毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第六巻 経世済民の巻
第一章 妻と妾と友と

二 奥様お茶をどうぞ


一方、空高く吹っとばされた悟空は
木の葉のようにひらひらと、落ちそうで落ちず、
どこまでもどこまでもとびつづけた。

一夜がすぎて、空が明るくなりはじめてから、
やっと山の上にドスンと落ちた。
無我夢中でそこいらにある堅いものにしがみついた。
それは山のいただきに聳え立った大きな岩であった。
「やれやれ、えらい目にあった」

おそるおそる目をひらくと、風はどうやらやんでいる。
どこだろうかとあたりを見まわしてみて、
悟空はもう一度びっくりした。
「や、ここは小須弥山ではないか」

小須弥山といえば、かつて黄風怪とわたりあった折に
霊吉菩薩に救援を求めにきたところである。
黄風嶺はこの正南三千里ほどのところにあるから、
何万里も吹きとばされてきたことになる。
「全くおそろしい女もあったものだ。
 俺もひどい目にあったが、
 一生連れ添っている牛魔王はもっと大へんだろう」

ようやくにして山のいただきからおりた悟空は、
どうせここまで来てしまったのだから、
ついでに霊吉菩薩に挨拶をしてから行こうと思いついた。

しばらく歩いて行くと、
風に吹かれてどこからともなく
鉦や木魚の音がきこえてくる。
急いで山をおりると、林の中に一軒の禅院がのぞいていた。
「そうそう。あすこだったな」

見覚えのある禅院だが、
門番の方でも悟空の風貌に見覚えがあって、
案内を乞うまでもなく奥へ通じてくれた。

霊吉菩薩は悟空の来訪をきくと、
急いで宝座をおりて外まで迎えに出てきた。
「ようこそ。お経は無事手に入れてまいりましたか?」
「いやいや。まだ目的地についてもいないのですよ」
と悟空はあわてて手をふった。
「じゃ、
 どうしてまた私のところまで戻ってきたのですか?」
「戻ってきたとおっしゃっても、
 好きで戻ってきたわけじゃございません。
 枯葉のように風に吹かれて
 溜息まじりでおちてきたところを見たら、
 ここの山だったのですよ」
悟空が芭蕉扇で吹きとばされた経緯を話すと、
「ハハハハ……」
と霊吉菩薩は笑いながら、
「東洋大海の海の中へ吹きおとさないで、
 ここへ吹きおとすとは、あの女も運が尽きた証拠だな」
「一体、
 火山からここまで何里くらい距離があるんですか?」
「そうだね、五万里あまりはあるでしょう」
「へえ、五万里?
 一あおぎ五万里?
 俺のこの身体が五万里も吹っとんだとは
 ちょっと信じられないな」
「あなただから五万里ですんだのですよ」
と霊吉菩薩は言った。
「あの芭蕉扇は天地開闢のおり、
 崑崙山の奥で自成した天然の霊宝で、
 男女の性器にたとえれば、
 女のあの部分がコリかたまって出来たものですよ。
 だから、男の火のような情熱もイチコロで消しとめられて
 フワフワと消えてなくなるのです。
 あの陰風でとばされたら、
 大抵の人間ならまず十万八千里がとこは
 吹っとんでしまいます。
 それを五万里あまりで食いとめたのは、
 同じ上にのる技術でも、
 あなたは雲の上にのる技術を体得していたからですよ」
「ヘーえ。ヘーえ」
と悟空はただあきれるばかりである。
しかし、
あきれるばかりでは火山をのりこえることはできない。
やっとそれに気づいて
どうしたものかと相談をもちかけると、
霊吉菩薩は、
「あなたがここへ吹きとばされてきたのも、
 三蔵法師に仏縁あってのことだと思います。
 ご安心なさい。必ず成功しますよ」
「どういう具合にすれば成功するのですか?」
「私のところに定風丹というのが一粒あります。
 これはかつて釈迦如来からいただいたものですが、
 これを口の中に含んでおれば、
 どんな大風に吹かれても
 絶対に吹きとばされるおそれはありません」

そう言って霊吉菩薩は、
袖の中から錦の小袋をとり出して悟空にあたえた。
悟空はそれをなくさないように
自分の着物の裏に縫いつけると、
霊吉菩薩に別れを告げて、一路もとの翠雲山へ戻ってきた。
「やい。門をあけろ。
 孫悟空が芭蕉扇を借りにきたと奥へつたえろ」

門を叩く音に驚いて、娘ッ子が奥へとんで入った。
「奥様。扇を借りにきた男がまたやってきました」
「まあ、ほんと?」
と羅刹女は内心ギクリとした。
「私のあの一あおぎで十万八千里はすっとぶ筈だのに、
 どうしてこんなに早く戻ってきたのかしら。
 いいわ。こんどは続けさまに二、三回あおいで、
 帰る道がわからないようにしてやるから」

羅刹女は再び武装を整えると、
剣を握りしめて門前へ出てきた。
「生命知らずがまたやってきたのね」
「おネエちゃん。何もケチケチすることはないじゃないか」
と悟空は笑いながら言った。
「使って減るってわけでもないものを、
 ちょっと貸してくれと言っているまでのことだ。
 それも身体をかしてくれと
 いっているわけじゃないんだから、
 いいじゃないかよ」
「貸す貸さないの問題じやなくて、
 仇を討つ討たないの問題だよ」
と羅刹女はカンカンになって怒鳴った。
「早くここから立ちのかないと、
 今度こそ帰るに家なき目にあわせてやりますわよ」
「家はもともとないんだ。
 何ならお前さんのところに居候に入ってやってもいいぜ」

悟空はいささかも怖れる気配を見せず、
如意棒をとりなおすと、
敢然と羅刹女に立ちむかって行った。

二人はものの五、六回も立ちまわったが、
スキを見た羅刹女はまたも芭蕉扇をとり出して
一あおぎした。

さあ−ッと吹っとんで行くかと思いのほか、
悟空は根が生えたようにジッと大地をふまえている。
「ハッハハハハ……」
と如意棒をしまいこんで悟空は身構えた。
「今度はこの前とわけが達うぞ。
 嘘と思うなら、何度でもあおいで見ろ。
 もし、俺が少しでも動いたら、
 それは俺がお前さんに野心を持っている証拠だ。
 男なら誰でもあおられると思うのは、
 少々、うぬぼれが強すぎるぞ」

羅刹女は顔を真赤にして続けざまに扇を動かしたが、
本当に悟空はビクリともしない。
あわてた羅刹女は芭蕉扇をしまいこむと、
素早く洞門の中にかけこんで、
中から堅く門をとざしてしまった。

しかし、
そんなことでおとなしくひきかえしてしまう悟空ではない。
相手が門をとざしたと見ると、自分も一匹の羽虫に化けて、
扉の隙間から洞窟の中へしのびこんだ。
「ああ、喉がかわいちゃったわ。早くお茶を持って来て」
奥へ入って見ると、羅刹女がしきりに腰元を催促している。
腰元が急いでお茶の用意をして運んでくるのを見ると、
「よしッ」
と羽虫に化けた悟空はとんで茶の中へもぐりこんだ。
そんなこととは知らないから、
羅刹女はお茶碗を手にとると、
いきなりグーッと飲みほした。
「よお。おネエちゃん。扇を貸すか貸さねえか」
腹の中へ入った悟空が大きな声で叫んだので、
羅刹女は卒倒せんばかりに驚いた。
「表の門はしまっているの?」
「ええ、ちゃんとしまっております」
「しまっているのに、
 どうしてあの猿の声がきこえるのかしら」
「奥様の身体の中からきこえてくるのですよ」
と腰元が答えた。
「私の身体の中からですって?
 お前たち錯覚をおこしているんじゃないの?」
「残念ながら、錯覚じゃないよ、おネエちゃん」
と悟空は再び叫んだ。
「俺はいま、お前さんの腹の中から叫んでいるんだ。
 肺臓も肝臓もまる見えだ。
 喉がおかわきのようだから、
 まず水を一杯飲ませて進ぜようか」

そう言って胃袋の中をよじのぼって見せたから、
「アイタタタ……」
と羅刹女は腹を抱えたまま悲鳴をあげた。
「おネエちゃん。
 そんなに遠慮しないでもいいじゃないか。
 お茶がすんだら、今度は点心でもさしあげましょう」

そう言って、今度は頭で思いきりつきあげたから、
「助けてえ」
と羅刹女はその場にひっくりかえった。
顔面蒼白、唇は血の色を失ってガタガタふるえている。
「牛兄貴の顔に免じて生命は助けてやらぬでもないが、
 その代り扇は貸してくれるだろうな」
「貸してあげます。貸してさしあげます」
「それじゃ、まず芭蕉扇をとり出してそこへおけ」

羅刹女は腰元を呼んで芭蕉扇を持って来させた。
悟空が腹の中から這いあがって、歯の間からのぞくと、
なるほど女のそばに芭蕉扇がおいてある。
「おネエちゃん。
 身体のどこかほかの穴から出てきてもよいが、
 そうすると、お前の息子になってしまいかねないから、 
 やっばり口から出ることにしよう。
 アーンと口をあけて待っているんだね」

悟空がそういうと、羅刹女は急いであんぐりと口をあけた。
そのスキに悟空はまたも羽虫になって
素早く口からとび出し、芭蕉扁の上に羽をおろした。
「早くしてちょうだいよ。
 この通り口をあけて待っているんですから」

悟空はもとの姿に戻って、芭蕉扇を手にとると、
「この通りもうここに出て来ているじゃないか。
 じゃ、この芭蕉扇はちょっと拝借して行きますぜ」

とんだ厄払いをするように、
女たちは洞門をあけて悟空を送り出すと、
さっさと門をとざしてしまった。

2001-02-13-TUE

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