毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第六巻 経世済民の巻
第六章 インスタント・ドクトル

三 俄か医者


「やあやあ。布告文を剥ぎとったのはお前だな」

そばで人々が騒ぎ出したので、眼をさました八戒は、
魂も消え入らんばかりに驚いて立ちあがると、
あわてて逃げ出そうとした。
「待て、
 布告文を剥ぎとったからには医術に自信があるのだろう。
 さあ、来た来た。
 すぐ我々について宮殿へ来た」

役人たちが八戒の袖をつかまえて離そうとしないので、
八戒はますますあわてて、
「誰が医術に心得があると言った?
 医術に心得のあるのは、大方、お前の息子だろう。
 お前さんの息子でなかったら、お前の孫だろう」
「しかし、お前の懐の中に入っているのは何だ?」
と言われて懐からはみ出した紙切れをとり出すと、
寝耳に水の布告文ではないか。
「畜生奴!
 またも猿の奴に一杯食わされたぞ」

手に握った紙切れを破って捨てようとすると、
「死刑だ。死刑だぞ。その紙を破ったら」
「俺の知ったことか。身に覚えのないことだ」
「しかし、現にお前の懐中にあるじゃないか。
 布告文を剥ぎとったからには
 国王の病気をなおす自信があってのことに違いあるまい」
「いやいや。
 この布告文を剥ぎとったのはこの私ではなくて、
 私の兄弟子の孫悟空というものだ。
 奴が剥ぎとって、
 私の知らない間に私の懐中に入れたのだ」
「冗談をいうな。
 布告文を剥いだ本人が誰だろうと我々の知ったことか。
 布告文を持っている当人が布告文を剥いだ本人だ」

十人あまりも集まってきて、力ずくでも
八戒を宮殿に引っ張って行きかねまじき勢いだが、
八戒は根をおろしたように梃子でも動かない。
「お前らは何というきき分けのない奴だ。
 俺が癇癪をおこしたら、
 お前らのような奴は生命がいくつあっても足りないぞ」

時がたつほどに騒ぎは大きくなって行くばかりである。
すると、群衆の中にいた年をとった宦官が前へ出てきて、
「さっきから見ていると、
 お前さんはまことに珍しい風貌をしておいでになるが、
 どこからおいでになった者か?」
「私は東土から西天へ経文をとりに行く者ですよ。
 私の師匠は、大唐国王の御弟で
 さっき御殿へ関文の査証をうけに出かけた筈です」
「すると、あの顔の白い和尚さんかな。
 さきほど大急ぎで御門を入って行った様子だが」
「そぅです、そうです、あの人です。
 留守を仰せつかった私と兄弟子の悟空というものが
 二人で料理に使う調味料を買いに出てきたところ、
 兄貴が布告文を剥ぎとって私の懐中に押しこんだのです」
「あなたの兄弟子さんはどこにおられる?」
「一足先に会同館へかえったのではないかと思います」

わけをきくと、宦官は小役人に、
「この人を放しておやりなさい」
そして、八戒に向って、
「では私と一緒に会同館へ行ってみましょう」
「おやおや。案外話のわかる小母さんだね」
と八戒はやっと胸を撫でおろした。
「小母さんとは何事だ。偉いお方に失礼だぞ」

小役人が肩を怒らせると、
「男のシンボルがなくなれば、小母さんじゃないか。
 婆さんや、とよばなかったのは、
 あんまり年寄り扱いすると女性に失礼だと思って
 遠慮深謀したんだぜ」
「いいから、早く行け行け」
「行くのはいいが、
 俺に対するような態度で俺の兄貴に接したら、
 ひどい目にあうぜ。
 兄貴は俺と違って、孫大人と呼ばなけりゃ、
 ご機嫌も悪いし、
 第一お前らの言う通りに宮殿へ伺候もしまいよ」
「もし本当に国王の病気をなおすだけの名手であったら、
 いずれ国を山分けにされるお方ですから、
 その点は十分心得ております」

そう言われて、機嫌をなおした八戒は、
宦官や小役人を連れて会同館へ戻ってきた。
「兄貴。いたずらにも程度があるというものだよ」
「え? 一体、何の話だ」
と悟空は笑いながら、
「そういうお前は今まで一体どこをうろうろしていたんだ?
 俺が調味料を買って戻ってきたら、
 お前の姿が見えないじゃないか。
 仕方なく一足先に帰ってきたんだよ」
「そんなに白ばくれないでも、
 役人たちがそこまできているぜ」

八戒が言い終るまもなく、
宦官が部下を連れて部屋の中へ入ってきた。
「これはこれは。孫大人でございますか?」

宦官は鄭重に頭をさげた。
「布告文の番をされていたお役人さんというのは、
 あなたたちですか?」
と悟空がきいた。
「ハイ。私が司礼監内臣で、
 ここに連れて参りましたのは錦衣校尉たちでございます」
「あの布告文は私が剥いだものに相違ありません。
 国王が病気であるといぅのなら、
 私が診てさしあげましょう。
 ただ俗言にもあるように
 “薬ハ軽々シク売ラズ医者ハ御用開キヲセズ”
 とあるように、もし私に診ていただきたいなら、
 国王おん自ら私を迎えにきて下さい」

きいていた家臣たちは悟空の傲慢なのに驚いたが、
「あれだけ大きな口をきくからには
 胸に成算あってのことだろう。
 とにかく、宮中へ報告に行くことにしよう」

宦官は何人かの校尉を連れて宮殿へ戻って行った。
「陛下、お目出とうございます。
 やっと名医が見つかりましてございます」
「なに? 名医が見つかったか」
「ハイ。
 そこにおいでになられる長著さまのお弟子で
 孫大人とおっしゃる方が布告文をお剥ぎになりました。
 病気は自分がなおして進ぜるが、
 名医は御用聞きをしないから、
 陛下おん自らおいでいただきたいと申しております」

国王はすっかり喜んで、
「あなたにそんなお弟子さんがおいでとは
 知りませんでした。
 一体、あなたには全部で何人
 お弟子さんがおいでになるのですか?」
と三蔵の方を向いてきいた。
「弟子は三人でございますけれど、
 とても陛下のご病気をなおして進ぜられるようなものは
 おりません」
「いやいや、そんなに謙遜なさることはございません。
 それよりも皆の者、
 私が自ら迎えに出るのが
 名医を遇する道であるとは重々承知しているが、
 何分にもこの体では車にも乗れない。
 お前らが行って礼をつくしてその旨を伝え、
 どうかこちらへおいで下さるようお願いしてきておくれ。
 必ず鄭重に扱りて、神僧孫長老とお称びするんだぞ」

さっき来た時とは違って、
文武百官が列をなして会同館にやってきたので、
八戒は腰も抜かさんばかりに驚いて、
「さてさて、大へんなことになったぞ。
 猿奴、
 どうしてこんな人騒がせなことをしでかしたんだろう」

文武百官は悟空の前にくると、
王に対するように膝を屈して礼拝したが、
悟空は坐ったまま答礼をしようともしないでいる。
「神僧孫長老さまに申しあげます。
 私たちは国王の命をうけて
 お迎えに参った者でございますが、
 どうか御殿へおでまし願いとう存じます」
「どうして国王は自分でおいでにならないのですか?」
「実は国王は病の床に伏されて久しく、
 到底車馬に乗ることができないのでございます。
 それで私どもを
 勅使としてお遣わしになられたのでございます」
「なるほど。
 そういう事情なら、私の方からお伺い致しましょう」

悟空が服を着かえにかかると、八戒は袖をひっばって、
「兄貴。
 頼むから我々のことは口に出さないようにしておくれ。
 とんだとばっちりをうけるのはご免だからね」
「心配をしないでも、その点は安心するがいい。
 ただ薬を届けてくる人があったら、
 受けとっておいてもらいたいのだ」
「薬を届けてくるって、何の薬ですか?」
と沙悟浄がきいた。
「何でもとにかく薬を持ってくれば、
 だまってうけとっておいてくれればいい。
 処方は俺がかえってきてからやるから」

二人にあとを頼むと、
悟空は家臣たちのあとについて宮殿へやってきた。
「聖僧孫長老はどのお方です?」
と国王は御簾の中から声をかけた。

悟空は一歩前に進み出ると、
「この私です」
荒っぽい声の上に、容貌魁偉ときているから、
国王は驚いて床の上に卒倒してしまった。
「こりゃどうしたことだ。
 とんだ化け物を連れてきてくれたものだ」

女官たちはあわてて国王を奥へ運びこんだが、
群臣たちは悟空の顔を見ると、
「国王に対して、まるで土百姓みたいに
 礼をわきまえないとは何たることです?」
「ハッハハハハ……」
と悟空は笑いながら、
「私がもしあなたたちのように
 這いつくばってばかりいたら、
 あなたたちの国王の病気は
 千年たってもなおらないでしょう」
「千年だって?
 人間の寿命がいくら長くなったといっても精々七十年。
 千年もなおらないというのは文学的表現だとしても、
 いささか大袈裟すぎますよ」
「ところが、病気の王様が死なれても
 この調子じゃ病鬼になるでしょう。
 もう一度生まれなおしてきてもまた病人になるのなら、
 千年たっても同じことじゃありませんか」
「言葉をつつしめ、言葉を!」
「ハッハハハ……」
と悟空はいよいよ大きな声で笑いながら、
「言葉をつつしめという前に、
 まず私のいうことに耳を傾けて下さい。
 大体、医術というものは、
 四つのことを見るべきものです。
 第一は気色いかん、第二は声に濁りありやなしや、
 第三は病気になって幾日たったか、
 第四は脈縛の動きいかん、
 以上四つの中、一つが欠けても
 見診てとしては完全とはいえません。
 もし私のいうことが間違っていたら、
 どなたでも自由に指摘して下さい」
「この坊さんのいうことはいちいちもっともだ」
と先ず国王の侍医が言い出した。
侍医がそう言うのでは他の者も反対できない。
その通り国王に上奏すると、
「もういいから、どこへなりと行ってもらってくれ。
 あの男の顔は見たくない」

どうしても診てもらおうとはしないので、
その通り悟空に伝えると、
「顔が見たくないなら、
 糸で脈をはかるという手もございます」
「本当に糸だけで大丈夫ですか。
 かねてからそういう方法があるときいてはいますが、
 もしその方法をお使いいただけるのなら、
 もう一度お伺いしてみます」

お付きの者が国王にその旨つたえると、
「床に親しむようになってから三年になるが、
 この方法は初めてだ。
 念のため試みてみるとしようか」

国王が心を動かしたので、
お付きの者はすぐ倍空を呼びに戻ってきた。

悟空が御殿へ入ると、三蔵が待ちかまえていて、
「何というお前は生命知らずだ。私を殺すつもりか」
「私はお師匠さまのために力をつくしているのに、
 お師匠さまを殺すつもりかとは異なお言葉を!」
「だってお前と一緒になって何年たつか知らないが、
 お前が人の病気をなおしたという話は
 ついぞきいたことがない。
 薬のクの字も知らない者が、
 人もあろうに国王の病気をなおしてやろうなんて、
 大胆不敵にもほどがあるじゃないか」
「ハッハハハ……。
 お師匠さまは私が万能選手であることを
 ご存じないと見えますな。
 八戒の奴が我々の知らない間に
 経済学の勉強をしたように、
 私も皆さんのご存じない間に
 医術の蘊奥をきわめたのですよ。
 大抵の病気なら、大丈夫、
 私がなおしてさしあげられます。
 仮に万一、殺すような羽目になったとしても、
 薮医者がしくじりをやったというだけのことで、
 死罪に値するというほどのことではありません。
 心配しないでも、
 私がどうやるかだまって見ていて下さい」
「でもお前は本草綱目はおろか、
 内科診療の実際なんて本すら
 目を通していないじゃないか。
 それが糸で脈を見るなんて大法螺吹きにもほどがあるよ」
「お師匠さまはご存じないけれど、
 私は金の糸を持っているのですよ。
 これこの通り」

手をのばして尻尾から三本の毛を抜いて、変れと叫ぶと、
忽ち長さ二丈四尺もある三本の糸が現われた。
「さあ、どうぞ奥へお通りになって下さい」

宦官たちに催促されて、悟空は奥へ入って行った。

2001-03-04-SUN

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