毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第五巻 色は匂えどの巻
第八章 俺は淋しい

三 第四の猿

「さっき、お前は花果山で、
 もう一人の八戒が荷物を背負っているのを見た
 と言っていたな」

二人の悟空が行ってしまうと、八戒はすぐにきいた。
「いかにも。兄貴と寸分違わない色男だったよ」
「しかし、向うは荷物を背負っているというのに、
 こちらは背負おうにも荷物がない。
 荷物を見かけたというのに
 何だってとりかえして来なかったんだ?」
「何しろ俺と瓜二つのニセ沙悟浄を見せつけられて
 カッときたものだから、
 夢中になってそいつをやっつけたら、
 猿どもに包囲されてしまってね。
 逃げるのがやっとだったよ」
「でも二度も行ったじゃないか?」
「二度目の時は、行くなり大格闘で、
 とてもそれどころじゃなかった。
 何しろ水簾洞というけれど、
 滝が山の上から流れおちているだけで、
 一体どこに洞門があるのか見当もつかない」
「なんだ。目と鼻の先まで行きながら、
 洞門の在り場所もさがしあてられなかったとは、
 ずいぶん間の抜けた使いじゃねえか。
 滝そのものがあの洞窟の門扉だよ」
「お前は様子を知っているようだから、
 お前が行って荷物をとり戻して来てくれぬか」
と三蔵が口をきいた。
「あの荷物とお前たちさえおれば、
 私は何とか西天へ辿りつける。
 仮にあの猿が戻ってきても、
 もう相手にしないことにしよう」
「それじゃ私がちょっと一走りしてきます」
と八戒は答えた。
「でも洞門の前には何千という大猿小猿が
 頑張っていますよ。
 兄貴一人で大丈夫ですか?」
と沙悟浄が心配そうな顔をすると、
「なあに。敵は幾万ありとても、だ。
 万事はこの俺に任せとき」

ポンと胸を叩くと、
八戒は威勢よくとび出して行ったのである。

一方、二人の悟空は互いに相争いながら、
遂に幽冥界まで辿りついた。
森羅宝殿では十人の閻王が勢揃いをして二人を迎えたが、
玉帝に判断のつかないものの判断がつこう筈もない。
「しかし、戸籍謄本からうまく逃がれた人間でも、
 いつかは必ず死ぬんだから、
 生死簿には載っているだろう。
 早急にニセモノの身元を調べてくれんか」

二人とも同じことをいうので、
森羅殿では書記官を総動員して
ありとあらゆる帳簿をひっくりかえして見たが、
そのむかし、
悟空が猿族の名前を生死薄から消してしまって以来、
その部分だけは脱落してしまっているのである。
「残念ながら、私どもではどうにもなりません。
 どうか地上へ戻って下さい」

幽冥界までが、この裁判には音をあげてしまったのである。
そこへ折よく地蔵王菩薩がやってきた。
「まあ、お待ちなさい。
 世をあげて、今や贋造品流行の時代だけれど、
 私のこの諦聴がきけば、
 ホンモノとニセモノの鑑別はただちにつきますよ」

諦聴とは地蔵王菩薩の飼っている動物の名前で、
この動物が地に伏して耳を傾けると、
四大部洲に住んでいる生物の動向は
手にとるようにわかるのである。

諦聴は、森羅殿の庭に伏して
しばらくの間耳を地につけていたが、
やがてむくむくと起きあがると、
「妖怪の正体はわかりました。
 でも、今、ここでそれを申しあげるわけには行きません」
「それはまたどういうわけだ?」
と地蔵王菩薩はきいた。
「今、ここで本当のことをいうと、妖怪が騒ぎ出して、
 森羅宝殿がテロのため
 恐怖のどん底におとしいれられてしまうからです」
「そんなに威力を持っているのか、その妖怪は?」
「斉天大聖と全く同一の実力を持っております」
「それを退治する方法は?」
「仏法は四方にあまねしです」
「なるほど」
と地蔵王菩薩は頷いた。
しかし、素知らぬ顔をして二人の悟空の方を向くと、
「お前たちは容貌といい、実力といい、全くの瓜二つ。
 たとえ一方がニセモノだとしても、
 二セモノの中の大物だ。
 この上は西天へ行って釈迦如来に識別してもらう以外に、
 お前らに甲乙をつけ得るお方はいないだろう」
「それもそうだ。
 メッキの剥げるのが怖しかったら、
 途中から引きかえしたがいいぞ」
「お前こそあとで後悔するな」

互いにやりあいながら、二人は幽冥界を辞すると、
とうとう西天は雷音宝刹の門外までやって来た。

七宝蓮台の下では、四大菩薩をはじめ、
八大金剛、五百阿羅、三千掲諦、比丘僧、
その他大ぜいが釈迦如来の説法にきき入っている。
流れるように澱みのない声で、
如来は色即是空の講義をしていたが、
何を思ったか、突然、宝座から立ちあがると、
「皆の衆。面白いものがやって来ましたぞ。
 心は一つ身は二つというけれど、
 一つ心が二つになるとまずこういった具合だ」

皆の者が目をあげると、
はたして二人の悟空がこちらへ向って走ってくる。
「こらッ。どこへ行く」

八大金剛が急いで二人の前に立ちはだかった。
「どこの化け物か知らねえが、
 こいつが俺の姿をしやがるんで、
 如来様に訴えにきたんだ」

大へんな剣幕なので、
八大金剛では押しとどめることも出来ない。

二人は衆神を押し分けて、真直ぐ蓮台の下までやって来た。
「きいて下さい、如来様」

口は二つあるけれど、出てくる言葉は一つである。
二人の悟空がこれまでのいきさつを述べ終ると、
きいていた衆神は顔を見合わせるだけで
誰一人何とも言わない。
如来がニッコリ笑って今しも口をひらこうとすると、
そこへ観音菩薩が南の方から現われた。
「ちょうどいいところへ来てくれた」
と如来は両手を合わせながら言った。
「二人のうちどちらがホンモノか、お前におわかりかね?」
「それがわかれば、わざわざここまで参りません」
と観音菩薩は頭をさげた。
「ハハハハ……。
 さすがのあなたも精神分裂症にはお手あげと見えますね」
「ええ、“頭のよくなる本”というのを読んで見ましたが、
 バカとキチガイにつける薬の話は
 書いてありませんでしたのでね」
「そりゃそうですよ。
 もし本を読んだだけでバカやキチガイがなおるのなら、
 落第三度笠なんて歌手はいなくなりますよ。
 有難いものだね、人間の世の中なんて」
「おやおや。
 “有難や節”をうたうのは愚民だけかと思ったら、
 如来様まで……」
「まあ、そうおっしゃいますな。
 人間が迷ってくれなければ、
 我々が存在する余地すらないじゃありませんか。
 現にこうしてニセモノが大道を濶歩すればこそ、
 真贋を見分ける神仏の値打ちが出てくるのですからね」
「すると、如来様にはこの二人のうち、
 どちらがホンモノかおわかりになりますか?」
「わからないでどうしよう」
と如来は落着き払って言った。
「およそ世の中には三種類の猿がいると信ぜられている。
 見ザル、聞かザル、言わザルの三種類だ。
 ところがもう一種、似ザル、という猿が見落されている。
 およそ独立自尊の猿は
 他の猿に似ないことを誇りにするものだが、
 似猿は必ず敵と同じ合言葉を使って
 人間の頭を混乱させてしまう戦術を心得ている。
 たとえば、相手が民主主義といえば民主主義といい、
 民族自決といえば民族自決といい、
 植民地解放といえば植民地解放と叫ぶ。
 言葉が混乱するだけでなく、内容も混乱し、
 遂にそれを区別しようと試みる人々の頭の中まで
 混乱してしまう。
 それが似て非なる似ザルの特徴ですよ」
「すると、悟空に似ていながら非なるものは
 似ザルでございますか」
「いかにもその通りです」

ズバリ言いあてられて、似猿こと六耳猿はギクリとした。
あわてて逃げ腰になったところを
衆神が一せいにとりかこんだ。

逃げ場を失った六耳猿は、揺身一変、
忽ち一匹の蜜蜂に化けて上へとびあがったが、
それを見ると、
如来は手にもっていた金の鉢をひょいと投げあげた。
鉢は蜜蜂にかぶさると、そのまま地面におちて行った。
「騒ぐことはない。化け物はこの中に入っているよ」

近くにいた者が鉢をとりのけると、
はたして中から一匹の猿が正体を現わした。
「えいっ」
と悟空の如意棒が打ちおろされる。
すると似ザルの姿は消え失せて、
あとにはそよそよと風が吹くばかりである。
「やあ、またも消え失せたぞ」
と悟空が叫び声を立てると、
「悟空よ」
と如来が肩を叩いた。
「もう心配しないでもよい」
「でも奴は消えてなくなりました。
 どこへ行ったのだろう、畜生奴」
「奴はもともといないものだよ」
「え?」
と悟空はききかえした。
「私のいうことがわからないかね。
 奴はお前の心の中に巣食っていたもう一人のお前だ。
 お前は勝った!
 お経をとりに行こうというお前が、
 水簾洞へ帰って王者の椅子に坐ろうと考えた
 もう一人のお前に勝ったのだ。
 さあ、早く三蔵のもとへ戻って、
 また今まで通りの旅を続けるがいい」

釈迦如来に別れを告げて、悟空が村へ戻ってくると、
既に一歩先にきた観音菩薩から説き伏せられたと見えて、
三蔵は快く悟空を迎え入れてくれた。
そこへ荷物を背負った八戒も意気揚々と戻ってきた。
「ニセモノ横行の時代というけれど、
 俺のニセモノは他愛のない奴だったぜ。
 この熊手のただの一かきで、
 この世におさらばしやがった。
 アッハハハハ……」

2001-02-10-SAT

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