毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
第五巻 色は匂えどの巻 第八章 俺は淋しい |
一 悟空のアリバイ 雲は雲でも沙悟浄の乗る雲は鈍行である。 三蔵法師と八戒に別れを告げて目指す東勝神洲まで、 あのセッカチ猿なら、ものの半日もかからないところを、 昼夜兼行で三日三晩もかかるのである。 それでもやっと大陸をすぎ、 東洋大海の荒浪の音をききながら、 ふと遠くを見はるかすと、 雲のあいだから花果山の勇姿が視界に入ってきた。 「ハハン。水簾洞というのはあの山のかげにあるんだな。 俺の故郷にくらべりゃ花のパリが何だと 悟空兄貴はよく言っていたが、 なるほどこりゃ天然の絶景だ」 沙悟浄は雲をおりると、大よその見当をつけて歩き出した。 林のなかをかきわけるように進んで行くと、 キャッキャッと猿の啼き声がきこえてくる。 何事ならんと声のする方へなおも進んで行くと、 当の悟空が石の上に坐って何やら読んでいるではないか。 「東土大唐王皇帝李、勅命ニヨリ御弟聖僧陳玄奨法師ヲ 西方天竺国娑婆霊山大雷音寺ニツカワス……」 手に持っているのを見ると、三蔵の関丈なのである。 「よう。兄貴」 と沙悟浄はうしろから声をかけた。 びっくりして顔をあげた悟空は キイッと沙悟浄を睨みつけると、 「そいつをひき立てて来い」 まわりにいた猿どもは一せいに沙悟浄をとりまくと、 悟空のそばまでひき立ててきた。 「貴様はどこの何者だ」 「おやおや。 国へかえった途端に、 つい数日前まで同じ釜の飯を食っていた男をつかまえて 、 貴様はどこの何者だはひどすぎますよ、兄貴」 と沙悟浄はふだんの調子で、 「そりゃお師匠さまも 少し度量がせますぎると私も思っています。 しかし、いくらフツツカモノのお師匠さまでも、 喜びも悲しみも幾歳月 一緒にやってきた仲じゃありませんか、 これしきのことで袂を分つのは残念ですよ。 小私を捨てて大同団結をする── このスローガン通り一切を水に流して、 またお師匠さまと一緒に行こうじゃないですか」 「そいつはご免蒙りたいな」 と鼻先でせせら笑いながら悟空は、 「あのヒステリーと一緒に極楽に行くくらいなら、 俺は地獄へ行った方がましだ」 「まあ、兄貴が腹を立てる気持は私にもよくわかる。 だから無理にとは言わない。 しかし、どうしても嫌だというなら、 たつ鳥は水を濁さずというから、 せめてお師匠さまの荷物をかえしてやってくれませんか」 「お前の本音はそれだったんだな。 だが、そうは行かないさ」 と悟空は傲然と言った。 「俺が三蔵から荷物をちょうだいしてかえったのは、 俺が西方へ行くのを断念したからでもなければ、 俺に里心がついたからでもない。 本当のことを打ちあければ、 俺は別の団体を組織して西方極楽に行く決心をしたのだ」 「ハッハハハ……」 と今度は沙悟浄が笑った。 「西遊記に三蔵西方へお経をとりに行くという クダリはあっても、 孫行者お経をとりに行くという幕はありませんや。 大体、三蔵法師にお経をとりに来いと言ったのは 釈迦如来が観音菩薩を使ってのご指名で、 そんじょそこらのダンサーが出かけて行って、 ハイ、では、と思召しにかなうわけのものじゃ ありませんよ」 「そりゃその通りだ。 だが、一を知って二を知らないとは きっとお前のためにつくられた言葉だぜ。 なるほど唐の高僧がいなければ 釈迦如来はお経をひきわたしてくれないかもしれん。 しかし、高僧は何も三蔵一人だけじゃない。 俺はもう一人三蔵を仕立てあげて、 その男のお供をして西方へ出かけて行くさ」 「三蔵法師を仕立てると言ったって、 そう簡単には行くまい。 お経ならリコピーにでもかけて複写することが出来るが、 人間はそうは行きませんよ」 「ところが、もうちゃんと複製が出来ているんだ。 嘘と思うなら見せてやってもいい。 おい、者ども、すぐにお師匠さまをここへ連れてまいれ」 悟空が怒鳴ると、猿どもは奥へとんで行った。 しばらくすると奥から白馬に乗った三蔵が しずしずと現われてきた。 いや驚くまいことか、 そのうしろには荷物を背負った八戒と、 錫杖を手に握った沙悟浄まで 一緒について出てくるのである。 「人もあろうに本人のいる前で ぬけぬけと沙悟浄を名乗るとは無礼千万! いざ、この痛棒を食らえ」 カンカンに怒った沙悟浄が ニセモノめがけて錫杖を打ちおろすと、 「あッ」 と一声。 その場にぶっ倒れたのを見ると一匹の老猿である。 「よくも我々の仲間に手を出したな」 猿どもが一せいに襲いかかってくるのを 懸命に払いのけながら、 辛うじて囲みを逃がれた沙悟浄は、 「血も涙もない奴とはこのことだ。 よし。こうなったら、 観音菩薩のところへ助太刀を頼みに行くぞ」 またしても雲を操縦して東洋大海を越えた沙悟浄は、 一昼夜たってようやく南海へ辿りついた。 落伽山へおりてしばらく行くと、 向うから木叉行者が歩いてくるのが見えた。 「これは珍しいところでおあいしたものですな。 何かご用事でも?」 「ええ、菩薩さまに折入ってお願いがあってまいりました。 お手数ですが、ちょっとお取りつぎを願えせすまいか」 言われるまでもなく沙悟浄の来意を知っているので、 木叉は早速、彼を観音菩薩のところへ案内した。 「ハハン。師匠がどこかでまた災難に会っているので、 沙悟浄の奴をよこしたのだな」 いつの間にか悟空が 二ヤニヤしながら菩薩のそばに立っているそれを見ると、 中へ入ってきた沙悟浄は、 菩薩に挨拶をするのも忘れていきなり錫杖をふりあげた。 「恩義知らずの冷血漢! またここへ菩薩さまをだましにきよったか」 「待て待て」 とあわてて菩薩は中にわけて入った。 「言いたいことがあったら、私がききましょう。 何にしても暴力はいけません」 そう言われた沙悟浄は仕方なさそうに杖をおさめると、 「こんな義理人情をわきまえない奴は 見たことがありません。 観音さま。まあ、私の話をおききになって下さい」 大体が悟空と八戒の陰にかくれて、 ふだんはおとなしいだけが取柄のような沙悟浄であるが、 根が一本気だから、 自分よりも手ごわい相手が目の前にいても 遠慮するようなことはしない。 悟空が三蔵の制止するのもきかずに 強盗の首をちょんぎったこと、 怒った三蔵が悟空に追放令を出したら、 自分らのいない隙をうかがって三蔵を殴打した上、 荷物を持ち逃げしたこと、 それを取りかえすべく花果山へ行ったところ、 悟空は自分が隊長になって 西天へ行く準備をすすめていたことなど、 今までの経過を事つまびらかに述べ立てた。 「そういう悪い奴ですから、頭の働きも人一倍で、 恐らく私がここへ来るだろうと思って 先廻りをしてここにきたに違いありません」 「いやはや、そいつはとんだ濡れ衣を着せられたものだな」 と観音菩薩は、悟空と沙悟浄の顔を見比べながら言った。 「人間は自分が正しい行いをやっていると信じていても こんなことになりかねない。 しかし、沙悟浄よ。 それはお前の誤解というものだ。 悟空は三蔵から追い立てられると、 その足ですぐにここにきたっきりだから、 この四日間のアリバイははっきりしているよ」 「そんなバカなことが! 公平無私なる観音さまが裏切者の肩を持つのですか?」 「肩を持つとか持たないとか、そんな問題じゃない。 悟空が四日間じっと私のところにいたことは、 ここにいるものは誰でも 喜んで証人になってくれるだろうよ」 「でも、昨日、水簾洞で私は悟空の姿を見かけました。 この眼ではっきりと見たのですから 絶対に間違いはありません」 「お前がそんなに言うのなら、 もう一度、悟空と一緒に花果山へ行って見るがいい。 もし水簾洞にもう一人、 悟空の恰好をした男がいたとしたら、 そいつがニセモノだ。 な、悟空、お前も無実の濡れ衣を着せられたまま 黙ってひっこむような男じゃなかろう」 「もちろんですとも。 私の名をかたる男が 水簾洞を我が物顔に支配しているときいては、 ジッとしちゃおられません」 悟空はまゆ毛を逆立てて立ちあがった。 沙悟浄は悟空と観音菩薩がしめしあわせて 自分をかついでいるのではなかろうかと、 内心、まだ半信半疑であったが、 とにかく菩薩に別れを告げると、悟空のあとにつづいた。 |
2001-02-08-THU
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