毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第六巻 経世済民の巻
第七章 戦争は悲し

一 ホルモン療法


「馬の小便を何に使うんだね?」
と八戒はびっくりしてききかえした。
「薬を丸めるのに使うんだ」

悟空が真面目そうな顔をして答えると、
そばにいた沙悟浄が笑い出した。
「薬を丸めるには酢を使うか、
 古米の炊き汁を使うか、または蜜を使うか、
 でなければいっそただの水を使うのが常道ですよ。
 馬の小便ではだいいち臭くて、
 口に入れた途端に吐き気を催してしまうでしょう。
 それに巴豆と大黄では下へくだすし、
 上下一せいに排泄してはたまったものじゃないですよ」
「お前は医学の一を知って二を知らんよ」
と悟空は言った。
「漢方は自分らの優位性に酔っているうちに
 西洋医学に追いおとされてしまったじゃないか。
 そもそも医学は、人類の長い体験と、
 それからもう一つ科学的な論証が必要だよ。
 漢方は体験にたよるばかりで論証を怠ってきた。
 それに対して西洋医学は、
 漢方の薬物的効果を盛んに研究している。
 馬の小便というのは近代医学の観念から見ても、
 ちゃんと理クツに合致している。
 小便の中にはホルモンが入っているから、
 性的障害によるノイローゼには効き目があるんだ。
 それに我々の馬はもとをいえば西海竜王の血統で、
 若さは若いし、毛並みはよいし、
 しかもまだ女を知らないから
 効果百バーセソトだと思うよ」

それをきくと八戒は早速、鳥小屋へとんで行った。
そして、ねていた馬の腹を蹴りとばしたから
馬はあわてて起きあがった。
しかし、下腹に器をあてて待てど暮らせど、
一向に小便をしてくれそうな様子もない。
しびれをきらした八戒は家の中へもどると、
「兄貴。
 国王の病気をなおすよりも、
 馬の病気をなおす方が先だよ。
 いくら待っても、ただの一滴ももらしゃしない。
 ひょっとしたら、我々の目を盗んで安物買いでもして
 淋病でもうつされたんじゃないかな」
「まさかね」
と悟空は笑いながら、
「八戒流の発想法で判断されたんじゃ、
 天下の名馬も泣くに泣けまいよ」

二人が出て行こうとすると、沙悟浄も一緒についてきた。

三人が馬小屋へ入ると、
白馬はヒヒヒヒンと空高くいなないて、
いきなり人語を喋り出した。
「あなたたちは私がいかなる血すじの者か
 ご存じないわけではありますまい。
 私が河をよぎって水中で小便をすれば、
 それをのんだ魚は忽ち竜となるし、
 山を越えて山に放尿すれば、
 山の草は忽ち霊芝草と化して長寿の仙薬となるのです。
 どうしてこういう俗塵紅燈の巷で
 軽々しくおしっこをすることが出来ましょうか」
「如何にももっともなことだ」
と悟空はやさしい声でなだめながら、
「しかし、国王の病気をなおすのに使うのだから
 決して卑俗な目的ではないよ。
 一枚の毛皮でも無数の毛が集まって出来ている、
 とむかしからいうじゃないか。
 皆が出すべきものを出し、力をつくして、
 幸いにして国王の病気をなおすことができたら、
 我々は大威張りでこの国を出ることが出来る。
 もしそれが出来なかったら、
 いつまでもここにひきとめられて、
 永遠に出発できないかもしれないよ」
「わかった、わかった」
というように、首をふると、白馬は前後に動きながら、
やがてほんのちょっぴり放尿をした。
「なんだ。
 キンの汁には違いないが、たかが小便じゃないか。
 もう少し気前よく出したらどうだ?」
と八戒が文句をいうと、
「いや、それだけあれは十分だ」

悟空は八戒の手から鉢をうけとると、
すぐ家の中へ戻ってきた。

早速、丸薬の製造にとりかかった。
三人で一個ずつだから、ちょうど三つできあがった。
「だいぷ大きな丸薬だな。
 専門家のようにはうまく行かんな」
「なあに、この程度の大きさなら、俺なら一口だ」
と八戒笑っている。
「じゃ今夜はこれでおしまいにしょう」
悟空は出来あがった丸薬を小針の中にしまいこむと、
皆と一緒に寝床へ入った。

その翌朝、国王は待ちあぐねて、
家来たちを会同館へさしむけてきた。
「妙剤を受けとりに行くように申されて参りました」

悟空はすぐ八戒に小盒を持って来させると、
蓋をとって役人たちに見せた。
「このお薬は何という名前でございますか?」
「烏金丹と申します」

神妙な表情をして悟空が答えているのを見ると、
八戒は沙悟浄の肩をつついて、
「鍋炭をまるめたんだから、
 烏い金丹には違いないやなあ、
 アッハハハハ……」

しかし、そんなこととは知らない役人たちは、
「で、この丸薬はどうやって飲めばよろしいのですか?」
「二つ方法があります。
 どちらでもよろしいが、
 一つの方法は次の六つの物を煎じたおつゆで
 飲み下すことです」
「六つと申しますと?」
「空をとんでいる鴉の屁、流れをさかのぼる鯉の尿、
 王母娘娘のふだん使っているお白粉のコナ、
 太上老君の煉丹炉の灰、玉皇上帝の破れ頭巾三つ、
 それから竜の髭五木、以上六つの物を前じた液体で、
 この丸薬を飲めば、国王の憂病は忽ちなおります」
「いやはや」
と役人たちは驚いて、
「そんなものはこの世のどこにもありません。
 もう一つの方法はどういう方法ですか?」
「無根水を使うことです」
「この方法なら簡単だ」
と役人たちは急に笑顔になって、
「この地方で俗に無根水というのは、
 井戸か河へ行って水をくむと、
 急いで廻れ右をして脇目もふらず地面にもおかず
 真直ぐ家へ持ってかえって
 病人に飲ます水のことを申しております」
「井戸の水も河の水も一度は地に根をおろした水だから、
 厳密な意味では、無根水とはいえない」
と悟空は言った。
「私のいう無根水とは、
 天からおちてきて
 まだ地面にとどかない水のことをいいます」
「それならば雨水であれはよろしいわけですね。
 いや、重ね重ね有難ぅございました」

役人たちは悟空から丸薬を受取ると、
かえってその通り国王に報告した。

国王はいたく喜んですぐにも丸薬を用いようとしたが、
無根水でなければならないと言われて、
ハタと当惑してしまった。
「とても雨のふるまで待ってはおられない。
 何とか一刻も早く雨をふらせる方法はないだろうか」
「あの神僧なら雨を呼ぶことも出来るかも知れません。
 もう一度お願いしてみてはいかがでございましょうか?」
「そうだ。
 私がそういっていたといって
 お願いに行ってみてくれぬか」

家来たちがもう一度、
会同館にもどってきてその旨申し述べると、
悟空はほかの二人をかえり見て、
「どうだ? 手伝ってくれるか?」
「手伝うって、兄貴、どうすればいいんだ?」
「なあに、わけはないよ。
 お前が俺の左に坐って輔星の役を、
 それから沙悟浄が俺の右に坐って弼宿になってくれれば、
 俺が竜王を呼び出して、雨をふらせてやるさ」
「しかし、すぐにできると言っちゃ相手は有難がらないぜ。
 薬をつくると同じ流儀で、少し勿体をつけなけりゃ」
「そんなことくらい心得ているさ」

悟空はさんざ相手に頭をさげさせた上で、
会同館の庭に設けられた壇の上にのばると、
呪文をとなえた。
と忽ち、東の空に黒い雲が湧き、
こちらへ向って動いてきた。
「東海竜王敖広です。何かご用事ですか?」
と雲の上から声がかかった。
「いや、ご足労をかけて申しわけありません。
 ほかでもないが、この国の国王のために
 少し無根水をふらせてもらいたいんです」
と悟空が言った。
「おやおや。
 それならそうとはじめからおっしゃってくだされば、
 雨の道具一式をとりそろえてきましたのに。
 空手じゃいくら私でも雨をふらせることはできませんよ」
「いやいや、そんなにたくさんはいらないんです。
 薬をのむに必要な量さえあればいいんですから」
「それなら、私がクシャミの二つもすれば十分でしょう」
「十分ですとも、十分ですとも。是非お願い致します」

東海竜土は乗っていた黒い雲を
少しずつ低空へおろしてくると、王宮の真上へやってきて、
ハクションハクションと続けてクシャミをした。
すると、彼の目や口からあふれ出たものが
一陣の甘雨となって王宮の上へふりそそいできた。
「これこそ天佑神助だ。有難や有難や」

宮中の者は男も女も老いも若きも、
盆や器を持ち出して
一滴の甘雨も逃がすまいと待ちかまえている。

やがて竜王かかえって行くと、
人々の器の中には三滴五滴と無根水が残った。
それをよせ集めると、どうやら杯に三杯ほどはある。
「陛下、神僧のおかげで無根水が手に入りました」

家臣たちが恭しく三杯の水をさし出すと、
国王は先ず丸薬を一粒口の中に含み、
一杯の水で飲みこんだ。
続けて二粒目、更に続けて三粒目……。

ほどなく国王の腹の中がゴロゴロ鳴り出した。
急いで便器をとりよせて、かがみこむことおよそ五、六回。
身も心も疲れはてて、少しばかり重湯をすすると、
国王はすぐ横になった。
お妃が便器の中をのぞき込むと、
汚物やゲロの中にまじって大きな糯米の塊りが入っている。
「陛下。
 お腹の中につかえていたものが皆出てしまいましたよ」

お妃が寝床のそばにかけよってご報告に及ぶと、
「そうかそうか」
と国王は急に元気になって、
もう一度、食事を食べたいといい出した。

食事がすむと、国王は見違えるほど元気になって、
自分から服を着かえて宝殿へ出てきた。
三蔵がそこにいるのを見ると、
両手を合わせて、拝まんはかりに鄭重な挨拶である。
「これもあなたの三人の高弟のおかげでございます。
 これからすぐ東閣で
 感謝の宴をひらきたいと思いますから、
 是非、おいでになって下さい」

一方、
家臣に向って直ちに会同館に迎えを出すよう命令を下した。

2001-03-06-TUE

BACK
戻る