毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第六巻 経世済民の巻
第八章 消える死の灰

一 女は宝石に弱い


有来有去とは行ったり来たりという意味である。
行ったり来たりする筈だった有来有去が
行ったきり雀になってしまって、
悟空の化けた贋者の有来有去が
本人のような顔をして解牙洞へ戻ってきた。
「やあ、ご苦労さん」

洞門に迎えたのは一匹の猩々であった。
「大王がお待ちかねだよ。
 早く行ってご報告申しあげるがいい」

悟空は手に持った銅鑼を叩きながら前門をくぐると、
中庭を横切ってまた次の門にさしかかった。
見ると、その奥に窓のたくさんあいたあずま屋があって、
その中に一人の魔王がデンと坐っている。

悟空は魔王の顔を見ても、頭をさげようともせず、
ふくれッ面をしたまま立ちつくしている。
「有来有去じゃないか?」
「…………」
「ご苦労だった。様子はどうだった?」
「…………」
それでも悟空が答えないので、
「こらッ。きいているのがきこえないのか。
 なぜ答えないんだ?」
「なぜ、なぜ、なぜ……」
と悟空の有来有去はヒステリックな声をあげた。
「じゃおききしますが、私が行きたくないというのに、
 大王はなぜ私をお使いに出したのです。
 あすこへ行って見たら、向うは勢揃いをして待っていて、
 それッ、化け物をとらえろとばかりに
 わあッと押しよせてきて、
 あッという間に生捕りにされてしまったんですよ。
 喧嘩の使いは斬らないという掟があったから
 いいようなものの、その代り城の外へ連れて行かれて、
 これこの通り、三十回もひっばたかれてしまいました。
 こちらから攻めて行くどころか、
 間もなく向うから大軍が押し寄せてきますよ」
「それでお前がふくれッ面をしているわけがよめたよ。
 ひどい目にあわせて気の毒したな。
 ところで、敵の軍勢はどのくらいいたかい?」
「何しろこちらがすっかりうろたえてしまって、
 とても人数を勘定するどころの騒ぎじゃ
 ありませんでした。
 ただ雲か霞とまごうばかりの大軍だったことに
 間違いはありません」
「ハッハハハハ……。
 心配することはないさ。
 敵は幾万ありとても、だ。
 俺の新兵器にかかったら、木端微塵さ。
 それよりもお前、
 奥へ行って金聖娘娘をなだめてきておくれ。
 今朝ほど俺が一合戦やるぞといったら、
 涙を流し通しで手もつけられん。
 お前の見てきた話をきかせてやったら、
 あれは喜ぶだろう。
 俺の方が一敗地にまみれると思ってな、
 アッハハハハ……」

それをきくと、悟空は我が意を得たりとばかりに喜んで、
早速、奥へ入って打った。
この洞窟の奥は表と違って
目もさめるような美しい御殿である。
悟空が中へ入って行くと、持女たちにとりかこまれたまま、
金聖宮はまだ泣きじゃくっていた。
「ご機嫌いかがです、奥さん?」
と悟空はきいた。
「何ですって?
 誰に向ってそんな口のきき方をなさるの?
 私が誰だか知っているの?」
「もちろん知っておりますとも」
「それならもっと
 礼節にかなった口のきき方をなさったらどう?
 ご機嫌いかがだなんて
 そう気安く呼びかけてもらいたくないわ」
「まあまあ、奥さま」
と侍女たちはなだめにかかった。
「あれは大王の腹心の部下で、今朝ほど
 宣戦布告害をもって出かけて行った男でございますよ」

それをきくと、金聖宮は怒りをこらえて、
「じゃお前かい、朱紫国へ行ってきたのは?」
「その通りです。
 私は朱紫国へ行って
 金鑾殿で国王にお目にかかってまいりました」
「国王はお前に何かおっしやいましたか?」
「宣戦布告に対する回答は
 さっき大王に報告してしまいましたよ。
 それとは別に、
 国王は大へん奥さまのことを心配になっておられて、
 かえったら是非言っておいてもらいたいと
 伝言をたのまれているのです。
 でもこうまわりにきき耳をたてている人が大ぜいいては、
 ちょっと具合が悪いですな」
 と勿体ぶって有来有去は言った。
「じゃお前たち、しばらく向うへ行っててちょうだい」

金聖宮が人払いをすると、有来有去は扉をしめた。
それから顔を一撫ですると、
本来の姿を現わして、金聖宮の前に立った。
「そんなにびっくりなさらないで、
 先ず私の話をきいて下さい。
 実は私は有来有去ではなくて、
 唐土から天竺へお経をとりに行く旅の僧です。
 師匠の三蔵法帥と一行四人で道中、
 朱紫国を通ったところ、国王が三年越しの病気ときき、
 その原因をつきとめて
 ノイローゼをなおしてさしあげたのです。
 ところが全快祝いの席上、
 たまたまあなたが化け物にさらわれたことが
 話題にのほりまして……」
と悟空はこれまでのいきさつを手短かに述べてきかせた。
「それで私は生命の危険をおかして、
 こうしてあなたのところへ連絡に参ったのでごきいます」

しかし、金聖宮は顔をうつむけたまま全然返事をしない。
「私のいうことをご信用にならないようですね。
 無理もないことです。
 が、まあ、これをごらんになって下さい」

悟空が黄金宝串をとり出して彼女の前にさし出すと、
見る見る彼女の顔が曇って
忽ちポロポロと涙がこぼれおちてきた。
「どうぞどうぞ私を助け出して下さい。
 ご恩は決して忘れません」
「ところで、化け物の持っているあの火を吹いたり、
 煙を立てたり、灰をまきおこしたりする武器の正体は
 一体何なのですか?」
と悟空はきいた。
「武器といったって、たかが三つの鈴にすぎないんですよ。
 でも一つ目の鈴をふると、三百丈の火がおこり、
 二つ目をふると、三百丈の煙が立ち、
 三つ目をふると、三百丈の灰がまきおこるんです。
 火や煙はまだよいのですが、灰は一番毒で、
 あれが鼻の中に入ると呼吸困難におちいって
 一命を失うことがあります」
「へえ。そんなにスゴいものとは知らなかった。
 ところで、奴はその鈴を
 どこにしまいこんであるんですか?」
「生命の次に大事にしているものですから、
 片時も身体から離しゃしませんよ。
 寝る時だって腰にしばりつけてあるんですから」
「じゃ、もしあなたが本当に
 朱紫国へおかえりになりたいお気持なら、
 何とか方法を講じて、
 奴からあの鈴をとりあげてくれませんか?
 うまくあれが私の手に入れば、
 あとはわけはないですからね」
「でも私に渡してくれるかしら、そうやすやすと」
「そこが腕の見せどころじゃありませんか。
 腕っ節の強い奴でも
 女に弱いなんてことがありますからね。
 ひとつうまくやって下さいよ」

金聖宮は悟空がもとの有来有去に化けるのを見届けると、
「さ、早く大王を呼んできておくれ。
 私が話したいことがあるからといって」

わざと侍女たちにきこえるような大きな声で言った。

悟空はハイと頷くと、急いで化け物のところへ戻ってきた。
「金聖娘娘がおいでになるようにとおっしゃっていました」
「ふん。珍しいこともあるものだな。
 いつもヒスばかりおこして
 俺をよせつけようともしないのになあ」
「私に朱紫国の国王が何といっていたかときくから、
 向うじゃもう何とも思っちゃいない。
 皇后の座にだって既に別の人が坐っているのだから
 といってやったのですよ。
 きっとそれで考えなおしたのでしょう」
「なるほどなるほど。
 お前がこんなに見所のある男とは気がつかなかったな。
 よしよし。
 今度の戦争が片づいたら、
 ひとつお前を大宰に任命してやろう」

賽太歳はすっかりご満悦のていで、
すぐ悟空のあとについて奥へ入ってきた。

奥では金聖宮が待ちかねている。
全く現金なもので、さっきまでの涙は
嘘だったのではないかと思うほど晴れやかな顔をしている。
「どうした?
 地球が逆回転しはじめたんじゃないのかね?」
「まあ、あなたったら!」
金聖宮は愛嬌たっぷりに化け物の手をとろうとする。
化け物の方があとずさりをして、
「わかっているよ。お前の爪の威力は十分承知しているよ」
「おやまあ、
 わたし、そんなに大王に冷たくあたったかしら。
 もしそうだとしたら、あやまりますわ、
 これこの通り」
「いいよ。いいよ。
 美人にあやまらせては男の立つ瀬がないよ。
 それより何かわしに話があるそうじゃないか?」
「別に話があるってわけじゃありませんわ。
 ただ大王は本当に私のことを
 思ってくれているのかどうか、
 それを知りたかっただけのことですの」
「何を今更」
「でも私、むかしのことを思い出しますの。
 私が朱紫国にいた頃は、
 よその国から何か珍しい物を献上してきたら、
 国王はすぐ私に下さったわ。
 朱紫国の国王はやはり
 私のことを可愛がってくれたと思うわ」
「女は宝石に弱いからな」
「そうよ。女は宝石に弱いのよ。
 それを知っていて、知らん顔をしているのは、
 女を大事にしていない何よりの証拠よ」
「おやおや、とんだところにお鉢がまわってきたな。
 お前がそんなに宝石をほしがっているとは知らなかった。
 そんなにほしかったら、
 今度、朱紫国からごっそりとってきてあげるよ」
「いやいや。よそからもらってきたものではいや」
と金聖宮はさかんにすねて見せた。
「そんなことをいっても、
 ここに女の好きそぅなものは何もないよ」
「あるじゃないの?
 あなたがいつも身につけていらっしやるものが」
「え?」
と化け物はききかえした。
「あなたが肌身離さず身につけていらっしゃる
 あの金の鈴よ」

一瞬、賽太歳はドキンとした。
しかし、何と思ったか、突然、天を向いて、
「アッハハハ……」
と大声を立てて笑い出した。
「こんな子供みたいなおもちゃが好きだとは驚いたな。
 ほしければ、お前にあずけておいてもいいよ」

着ていた服を三枚もひっくりかえして、
中から三つの鈴をとり出すと、
棉で鈴の口をふさいで豹の皮でつくった袋の中に入れた。
「これは見た通り何の変哲もないただのお守りだが、
 わしにとっては大事なものだ。
 手にとってながめるのはいいが、
 絶対にふったりしてはいけないよ」
「わかっていますわ。
 この宝石箱の中に入れておきますから」

金聖宮はすっかり機嫌をなおすと、
「じゃ今日は仲直りのしるしに乾杯でも致しましょうよ。
 お前たち、早く洒の用意をしておくれ」

二人が腰をすえて酒盛りをはじめると、
悟空は化粧台に忍びよって宝石箱の中から
件の鈴の入った袋を盗み出した。
女に気をとられているから化け物は一向に気がつかない。

悠々と御殿を出て、あずま屋のあるところまできた悟空は、
人のいないのを見すますと、袋をひらいて見た。
見ると、真中に杯くらいの大きさのが一つ、
両側に拳大くらいのが一つ並んでいる。
「なあんだ、子供だましじゃないか」

袋の中から鈴をとり出して、
つまっていた棉をぬいたはずみに、
三つの鈴がガラガラと鳴った。

と、あたりで火と煙と灰がパッと立ったので、
びっくりして鈴をしまおぅとしたが間に合わない。
あたりは早くも一面の火の海である。
「こらッ。誰だと思ったら、こん畜生じゃないか」

いつの間にか賽太歳が悟空の前に立ちはだかっていた。
「それっ。者ども。奴をとりおさえろ」
まわりの者が一せいに襲いかかってきたので、
有来有去は鈴を投げすてると、如意棒をふりあげた。
もうそれは有来有去ではなくて正真正銘の孫悟空である。

化け物は何よりも先に、
悟空のなげすてた鈴をひろいあげた。
「者ども。前門をしめろ。ドロボーを取り逃がすな」

洞中の者は俄かに自信をとりもどした。
狭いところで大ぜいにとりかこまれては、
いくら悟空でも手も足も出ない。
形勢不利と見た悟空は、一匹の蒼蝿に化けると、
あわてて火の気のない壁の上にとまった。
「いないぞ。消えてなくなったぞ。
 大王。ドロボーが逃げてしまいました」
「前門はあいているのか?」
「いいえ、もとの通りぴっしりしまっています」
「じゃ、どこかにかくれているに違いない。
 仔細にしらべて見ろ」

家来たちは洞内をくまなくさがしまわったが、
犯人の姿は沓として見当らない。
「有来有去に化けてところもあろうに、
 ここへしのびこんでくるとは大胆不敵な奴だ。
 肝心の武器をとり戻したからいいようなものの、
 もしこいつをもち出された日にゃおおごとだったぞ」
「でも不幸中の幸いでしたよ。
 これはきっと我が軍の先鋒を打ちまかした
 孫悟空とやらいう化け物あがりの悪僧に違いありません。
 有来有去に化けたところを見ると、
 有来有去も途中で闇打ちにあったものと思われます」
「うむ。そうだ。十分考えられることだ。
 者ども、警戒を厳重にして、犯人をとりにがすな」

豸洞は非常警戒を布いて、
蟻が這い出す隙間もないほどである。

2001-03-10-SAT

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