
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