毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第六巻 経世済民の巻
第七章 戦争は悲し

二 ノイローゼに原因あり


国王からの招待状を手にとって、
一番喜んだのは八戒である。
「悟空兄貴。
 あんないい加減な薬で効くとは全くオドロキだな。
 これを見な、これを。
 国王が再拝頓首と書いてあるよ」
「これも兄貴のおかげですよ」
と沙悟浄が言った。
「家族の中に一人でも出世する人間があると、
 家中がみな潤うようなものです。
 薬を調合するにあたって我々も力をつくしたのだから、
 ご馳走になっても悪くはありますまい」

三人とも有頂天になって、
早速、家臣たちに案内されて宮殿へ入った。
見ると、東閣には既に三蔵をはじめ、
国王や閣僚たちが入席していて、
中央の四つの卓には豪華な精進料理がぎっしり並んでいる。
その手前には生臭の料理が一卓、
そして、そこを中心として右左に四、五百卓も並んだ光景は
全く壮観の一語に尽きよう。

国王は自ら杯を手にとると、三蔵の前にさし出した。
「折角でございますが、私は酒はいただきませんので」
「酒は生臭ではございませんよ。
 一杯くらいいかがでございます?」
「ですが、酒は僧家の第一戒でございます」
「酒もお召しあがりにならないとすれば、
 何でおもてなしをしたらよろしいやら。
 それともジュースに致しましょうか」
「いやいや、どうぞご心配なく。
 私は飲みませんが、弟子たちが私の代りに飲みますから」
「それではお弟子さんに
 飲んでいただくことに致しましょう」

国王は一たん三蔵にさし出した杯を、
悟空の前へ持ってきた。

悟空は酒杯を手にとると、
人々に一礼してそれからグッと一気に飲みほした。
その飲みっぷりに感心して、国王が二杯目をすすめると、
これもすくさま空にした。
「なかなか行ける口ですね」
「いや、なに、大したことはありませんよ」

三杯目、四杯目と献酒は続くが、
お鉢は一向に八戒の方へまわって来ない。
やきもきした八戒は、
「陛下。あなたのお飲みになった薬をご存知ですか。
 あれには馬の……」

びっくりしてうしろをふりかえった悟空は、
何も言わずに杯を八戒に手渡した。
八戒はニヤリとしただけで、そのままだまってしまった。
「いま、あなたは薬の中に馬があるとおっしゃったが、
 どんな馬ですか?」
と国王がきいた。
「こいつときたら、妙な癖がありましてね。
 自分の知っている処方は何でも喋りたがるのですよ」
と悟空はさえぎりながら、
「陛下のおのみになった桑の中には
 馬兜鈴が入っているのです」
「馬兜鈴って何だね? 何にきく薬かね?」
と国王はまわりのものをふりかえってきいた。
「兜鈴は味苦く寒なれど毒なし、喘痰によくきき、
 血液の循環をよくし、精力補強剤としても用いられます」
と太医官がすぐに説明した。
「なるほど。私の病症にはぴったりしていたわけだね」

国王は満足そうに笑いながら、
「まあ、とにかくもう一杯」

八戒がどうやら尻尾を出さずに三杯目を飲み終ると、
国王は沙悟浄にすすめて、同じように三回乾杯をさせた。
それが終って一同席についた。

宴会もいよいょたけなわになると、
国王は大杯をもってこさせて悟空の前にさし出した。
「どうぞ。どうぞ気をお使いにならないで下さい。
 私は遠慮をしないでいただいておりますから」
と悟空は言った。
「いや、あなたの恩はいくらかえしてもかえしても、
 かえしつくすことのできないほど大きなものだ。
 どうか、この大杯を飲みほして下さい。
 その上で実はもう一つ
 ご相談申しあげたいことがあるのです」
「先ず話をさきにきこうじゃありませんか。
 酒はそれからでも遅くはありません」
「この数年、欝々として胸にわだかまっていた悩みが、
 あなたの妙薬のおかげで
 どうやら晴れてきたような気がします。
 私の病気は本当は憂欝病と申しますか、
 神経症と申しましょうか、精神的なものなのです」
「実は、一目見た時から、
 これはノイローゼだなと
 私にはわかっていたのでございますよ」
と悟空は笑いながら、
「もっともノイローゼにも原因が色々あるわけですが、
 陛下の場合は何が原因なんですか?」
「家の中の恥を話しては人に笑われるが、
 ほかならぬあなたのことだ。
 どうか笑わないできいていただきたい」

国王はそう前置きして、
「時にあなたは、
 これまでにいくつくらい国を通ってきましたか?」
「そぅですね。五、六国はありましょう」
「よその国では国王の后のことを、
 何とよんでおりますか?」
「正夫人のことを正宮、
 その次は東宮、西宮と呼んでいるのがふつうでしょうね」
「私のところでは正宮にあたるのを金聖宮、東宮を玉聖宮、
 西宮を銀聖宮と、それぞれ呼んでおります。
 いま、宮中にいるのは玉聖宮と銀聖宮の
 二人だけなのです」
「金聖宮はどうなさったのですか?」
「三年前からいなくなってしまったのです」

そういって国王はポロリと涙をこばした。
「いなくなったって、どこへ行かれたのです?」
「自分で出て行ったのなら、あきらめもつきますが、
 ああ、忘れもしません。
 あれは三年前の端午の節句の時のことでした。
 私が后たちと御苑の海榴亭で
 雄黄酒をチビリチビリやりながらチマキを食べていると、
 突然、一陣の風と共に中空から一人の妖怪が現われ、
 自分は麒麟山の豸洞に住む賽太歳という者だ、
 洞中には気に入った女がいないから、
 金聖宮をもらって行く、
 さあ、こちらへ渡すか渡さないか、
 三声きく間に返事をしないなら、
 先ずお前を血祭りにあげて、宮中の者はおろか、
 この国の者を一人残らず平らげてしまうぞ、
 そういっておどかすものですから、
 私は仕方なく金聖宮をさし出したのです。
 国民たちのことを思ってやったことですが、
 あまりもの出来事に、
 食べかけたチマキがそのまま喉にひっかかってしまい、
 爾来、三年、欝々として
 病の床から離れられないでいました。
 それがあなたのお力によって、
 身体だけはどうやら元に戻ったわけであります」

国王の話をきくと、悟空は愉快そうに大杯を傾け、
それから徐ろにききかえした。
「そういう理由だったとは、いまはじめてききました。
 ところで陛下は、金聖宮をお連れ戻しになりたいという
 意志を今でもお持ちでございますか?」
「もちろんですとも。
 昼となく夜となく、私が考え込んでいるのは、
 ただ如何にして彼女をとりかえすかということだけです。
 でも誰一人として私の望みをかなえてくれる人は
 ありません」
「もし私が妖怪を退治してさしあげたら、どうですか?」
「もしあなたがあれを救って下さいましたら」
と国王はその場にひざまずいて、
「そうしたら、私は三宮九嬪をひきつれてここを出て、
 甘んじて平民となります。
 そして、この国をそっくりあなたにさしあげて、
 あなたに皇帝になっていただきます」
「ハッハハハハ……」
とそばできいていた八戒は、突如声を立てて笑い出した。
「女房のためなら国も要らないなんて、
 そんな国王が現実にいようとは!」
「シーッ」
と悟空は八戒を制すると、あわてて国王を助けおこした。
「時に陛下。化け物は金聖宮を連れて行ってから、
 またここへ現われたことがございますか?」
「一昨年の端午の節句に金聖宮をさらって行って、
 十月に腰元が二人ほしいといって官女を二人連れて行き、
 去年の三月にまた現われて二人、
 それから七月と、ことしの二月と、
 一回くる度に二人ずつ連れて行きました。
 この調子だと、いつまた現われるか予想もつきません」
「そんなに度々来られては、大迷惑でしょう?」
「迷惑よりも、こわいです。
 それに万一、無益な損傷をあたえられてはと思って、
 避妖楼をつくって、
 化け物が来る度に女子供をあの中に避難させております」
「よろしかったら、その避妖楼を一度、
 私に見せてくれませんか?」

国王はそれをきくと、すぐ悟空の手をとって立ちあがった。
「兄貴。酒もまだ飲まないうちから、何を見に行くんだよ」
と八戒が口を出した。

国王は八戒の不満が奈辺にあるか見てとると、
「避妖楼のそとに二卓用意をせよ」
と命じた。
八戒が我が意を得たとばかりにニッコリ笑うと、
「では二次会へ出かけるか」
もぐもぐ口を動かしながら立ちあがった。

2001-03-07-WED

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