毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
第六巻 経世済民の巻 第一章 妻と妾と友と |
四 友の女は辱しむるなかれ ほどなく悟空は、これとおぼしい山のいただきへ着いた。 こんもりと茂った森の中をわけて入ると、 いつしか道は途絶え、烏の啼く声がきこえてくる。 「こりゃ道を迷ったかな」 ふと顔をあげると、松の木の下に一人の美しい女が見えた。 女はなよなよとした腰を曲げて、 今しも蘭の花を摘もうとしているところである。 「もしもし」 人かげのないところから突然、声をかけられたので、 女は驚いて頭をもたげた。 見ると、人相の悪そうな小男が立っているので、 進退きわまったようにオロオロしている。 「あなたは誰です? こんなところへ何をしにおいでたのです?」 やっとそれだけ言った。 悟空は、 いきなり芭蕉扇のことをきり出すのもまずいと思って、 どう答えたものかと思案していると、 「まあ、気持の悪い人」 仕方がないので、 悟空はできるだけ愛想のよい笑顔を作りながら、 「実は、私、翠雲山からお使いにまいったものですが、 はじめてだものですから道に迷ってしまいました。 積雷山というのはこの山のことでございますか?」 「そうですわ」 「摩雲洞というのはどこにあるか ご存じでいらっしゃいますか?」 「摩雲洞に何のご用事がありますの?」 「私は翠雲山の芭蕉洞から 牛魔王をお迎えに参った者でございます」 翠雲山ときいただけでも顔色が変ったが、 芭蕉洞から迎えにきたときかされて、 女は耳のつけ根まで紅くして怒り出した。 「何てまあ図々しい女かしら。 私のところから、あの時、金銀財宝をどれだけ送ったか。 月々の米や薪だって、 ちゃんと欠かさずに送りとどけているじゃないの。 それなのに、また亭主をかえしてくれなんて、 どの面さげて言えた義理かしら」 ホホウ、するとやっばりこいつが玉面公主だな、 と悟空はひとりごちた。 なるほどなかなかの別嬪だ。 その上ちゃんと慰謝料も払っているとすりゃ、 牛魔王がここに入りびたりになるのも無理はないやな。 しかし、 この場は相手をおどかしておくに限ると思いなおして、 「なにを言ってやがるんだ。 持参金をつけてやっと拾い手かあった醜女じゃないか。 自分の面を見てから、人を罵っても遅くはないぞ」 悟空の剣幕におどろいて、女はころがるように逃げ出した。 「おい。待て。待たんか」 ひやかし半分にあとをつけて行くと、 松のかげがすぐ洞門になっている。 女は門の中に入ると、あわてて中から扉をしめてしまった。 そのまま奥へ駈け込んで行くと、 「くやしいッ。あなた!」 牛魔王は書斎で本を読んでいたが、 いきなり美人にふところにとび込まれて ワーッと泣き出されてみると、 まんざらでもなさそうに目を細めて笑い出した。 「何をお前、こどものように泣き出したりしてさ」 「何を言っているのよ。 あなたみたいな化け物見たことないわ」 「おやおや。 何だってまたこの儂にあたり散らすんだね」 「そうじゃないの。 世間であなたのことを男の中の男だというから、 そのつもりで身を委ねたけれど、 本当は男の風上にもおけない卑怯者だってことが 今わかったわ」 それをきくと、牛魔王は両手で女を抱えこむようにして、 「儂が何かお前の気に食わないことをやったかね。 気に食わないことがあったら、はっきり言ってごらん」 「たった今、洞門のそとで 鉄扇公主の使いと言う坊主に追いかけられたわ。 すんでのところを生命からがら逃げてかえったけれど」 「お前、夢でも見たんじゃないか」 「夢かうつつか、洞門の外へ出て見てごらんよ」 「だけど、お前、 いくらあいつが嫉妬に狂ったからと言っても、 ここまで使いをよこす筈がない。 あれでも身嗜みはちゃんと心得た女だし、 だいいち、翠雲山は俗気のないところで 男気なんか全然ないよ」 「だから外へ出てごらんと言っているじゃないの」 あまり玉面公主が固執するので、 牛魔王はやおら立ちあがると、鎧兜に身をかため、 手に一本の混鉄棍を持って、洞門の外へ現われた。 「誰じゃ、家の前で無礼を働く者は?」 悟空が見ると、五百年前の牛魔王といささかも変りがない。 「よお。兄貴。俺のことを覚えているかい?」 牛魔王はジロリと声のする方を眺めたが、 「何だ。斉天大聖孫悟空ではないか」 「そうだ。そうだ。よく覚えていてくれた。 久しく会わなかったが、兄貴もお元気で何より」 「何よりもかによりもだ。 貴様のような人非人は見たことがないぞ」 と牛魔王は声を張りあげて怒鳴った。 「俺の息子をひどい目にあわせやがって、 今度あったらタダじゃおかんと思っていたところへ、 よくもヌケヌケとやって来たな」 「そいつは兄貴。兄貴の思い違いだ」 と悟空は威儀を正して言った。 「いろいろといきさつはあったが、 息子さんは今じゃ観音菩薩のもとで立派に成人している。 そうだな、兄貴よりも、背が広くスラリとしているし、 親よりも、グッといい男になっているぜ」 「親よりも、は余計だ。 それより何だって俺の愛妻にちょっかいを出したんだ? 坊主になったのはどういう家庭の事情か知らんが、 相変らず素行はおさまらんと見えるな」 「ハッハハハ……」 と悟空は笑いながら、 「実は兄貴がこのあたりにいるときいて尋ねてきたが、 所番地がわからんので、女にきいたんだ。 そしたら、女が俺のことをバカにするもんだから、 ちょっとおどかしてやったが、 まさか兄貴のコレとは知らんかった。 いやいや。勘弁してくれ」 「むかしのこともあるから、 今日のところは見逃がしてやろう。 とっととここから消えて失せろ」 「さすがは兄貴。肚が太い」 と悟空はポンと両手を叩いた。 「肚が太いと賞めたついでに、 兄貴にもう一つ頼みたいことがある」 「おやおや。 生命を助けてやっただけでも、 感謝しなくちゃならんのに、 また俺につきまとうとはあきれた奴だ」 「実は昨日、芭蕉扇を拝借しようと思って、 本宅の方へお伺いしたんだが、 あいにくと、奥さんに断わられてしまったんだ。 いそがしいところをまことに恐縮だが、 ひとつこれから俺と一緒に奥さんのところへ行って、 俺に扇を貸してくれるように口説いてくれんか」 「畜生め。お前の本心がやっとわかったぞ。 さては、お前、扇借りたさにここまでやってきたんだな。 どうせお前のことだから、 俺の家へ行って女房をだまそうとしたんだろう。 それがうまく行かなかったものだから、 のこのことここまでやって来たんだろう。 大体、お前は仁義というものを心得ておらん。 むかしからいうじゃないか。 友達の女房をだましちゃいかん、 友達の姜をいじめちゃいかん、と。 ヤクザにはヤクザの仁義がある筈なのに、 ヤクザから足を洗った途端に、仁義だけ洗いおとして、 もっとヤクザな坊主になるとは何としたことだ。 いざ、この棍棒をくらえ」 「兄貴。頼むから俺のいうことをきいてくれ。 棍棒をくらえというならくらわぬでもないが、 俺にはどうしてもあの芭蕉扇が必要なんだ」 「俺と物の三回もわたりあって、 それでまだ生命があるなら、 女房のところへ行って席を借りてやろう。 その代り死んでもあとで後悔するなよ」 「いや、兄貴がそういうなら仕方がない。 久しく兄貴とは手合わせをしたことがないから、 昔と比べてどんな調子か、 ひとつやってみようじゃないか」 相手がまだ喋り終らないうちに、 牛魔王はやにわに混鉄棍を打ちおろしてきた。 素早く身をかわした悟空は、 如意棒でハッシとそれをうけとめる。 「猿め、なかなかやるじゃないか」 「兄貴の息子はもっと手ごわかったぞ」 「何を。息子に負けてどうする。 こう見えても天下に比ぶ者なき牛魔王だ」 「その牛魔王に用事があってきたが、 ききしにまさるしみったれじゃないか」 たかが一本の芭蕉扇をめぐって、 天下の両雄が血潮をしぼっての大熱戦。 貸してやる、いや、ありがとう、ですむものを、 二人は百回以上も棍棒と梶棒を打ちあわせた。 が、いつまでたっても勝負がつかない。 そのうちに、遠くから、 「牛大王。 うちの大王が早く来て下さいと申しております」 「うむ。そうだったな。すっかり忘れておった」 牛魔王は混鉄棍で如意棒を防いだまま、 「孫悟空。俺は友達の宴会に招ばれているんだ。 今日のところはこれで一巻の終りにしょうじゃないか」 そう言ったかと思うと、洞門の中へかけこんで、 「さっきの人相の悪い男は孫悟空といって、 俺がひどい目にあわせてやったから、もう寄りつくまい。 俺はこれから宴会に行ってくるから、 お前、おとなしく留守番をしていておくれ」 着ていた鎧兜を脱いで、外出着に着かえると、 牛魔王は辟水金睛獣にまたがった。 悟空が山の高いところから眺めていると、 牛魔王をのせた金睛獣は、 雲の間を西北方へ向ってまっしぐらに走って行く。 「宴会に行くと言っていたが、 牛ちゃんの奴どこへ行くんだろう。 ひとつあとをつけて行ってみるとしようか」 悟空は揺身一変、一陣の風に化けるとそのあとを追った。 |
2001-02-15-THU
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