毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第六巻 経世済民の巻
第八章 消える死の灰

二 英雄は美人に弱い


賽太歳は部下を動員して洞内をくまなくさがしまわったが、
日が暮れても悟空を発見することができなかったので、
門毎に歩哨を立て、
自分はあずま屋に夜遅くまで頑張りつづけた。

一方蒼蝿に化けた悟空は門の脇に蹴をのばして
時の経つのを待っていたが、夜に入っても
前門はますます警戒が厳重になるばかりなので、
方向をかえて奥へ様子を見にとんで行った。
見ると、金聖宮はただ一人、
机に顔を伏せて悲しそうにすすり泣いている。
悟空は部屋の中にとんで入ると、
ひょいと彼女のまげの上に足をおろした。
「もう駄目だわ。
 折角、あなたがお使いをよこしてくれたけれど、
 こんなことになってしまって……。
 これが私の運命なのかしら。
 ああ。私はこのまま山の中に埋もれてしまうのかしら」

それをきくと、
悟空は彼女の耳元に近よって小さな声でささやいた。
「私はまだいますよ。死んでも傷ついてもいませんよ」

びっくりして金聖宮は椅子からとびあがった。
「おや、まあ、私は幽霊にとりつかれているのかしら」
「幽霊だって? アッハハハ……。
 これこの通り、私は蝿に化けて
 あなたの髪の毛にとまっているじゃありませんか。
 泣くことも心配することもありません。
 私が必ず思うようにしてさしあげますから、
 またあの化け物をここに連れ込んできて下さい」
「お願いだから、どうかこれ以上、
 私をこまらせないで!
 化けて出るなら私のところでなくて、
 どこかよそへ出てちょうだい」
「おやおや。死んだわけじゃないというのに
 なかなか信じてくれないんですね。
 嘘と思うなら、あなたのその掌をひろげてみて下さい。
 私がその上におりて見せますから」

金聖宮が白い手をおそるおそるひらくと、
蒼蝿は彼女の頭の上から掌の上におりてきてとまった。
「あなたがあの神僧なの?」
「そうですよ。私がさっきの孫悟空です」
「まあ、ほんと?」

やっと彼女の顔に微笑が蘇ってきた。
「で、私にあの男をひっばって来させて
 どうなさろうっておっしゃるの?」
「もう一度はじめからやりなおそうというわけですよ。
 一度スッテンになったからといって、
 それでこりてしまうのは投資マダムくらいなものです。 
 チャンスは何度でもある、七転び八起き、
 失敗は成功の母、石の上にも三年、
 何のために、世の中に格言が
 こんなにたくさんあると思いますか?」
「それはわかっていますわ。
 私のきいているのはあなたの謀り事ですの」
「酒ですよ、酒、酒、酒ですよ」
と蒼蝿は翅をふるわせて言った。
「何をやるにも酒が第一、生命をおとすのも酒次第、
 というじゃありませんか」
「じゃあの男に酒をすすめろとおっしゃるのですか?」
「その通りです。
 先ず誰かいつもあなたのそばで働いている侍女を
 呼んできて見せて下さい。
 一目見たら、私が替え玉になってあなたのそばで、
 奴に酒をすすめる手伝いをしてさしあげます」

悟空から知恵をさずけられると、
「春嬌や」
と金聖宮は侍女を呼んだ。
「お呼びでございますか。奥さま」
「お前、皆の者にここの明りをともすように言っておくれ。
 私はこれから大王のところへ行きますから、
 お前も一緒にきておくれ」

侍女が奥へ入って他の者に用事をいいつけると、
悟空はすぐにそのあとを追った。
皆が広間へゾロゾロと出てきたすきに、
悟空は毛を一本抜いて「変れ!」と叫んだ。
と一匹の催眠虫が現われた。
それを春嬌の顔の上におくと、
催眠虫は早速、侍女の鼻の穴の中にもぐりこんだ。
見る間に彼女はふらふらとその場に倒れて
ねむりこけてしまい、
足蹴にしても気がつかないほどである。
素早くそれを人の気づかないところにかくすと、
悟空は揺身一変、
春嬌になりすまして金聖宮のあとを追った。
「大王。奥方がお見えです」

二人の姿を見つけた小妖怪が報告すると、
賽太歳はとるものもとりあえず迎えに出てきた。
「ドロポーはつかまりましたか?」
「それがまだなんだ。
 しかし、誰の仕業かということは目星がついた。
 ただ取りおさえようとした途端に姿を消したものだから、
 もしかしたら、
 まだこの中にひそんでいるかもしれないと思って、
 それで用心をしているところなんだよ」
「これだけ厳重な捜索をしてもまだ見つからないのなら、 
 きっと逃げ出したに違いありませんわ。
 今夜はもう遅いことでもあるし、
 いつまでもここにいても仕方がありませんから、
 奥へきてしばらくなりと横になられたら」
「それもそうだな」

化け物は部下にあとを頼むと、
金聖宮によりそって奥へ入ってきた。
「すぐお酒の用意をしてちょうだい」

ふりかえって春嬌に命ずると、
また化け物の方へ笑顔を見せて、
「お疲れでしょう。
 少しお酒をのむと、ぐっすりねられますわ」
「そうそう。それがいい」

酒や肴が運ばれてくると、
賽太歳はすっかり上棟嫌になって、
さかんに情の細かいところを見せはじめた。
「そうそう、きくのを忘れていたけれど、
 盗まれたものは無事とりかえせましたの?」
と金聖宮はきいた。
「ハハハハ……。
 とりかえしていなけりゃ、
 今頃こうして呑気に酒なんか飲んじゃおられんよ。
 あの猿め、鈴の扱い方を知らんもんだから、
 この通り皮袋を真っ黒焦げにしてしまったが……」
「あら、ほんと。何か袋をさしあげましょうか?」
「いやいや。
 そのへんにおいておくと、
 また盗まれないとも限らないから、
 わしの腰にぷらさげておくことにしよう」

それをきくと、
偽春嬌は一束の毛をぬいてこっそりかみくだいて、
化け物の身体においた。
それから息を吹きつけて、
「変れ!」

叫ぶやいなや、無数の蚤、虱、南京虫が
魔王の衣服の中へ闖入して行くではないか。
「どうも変だな。どうしてこうかゆいんだろう」

たまらずに身体をポリポリかいているのを見ると、
「しばらくお風呂にお入りにならなかったからじゃない?
 きっと服がよごれているのですよ」
「いやいや、
 わしは虱のわいたことなどこれまで一度もない。
 今夜という今夜に虱がわくとはとんだ恥っかきだ」
「ホホホホ……。
 そんなことを気になさるなんて、
 大王も案外、神経質なんですね。
 虱なんて人間の貴賤を見分けるほど
 利口者じゃございませんことよ。
 虱にかわりがなくても、皇帝の身体にわくと、
 御虱なんて申しますけれど」

くすくす笑いながら、金聖宮は、
「その着物をお脱ぎあそばせ。
 私が虱をとってさしあげますわ」

魔王が帯をほどいてハダカになると、
腰につけた鈴が現われた。
見ると、鈴のまわりにも虱が鈴なりになっている。
「おやまあ、こんなに虱が!
 私がとってさしあげましょう」

偽春嬌が口を出すと、
魔王は服の虱に気をとられているものだから、
案外、簡単に鈴を手渡した。
偽春嬌は剣をとるような真似をしていたが、
魔王が服の虱に夢中になっているすきに、
素早く鈴を自分のふところにしまいこみ、
代りに毛を一本抜いて、ニセモノの鈴をつくり、
「ハイ。きれいになりましたわ」
「いやどうもご苦労」

魔王は素直に手にとると、すぐ金聖宮に手渡しながら、
「どこか鍵のかかるところへしまっておいてくれ。
 今度こそ盗まれないように十分気をつけてな」
「じゃ衣裳箱の中に入れておきますわ」

金聖宮は衣裳箱の中に鈴をしまいこむと、
カチリと錠をおろして、
「さあ、これで安心。
 今夜は大王と二人っきりになりたいから、
 お前たちはもうさがってお休み」
「いやいや」
と侍女よりも先に賽太歳が首をふった。
「虱のわいた身体では安心してねてもおられない。
 据え膳を目のあたり見つめながら、
 食べずに逃げ出すのは如何にも残念だが、
 これも運がなかったものとあきらめて、
 また出なおすことにするよ」

そういって自分の寝所へ引きあげて行った。

2001-03-11-SUN

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