毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
第六巻 経世済民の巻 第七章 戦争は悲し |
三 地下壕時代 家臣たちに先導されて、御殿をすぎ、 御苑の中へ入って行ったが、 いくら行っても楼閣らしいものは見当らない。 「避妖楼というのはどこにあるのですか?」 悟空がきくと、さきに立った二人の従者が 棒の先で分厚い石の板を掘りおこしにかかっている。 「ここが避妖楼ですよ。 ふつうの楼閣なら地上にあるのですが、 これは空襲に備えてしるから、 地下につくってあるのです」 と国王は言った。 地上の御殿は全部で九つの部屋になっていて、 中に油を入れた大きな甕が用意され、中へ入れば日夜、 灯が絶えないようにできているのである。 「例のあやしげな風の音がしたら、 私たちは急いでこの中に待避するのです」 と国王は説明したが、悟空は笑いながら、 「化け物が陛下に危害をあたえようという 意志がなかったからいいようなものを、 もし向こうがその気になったら、 それこそ袋のネズミじゃありませんか」 悟空が言い終るか終らないうちに、 南の方から砂塵を立てて風が吹いてきた。 家来たちは早くもおそれおののいて、 「この坊主の口はろくでもないぜ。 化け物と言った途端に化け物がやってきたじゃないか」 国王は悟空をそっちのけにして、 あわてて石段を駐けおりる。 三蔵も他の連中もあとにつづき、 地上にとり残されたのは三人の弟子たちだけになった。 「おいおい。俺たちも待避しょうじゃないか」 八戒が心細くなって逃げ出そうとすると、 悟空がその前に立ちはだかって通せんぼをやった。 「待て待て。 化け物の顔を見届けてから逃げ出しても遅くはないぞ」 「化け物の顔を見届けて何の役に立つんだ? 何の因果で俺たちが看視兵の役割を つとめなきゃならんのだ?」 もがけど叫べど、 悟空が通してくれないことにはどうにもならない。 そのうちに中空から一人の妖怪がとび出してきた。 「おい、あれに見覚えがあるか?」 と悟空は沙悟浄にきいた。 「顔見知りでもないのに、 見覚えのあろう箸がないじゃありませんか」 「しかし、八戒。どこかで見たことのある顔じゃないか?」 「俺の飲み友達ならいざ知らず、 化け物とつきあいはないな」 と八戒が答えた。 「どうも俺の見たところでは、 東嶽天斎の門番をしている 金晴鬼とよく似ているように思うがな」 悟空がいうと、八戒はいやいやと言下に否定した。 「どうしてそうじゃないことがわかる?」 「だってそうじゃないか。 東嶽帝の配下なら幽霊だろう? 幽霊なら夜になってから出てくると相場のきまったもの。 それが昼の日中にとび出してきて、 しかも雲に乗ったり風をも弄んだりできる道理がないよ」 「ハハハハ……」 と悟空は笑いながら、 「理屈を言わせたらお前も一人前だな。 どれ、俺が奴の口から直接きき出してみるか」 「兄貴がそうしたかったら、そうするがいいよ。 ただ啖呵をきる時に 俺たちの名前をひき合い出さないでくれ。 大体、俺たちはもともと恩讐がないんだから」 悟空は最後まできかず、いきな雲をとばすと、 中空へとびあがって行った。 「やい、お前はどこの化け物だ?」 悟空が叫ぶと、相手は色をなして、 「俺を知らないか。知らんなら教えてやろう。 麒麟山豸洞の賽太歳大王が俺の親分だ。 俺は親分の命令で金聖娘娘のために 官女を二人連れにきたんだ。 そういうお前はどこのどやつだ?」 「はばかりながら、俺は斉天大聖孫悟空という者だ。 西方へ仏さまを拝みに行くべくこの国を通ったところ、 お前らが禍していることを知って、 機会があれば退治してやろうと思っていたところだ。 ちょうどいいところへやってきたぞ」 相手はその言葉をきくと、 手に握った長鎗をしごいて襲いかかってきた。 悟空は一歩退いて如意棒で、「えいッ」と打ちおろすと、 化け物の長鎗は真ん中からポキンと二つに折れてしまった。 驚いた化け物は生命からがら逃げ出したこと いうまでもない。 悟空はあとを追わず、避妖楼の入口へ戻ると、 「お師匠さま。化け物は逃げ去ってしまいましたよ」 「空襲警報解除、空襲警報解除」 と八戒が鼻を鳴らして歩きまわった。 穴の中から這い出してきた一同が空を見あげると、 怪しげな風は消えて雲ひとつない晴天に戻っている。 「これもあなたのおかげです。さあ、先ず一杯!」 と国王は杯を悟空の前に出した。 悟空かそれを受けとって言葉もまだかえさないうちに、 朝門外から、 「西門に火事が起っています」 と使者がとんできた。 悟空はそれをきくと、 手に持っていた酒杯を空に向って投げあげた。 酒は散り、杯は音をたてて地面におちてきた。 国王はびっくりして、 「いや、どうも失礼申しました。 本来なら御殿へおいでいただいて、 正式に謝意を表すべきだったのですが、 目の前に洒があったのでつい手が出たのでございます。 どうぞお腹だちになりませぬよう」 「いやいや。 そんなことを気にしているわけじゃありませんよ」 悟空は笑っているだけで、 なぜ杯を投げたのか理由を説明しようともしない。 そのうちにまた報告があって、 「西門に大雨がふって、 さっきあがった火の手がすぐ消えてしまいました。 街の中を水が流れていますが、 不思議なことに酒の匂いがプンプンしています」 「ハハハハ……」 と悟空は笑いながら、 「陛下は私が怒って杯を投げたと お考えになったようですが、そうじゃないんですよ。 化け物の奴は行きがけの駄賃に西門に火を放ったのです。 で、私はこの一杯の酒で 妖火を消しとめてさしあげたのです」 国王はすっかり喜んで、三蔵の一行を宝殿へ案内すると、 早速にも退位して国を譲ろうという話を持ち出した。 「ですが、陛下」 と悟空は言った。 「さっきの化け物は賽太歳の子分ですから、 恥をかかされて黙ってひっこむ道理がありませんよ。 恐らく親分が自ら出馬して、 私と雌雄を決しようとするでしょう。 国をあげての大戦争になっては国民が迷惑するでしょう。 いっそ私が向うへなぐりこみをかけて、 皇后さまを奪いかえして来ようかと思いますが、 奴らの根城はどこにあるのですか?」 「私は斥候を出して情報を集めたのですが、 その報告によると、ここより徒歩で五十余日、 真南へ約三千里あまり行ったところです」 「じゃ、八戒、沙悟浄、あとを頼むぜ」 すぐにも出発しそうな悟空の様子を見て、 国王はあわててひきとめにかかった。 「まあ、そう足元から鳥がとび立つように お急ぎにならないで下さい。 きょう一日はゆっくりお休みになって、 その間にこちらで馬をえらんだり 食糧を整えたり致しますから」 「おやおや。 陛下は私が足車で登山をするとでも 思っておいでなのですか」 と悟空は笑いながら、 「少しハッタリにきこえるかもしれませんが、 このトックリの酒がさめきらないうちに 三千里くらいの道なら簡単に往復ができますよ」 「でもあなたの風貌から想像しますとね、 失礼ながら、そんな離れ業がおできになるとは 考えられませんがね」 「風貌のことを言われるとお互いに弱いなあ」 と悟空は八戒の方を見ながら、 「しかし、何度も申すことですが、 人は見かけによらないものですよ。 こう見えても、私はかつて天界をおどろかし、 太上老君の煉丹炉をひっくりかえし、 天下の英雄豪傑から、 花果山にこの人ありと言われた男です」 悟空が自分の過去を語ると、 国王はかつは驚き、かつは喜び、 「ではこれ以上おとめは致しません。 無事おかえりなさるよう、 私のこの酒を飲んでからご出発になって下さい」 「いや。酒は一走りしてかえってきてから、 ゆっくりいただくことに致します」 そう言ったかと思うと、 あっという間に悟空の姿は見えなくなっていた。 |
2001-03-08-THU
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