毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第六巻 経世済民の巻
第二章 左 団 扇

四 左うちわよりも


芭蕉洞の中では、
牛魔王が羅刹女に向って事の経過を述べている。
「この通り、お前の扇はとりかえしてきてやったよ」

口の中から小扇を吐き出すと、牛魔王は羅刹女に手渡した。

羅刹女は小扇を手にとると、ハラハラと涙をおとして、
「ね、あなた。この扇をあの猿へ渡してしまいましょうよ。
 そして、世間の名利なんかさらりと捨てて
 二人で静かにくらしましょうよ」
「いやいや」
と牛魔王は首を横にふった。
「なるほどたかが小扇一本のことだけれど、
 この恨みは深い。
 この恨みをはらさずして、どうして男が立とう」

牛魔王は羅刹女をなだめると、
武装を新たにして再び洞門をとび出してきた。

折しも八戒が熊手をしごいてきたので、
牛魔王は物も言わずに
いきなり八戒の頭に剣をつきつけて行った。
もし悟空がそれに気づいて
いち早く如意棒で受けとめていなかったら、
八戒の頭は串さしだんごになっていたであろう。

牛魔王は剣をひくと、
狂風にのって翠雲山の頂上へとびあがった。
悟空と八戒が続いてあとを追う。
三人は三つ巴になっておよそ五十数何も刀を合わせたが、
敵わじと見た牛魔王は北の方向へ向って逃げ出そうとした。
「やい、待て」

その前に立ちはだかったのを見ると、
五台山から遙々やってきた溌法金剛である。

あわててきびすをかえすと、
「我こそは仏旨を奉じてきた勝李金剛であるぞよ」

更に方向をかえようとすると、右には大刀金剛、
左には永住金剛と、
四方八方から金剛がジリジリと押しよせてきて、
逃げ道をことごとく塞がれ、
身動きがならなくなってしまった。
仕方がないから、
ただ一つあいた上空めがけて垂直にとびあがろうとすると、
「お待ち申しておりました」

いつの間にやら、李天王と太子が部下をひきつれて、
上空で待ちかまえているではないか。

今や絶体絶命。
破れかぶれになった牛魔王は揺身一変、
再び大白牛になると、猛然と暴れはじめた。
「この通り武装をしているので、
 挨移もできかねますが……」
太子は悟空に呼びかけた。
「昨日、釈迦如来がお見えになられて、
 玉帝にお頼みがあったので、
 我々親子が助太刀にまいりました」
「そいつはご苦労さまです。
 ですが、どうやって、こいつを料理しますか?」
「いや、闘牛なら私におまかせ下さい」

太子は
「変れ!」
と一声叫ぶと、三頭六臂になり、
さあッと空の上から大白牛の背中にとびおりてきた。
そして、例の斬妖剣で一払いに払うと、
ポロリと牛の頭がころげおちた。

ところが、首のおちた牛の身体からまたしても、
頭がムクムクととび出してきた。
びっくりした太子がまたしても剣を払うと、
頭はポロリとおちる。
するとまたしても、新しい頭がムクムクと生えてくる。

何回同じことをくりかえしても、同じ結果になるので、
業を煮やした太子は火輪児を老牛の角の上にかけて、
火をつけた。
「アツツツツ……」

火に焼かれた猛牛は唸り声を立ててころげまわる。
何とかして逃がれようとして七転八倒するが、
李天王が上空から照妖鏡をあてたので、
とうとうその場で動かなくなってしまった。
「お願いでございます。生命だけはお助けを!」
「生命が惜しかったら、早く扇を出せ」
太子が言った。
「扇は女房のところにおいてあります」
「それなら扇を出すまでこうしてくれる」
太子は縄を出して白牛の首にかけると、
その先を牛の鼻にとおして、
芭蕉洞の門前までひき立てて行った。
「おい、お前、扇を出してやってくれ。
 俺の生命を助けておくれ」
「まあ、あなたったら、こんな姿になって」

奥からころがるようにして出てきたのを見ると、
尼さんのように脂粉をおとした可憐な女の姿である。
「だからいったじゃないの。
 こんな姿になる前に
 扇なんかわたしてしまいましょうって」
「俺はもう何もいうことはないよ。
 生かすも殺すも、お前の気持ひとつだ」
「あなたはやっばり私のあなただわ」
と羅刹女は言った。
「あなたのためにはどんなことだって
 惜しまない私だってことご存じでしょう。
 だけどこんな機会でもなければ、
 言いたいことも言えないから、
 言うだけのことは言わせてもらうわ。
 もとを言えば、こうなったのも、
 あなたが家をあけて妻子をかえりみなかったからなのよ。
 私は我慢したのよ。
 悔やし涙もグッとこらえて生きてきたのよ。
 私のこの気持わかってくださる?」
「わかりすぎるほどわかっているよ。
 今だから白状するけれど、
 お前に買ってやったダイヤモンドは皆本物だが、
 玉面公主に買ってやったのは皆、ガラス玉なんだ。
 同じ浮気をするのにも
 そのくらいの遠慮深謀はもっているつもりだ。
 な、わかってくれるだろう」

羅利女はもう一度、しげしげと
自分の指にはまったダイヤモンドの指環を眺めた。
ポロリと涙がその上におちた。
「皆さん。
 どうか良人の生命をお助け下さい。
 この通り扇はさし上げます」

一丈二尺の大扇が悟空の前にさし出された。
「また贋物をつかまされるんじゃないだろうな?」
「私の指のダイヤが本物なら、
 この芭蕉扇も本物でございますわ」
「よし、それなら試して見よう」

悟空は扇を持って火山に近づくと、
思い切り一あおぎした。
すると、
今までもえあがっていた炎が一瞬にしてしずまった。
もう一あおぎした。
空に映っていた残りの火が消えて、あたりは暗くなった。
更にもう一あおぎすると、
天に雲が集まって小雨かおちてきた。
「有難や有難やだ」

悟空はすっかり喜んで、
李天王父子や四大金剛に別れを告げると、
三蔵のいるところへかえって行った。
「お師匠さま。
 とうとう芭蕉扇を手に入れてきましたよ」
「さっきから雨がふり出したので、
 きっとそうだろうと
 村の人たちが噂をしていたところだよ」

一同が出発の用意をしていると、羅刹女は
そばにくっついたままいつまでたっても行こうとしない。
「さあ、そこをどいたどいた」

悟空が追い立てようとすると、
羅刹女はその場にひざまずいて、
「どうぞその扇を私どもにかえして下さい。
 お願い致します」
「生命を助けてやったのに、それでもまだ足りないのか?」と
八戒が脇から怒鳴った。
「でも、悟空さまは、
 火を消したらかえしてやるとおっしゃっていました。
 私たちもこの度のことで、
 心に悟るところがありますので、
 以後、悪用するようなことは致しません。
 あれは私たちの飯の種で、もしあれがございませんと、
 老後になって生きて行く術がございませんのです」
「しかし、売手独占をいいことに
 不当に高い暴利を貪るのはけしからんことだぜ」
「でございますから、
 以後はどんなに、値上りムードが風靡しても、
 公定価格で皆様にご利用いただくように致します」
「では、その協定に調和をするか?」
「ハイ、もちろんでございます」
悟空は檄をとばして人々を集め、
村の代表と羅刹女に相互調和をさせ、
めでたく手を打ってから、
やっと芭蕪扇を羅刹女にかえした。
「ああいう代物を一本もっておれば、
 それこそ左団扇で一生を暮らせるのになあ」

羅刹女がかえって行ったあとも、
八或はまだぷつぶつ言っている。
しかし、悟空は至極あっさりしたもので、
「借りるといって借りたものは返すものなんだ。
 左団扇よりも男の一言の方が大切だよ」

一行は見送る村人に別れを告げて、
遥かなる火山を越えると、
またしても西方への道を急いだ。

2001-02-19-MON

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