毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
第五巻 色は匂えどの巻 第五章 女 の 都 |
二 水 商 売 聚仙魔の前までくると、悟空は言った。 「お前はつるべを持ったままどこかにかくれておれ。 俺が奴をおびき出してきて 動きがとれないようにしておくから、 そのあいだに水をくんで、一足先にかえるがいい」 沙悟浄が言われた通りにかくれると、 悟空は庵門に近づいて、 「戸をあけろ」 と怒鳴った。 門番の老道士がそれを見て、急いで奥へ報告に入った。 「全くしつこい猿だ。 手強い奴だときいてはいたが、 あの金棒にはかなわないな」 と真仙は首をふった。 「しかし、お師匠さまも、 そう見劣りするわけじゃありませんよ」 と弟子の老道士は慰めにかかった。 「そりゃ面と向っての戦いでは お師匠さまは劣勢だったかもしれませんが、 井戸端ではなかなか腕のあるところを お見せになったじゃありませんか。 さんざ失敗をしても、 こりずにやってくるところを見ると、 きっと三蔵がいよいよ身重になったに相違ありません。 相手にはあせりがありますから、長期決戦で行けば、 必ずこちらに勝目があると思いますね」 「なるほど。なるほど」 それをきくと、如意真仙は機嫌をとりなおして、 「やい。猿め。また何をしに参った?」 と勢いよく門の外へとび出して行った。 「何用って、さっきも言った通り、水をもらいにきたんだ」 「わが井戸の水がほしい奴は、 帝王宰相といえども、礼をつくしてやってくる。 ところが、お前は俺と仇敵同士。 ただで水をもらおうなんて、そうは問屋がおろさないぞ」 「本当にくれないのか?」 「くれなかったら、それがどうした?」 「くれなかったら、俺の方が代りに、 この痛棒をくれてやる!」 言いざま悟空が如意棒を打ちおろすと、 真仙はスルリと身をかわして、鈎子でうけとめた。 二人が解陽山せましと火花を散らしはじめたのを見ると、 沙悟浄はつるべを抱えたまま門の中へ急いだ。 「お前はどこの誰だ?」 と井戸端にいた老道士がたしなめた。 沙悟浄は問答無用とばかりに、宝杖をふりあげると、 いきなり打ちおろした。 哀れなる老道士は、 杖先をさけそこなってその場に倒れかかった。 「こん畜生、 俺はお前が今に正体を現わすと思って殴りつけたのに、 お前は生身のまま倒れやがる。 人間なら人間で、とっととどこへなりと消えて失せろ」 這うようにして老道士が逃げて行くと、 沙悟浄はつるべをおろして水をくみあげた。 それを手に持って庵門を出ると、雲にとびのり、 「兄貴。もう水はちょうだいしたから、許してやれよ」 それをきくと、 悟空は如意棒で相手の鈎子をおさえつけながら、 「本来ならただの一打ちで お前をあの世に送りとどけてやるところだが、 今回のところはお前の兄貴の牛魔王の顔に免じて 堪忍してやる。 その代り、いくら水商売とはいえ、 あまりあこぎなことはやらぬがいいぞ」 「何をッ」 悟空の実力を知らない如意真仙は、鈎子をひくと、 またも悟空の足を狙ってつき出してきた。 悟空は軽くとびあがって鈎先をさけると、 いきなり三、四歩前にとび出して 真仙の身体をドッとついたから、 不意をつかれた真仙はその場にスッテンころり。 素早く相手の武器を奪った悟空は一本を二本に折り、 二本を四本に折ってその場に投げ出したから、 相手は唖然として逃げ出すことすら忘れてしまっている。 「どうだ。これでもまだ参ったとは言わないか」 相手が黙っているので、悟空はカラカラと笑いながら、 そのまま雲にのって沙悟浄のあとを追った。 村では八戒が大きなおなかをかかえたまま 柱にもたれかかって、ウンウン唸りつづけている。 「おい、いつ分娩宝に入るんだ?」 こっそりしのびよった悟空の声をきいて、 八戒はとびあがった。 「兄貴、俺はいま弱気なんだから、 あまりからかわないでくれ。 それより水を持ってきてくれたかい?」 悟空のうしろからついて入ってきた沙悟浄を見ると、 手につるべをさげている。 「やあ、やあ、水がきたぞ、水が」 と八戒は思わず叫び声を立てた。 「ほんとによく手に入れることが出来ましたね」 婆さんは早速、小皿を持ってきて、 それに半分ぐらい水を注ぐと、三蔵に、 「さあ、和尚さま。 これを少しずつなめるようにして飲んで下さい。 すぐおなかのものがおりてしまいますよ」 「俺は小皿なんかじゃ間に合わぬ。 桶のままこちらへよこしてくれ」 と八戒が言った。 「おや、まあ、おどかさないで下さいな。 そんなにたくさんお飲みになったら、 それこそはらわたまで一緒に出てしまいますよ」 婆さんに言われて、八戒も三蔵と同じように、 小皿に半杯ばかりなめるように口の中に入れた。 すると、二人はおなかの中にしぼるような痛みを感じ、 やがてゴロゴロと音をたてたかと思うと、 おトイレに向ってかけ出した。 「お師匠さま。 お産の時に風邪でもひくと大へんですから、 このままここで待っていて下さい」 と悟空がひきとめた。 婆さんがおまるを二つ持ちこんできてくれたので、 どうやら急場には間に合ったらしい。 間もなく痛みはひきはじめ、 血の塊りが二人の身体からおりて行った。 「おばあさん、お粥を食べさしてくれるよりも、 手足を洗うお湯をわかしておくれよ」 と八戒が言った。 「しかし、兄貴、 産後のお湯は身体に毒だというじゃないか」 と沙悟浄が答えた。 「バカ言うな。 俺は本当に子供を生んだわけじゃないんだから、 願が冷えるようなことはあり得ないよ」 婆さんは八戒のためにお湯をわかし、 三蔵のためにお粥をつくった。 三蔵はお粥を茶碗に軽く二杯すすっただけであるが、 八戒は十数杯食べても、まだおかわりをくりかえしている。 「おいおい。少しひかえめにしたらどうだ」 と悟空は笑いながら、 「でないと夜中に乳房が張って痛くなるぞ」 「心配するな、心配するな。俺は牝豚じゃないんだからな」 しきりに空腹を訴えるので、 家の人たちはまた台所へ米をとぎに走って行った。 どうやら騒ぎもしずまると、老婆は三蔵に向って、 「和尚さま。 残りの水を私にお恵み下さいませんでしょうか?」 「おい、八戒。もう水は飲まないかい?」 と悟空がふりかえって言った。 「腹の中のものがくだってしまったのだから、 もう用はないよ」 「それならば、この剰り水は この家の人たちにあげてしまおうじゃないか」 婆さんは大喜びで、水を甕の中に入れると、 裏庭の土の中に埋め、 「おかげで棺桶を買う元手が出来ましたよ。 これで安心していつでも死ぬことが出来ます」 翌日、朝早く起きると、 三蔵の一行は婆さんの一家に別れを告げ、 再び駒を西へ進めた。 三、四十里ほども行くと、 ここはいよいよ西梁女国の城下である。 「悟空や。どうも心細くなってきたね。 遠くにいても、こんなにかしましい雑音が きこえてくるところを見ると、 本当に女ばかりの都かもしれないよ」 三蔵はしきりに心細がっている。 |
2001-01-28-SUN
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