毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
第六巻 経世済民の巻 第八章 消える死の灰 |
三 因果はめぐる 夜の明けるのを待たずして、悟空は洞窟を脱け出した。 今や化け物の頼みとする三つの鈴は彼の手中にある。 「やい、化け物。金聖娘娘をかえしてもらいにきたぞ」 同じ大音声を張りあげても、力の入れ方が前とは違う。 声をきいて、 洞内の小妖怪どもはあわてて門の鍵を照らしたが、 錠前はどっしりとおりたままになっている。 「やっばり逃げ出していたんだな。 すぐ大王に報告して来なくっちゃ」 門番から急いで伝令をとばしたが、 「シーッ。大王はお休みになられたばかりだから、 静かにしてちょうだい」 奥をあずかっている侍女たちは何人伝令がとんできても、 一向にとりあわない。 そとで我鳴りつづけていた悟空は とうとうしびれをきらして、 「呼んでも出て来ないとはつんぼか臆病者か。 こっちは天下にかくれなきセッカチ猿だから、 出て米ぬときまりゃ、洞窟ごと叩きつぷしてくれるぞ」 如意棒を手に持って、洞門に近づくと、 力任せにぶっこわしにかかったから、 小妖怪どものあわてまいことか。 守る者は守り、急報にとぶ者はとび、 洞門のまわりは蜂の巣をつっついたような騒ぎになった。 「何じゃ、騒々しいぞ」 目をさました賽太歳は服を身につけると、 帳を分けて出てきた。 「何かあったのか?」 「ハイ。誰やら存じませんが、 夜半から門の外で騒ぎ立てております。 大したことではありますまいと思って ほっておいたのですが、夜が明けたら、 今度は門を叩きこわしにかかったそうでございます」 それをきくと、魔王は前門へ様子を見に出てきた。 「そとで、金聖娘娘をかえすかかえさねえか、 嫌のイの字でも言ってみろ、 と盛んに啖呵をきっております」 「ふん。どうせあの猿めに違いない。 いいから、門はしめたままで、 どこのどやつかきいてみろ」 魔王に言われた通り、小妖怪が門のところへとんで行って、 「やい、お前は誰だ」 と声をかけると、 「さっきから怒鳴っているのがきこえんのか。 俺は朱紫国から頼まれて 金聖娘娘をとりかえしにきた外公だ。 早く金聖娘娘を出さないと、洞門は木端微塵だぞ」 小妖怪がその通り報告に及ぷと、 魔王は奥へひきかえして行った。 金聖娘娘はやっと床から起き出したばかりであったが、 大王のおでましときかされてあわてて迎えに出てきた。 「ちょっとききたいのだが、 朱紫国の将軍は全部で何人いる?」 「さあ、全部で何人と言われてもわかりませんわ。 何しろ四十八師団あって、 その上に将とか帥とか肩書のついたのが ずいぶんたくさんおりますから」 「その中に外という姓の者がいるか?」 「さあ、宮廷内の人たちのことなら覚えておりますが、 将軍たちのことは存じませんわ。 でもどうしてそんなことをおききになりますの?」 「いや、実は朱紫国から頼まれたとかいって、 外公と名乗るのがそとへ来て騒ぎ立てているんだ」 「ホホホホ……」 と金聖宮は途端に笑い出した。 「外公って、あなた、外祖父のことじゃありませんか。 つまり、あなたの岳父だといって 大きな口を叩いているのですよ」 「ウーム」 それをきくと、賽太歳は顔を真赤にして怒り出した。 「俺の威力を全然知らんと見えるな。 よし、目に物見せてくれるぞ」 魔王はすぐ手兵を集めると、 門をひらき、威風堂々と洞のそとへ出てきた。 「やい。朱紫国の外公と名乗る不届き野郎はどやつだ?」 「よお。甥御殿。俺をお呼びかい?」 と悟空は左手に持った如意棒を右の手にもちなおすと、 左手で魔王を指ざしながら叫んだ。 「ちえッ」 と魔王はいまいましそうに舌打ちしながら、 「俺は進化論の信奉者じゃないから、 猿と親戚になった覚えはないぞ」 「ハハハハ……」 と悟空は笑いながら、 「じゃお前はこの文明の世の中になっても、 まだ創造者を信用しきっている中世紀の死にぞこないか。 知らずばきかせて進ぜよう。 我こそは五百年のむかしに天宮を思いきりかきまわして 天上天下にこの人ありとおそれられた 斉天大聖孫悟空であるぞよ」 「それがどうしたというのだ。ハハハハ……」 と賽太歳も負けずに笑いかえした。 「お前のように むかしのことばかり引き合いに出す老いぼれがいるから、 元代議士とか元大臣とかいう肩書を 平気で名刺に刷るならず者が横行するんだ。 元代議士や元総理か肩書になるものなら、 梅干婆さんだって、元処女だぞ」 「その通り、その通り。 むかしのことはどうでもいいが、 どうも俺のように海千山千越えてきた者には、 お前のような若僧のやることが見ちゃいられないよ」 「見ちゃいられないなら、ほかを向いたらいいではないか。 大体が浮世からはみ出して坊主になった者が お経に身を入れずに、他人のやることに ちょっかいを入れるのが間違っている! それとも、なんだ、旧軍閥が朱紫国の走狗をかって出て、 夢よ、もう一度、をもくろんでいるのか?」 「バカヤロー。 だまってきいておりゃ勝手なことを抜かしやがる! 犬と猿の区別もつかねえとは、馬鹿野郎ではなくて、 犬猿野郎だ。もう一段下だ。 いざ、この痛棒をくらえ」 悟空は如意棒をクルリと一回転するや、 化け物めがけて打ちかかってきた。 すかさず身をかわした化け物は宣花斧をふりかざして、 これを迎えうった。 悟空も懸命だが、賽太歳も負けてはいない。 およそ五十回あまりもわたりあったであろうか。 なかなか勝負がつきそうにないと見た化け物は、 斧で如意棒をカチリと受けとめると、 「よう。待った待った」 「何だ?」 「実は俺はこんなに手間どるとは考えなかったから、 朝飯をまだ食っていないんだ。 飯を食って出なおしてくるから、 水入りとしようじゃないか」 「ハハハハ……。いいともいいとも。 好漢は乏兎を追わず、というからな」 悟空が如意棒をおさめると、 化け物は大急ぎで奥へかけ込み、金聖宮に、 「わしの鈴を持ってきておくれ」 「鈴をどうなさるんです?」 「外公といって大口を叩いたのは孫悟空という風来坊主だ。 奴の頭を照焼きにしてやるんだ」 悟空ときいて、金聖宮は一瞬ためらった。 自分を助けに来てくれたあの坊さんが殺されては たいへんである。 といってもし渡さなかったら、 自分がどんな目にあわされるかわからない。 どうしたものだろうとぐずぐずしていると、 「早くもって来ないか!」 と化け物は声色をかえた。 「ああ、押さま!」 と金聖宮は心の中で叫びながら、 衣裳箱の中から三つの鈴をとり出した。 化け物は鈴を手にとると、急いで洞門をとび出した。 「やい、待て」 「よお。もう飯がすんだのか。おそろしく早い朝飯だな」 「いやいや。考えなおしてひきかえしてきた。 お前のような奴を朝飯前に片づけなきや、 賽太歳の名がすたる!」 賽太歳が鈴をとり出すのを見ると、悟空が言った。 「おや。お念仏でもとなえようというのかね?」 「その通り。お前の往生際をよくしてやろうと思ってな」 「それなら俺もお前のために念仏をとなえてやるとしよう」 寸分違わない鈴を悟空も腰の間から持ち出したから、 化け物は目をむいて驚いた。 「や。それは何だ? 俺に見せろ」 「見たければ見せてやるぜ。これこの通り」 と悟空は手にとって見せた。 「不思議だ。不思議だ。 瓜二つというけれど、 そっくり同じものがこの世にあるとは!」 化け物はしきりに首をかしげていたが、 「お前の鈴はどこから手に入れてきた?」 「そういうお前はどこから手に入れてきた? 若い方からさきにいうのが礼儀というものだぜ」 「いいともいいとも」 と化け物は意外に正直者である。 「太上老君の八卦炉といえば、 原水協も原水狂もひっくりかえるような 大騒ぎをする原水爆の総元締だ。 わしのこの三つの鈴はそこからもち出してきたものだ」 「ハハハハ……。じゃ出所は同じだ」 と悟空は笑った。 「しかし、待てよ。 生き物ならオスメスがあるが、 鈴にオスメスのあろう筈がない。 雌雄を決するのは、鈴をふってみるよりほかあるまい」 「いかにも。口で脅迫しても誰も本気にはしまいから、 ひとつ実験競争で行こう。 一方的宣言では 全世界の輿論を敵にまわすようなものだから、 何なら先番をそっちに譲ってもいいぜ」 「ふん。わしが天下の輿論を こわがっているとでも思っているのか。 わしがこわがっているのは、 わしの実力が天下を黙らせる威力を もっていないということだけさ」 魔王はすぐ第一の鈴をとり出してふってみたが、 三回ふっても、火が出ない。 二つ目の鈴をふっても煙が出ない。 三つ目も同じことである。 内心すっかりあわてながらも、 「どう考えても解せない。 世の中がかわって女と靴下が強くなったせいだろうか。 でなきゃ雄が雌の前で爆発しなくなる筈がない」 「ハッハハハ……。さて、今度は俺の番だぜ」 悟空は三つの鈴を手づかみにして、一せいにふった。 と見よ。 火と煙と灰が一瞬満天を埋めつくし、 山はめらめらともえあがった。 ばかりでなく、悟空が呪文をとなえて、風をよんだので、 火は猛然たる勢いでひろがって行く。 東西南北どちらを見ても、天まで届く焔の海だから、 いくら神通力のある化け物でも 逃げて行くところのあろう筈がない。 「孫悟空。私だ。私だ」 悟空が煙の中から顔をあげると、 観音菩薩が空から柳の枝でしきりに水をふっている。 水がたれおちると、そのあたりから焔が消えおちて行く。 「どうしたんです、観音さま。 どうして火をお消しになるんです?」 「どうしてだって? お前はお前のふったあの鈴で幾万憶の人々が、 嘆きのどん底につきおとされるか知らないのか?」 「知らないことはありません。 でもさきにやったのは奴の方です」 「ああ」 と観音菩薩は溜息をついた。 「戦争をやる時は誰でもそういうことをいう。 しかし、被害を受けるのは敵ではなくて、 無宰の人民だよ」 「それはそうかも知れません。 しかし、だからといって 征服者に屈従すべきだという道理はありません。 私はパートランド・ラッセルのような ヒステリックな敗北主義者じゃありませんよ」 「いかにもお前の言いそうなことだ」 「私は第三勢力という奴も嫌いなんです。 無理が通れば道理がひっこむ、 そんな世の中で調停をやれば、 いつも無理を言った奴が得をすることになりますからね」 「だから、私は化け物をつかまえにきてやったのだ」 「へえ、するとあの化け物は 観音さまの鼻息のかかった奴ですか?」 「そうだ。あれは私の乗っている金毛だ。 牧童の居眠りをしているすきに下界へおりてきて、 朱紫国のために災いを消してやったようだ」 「災いを消してやった、ですって? 話は全然逆ですよ」 「お前はそう思うだろう。 しかし、実は今の朱紫国王は まだ東宮時代にさかんにハンティングをやって、 誤って孔雀菩薩の息子を傷つけたことがあるんだ。 小孔雀の許嫁がそれを悲しんで菩薩に訴えたので、 菩薩は同じ苦痛をあの国王にあたえるように お命じになった。 今の人は因果応報なんか糞くらえと思っているようだが、 今日は人の身、明日は我が身、めぐりめぐって 自分の身にはねかえってくるものなんだよ」 「だからと言って、 この野郎が人の女房をねとってよいというリクツは ありませんよ。 大慈大悲の観音さまが処罰をしないとおっしゃるなら、 私が奴の尻を二十くらいひっばたいてやります」 「よっぽど、恨み骨髄と見えるな。 それなら、気がすむように、 一つだけなぐらせてやってもよいが、 あまり力を入れると二度と生きかえらなくなるからね」 その通り悟空が化け物の頭をポカリとやると、菩薩は、 「さあ、早く戻れ」 小さくなっていた化け物は宙返りをすると、 忽ち一匹のふさふさと毛におおわれた金毛にもどった。 それにまたがった菩薩は、ふと気がついて、 「鈴は?」 「さあ、わかりません」 と悟空はトボけた。 「何を言っている! もしお前が鈴をまきあげたのでなければ、 お前のような奴が十人かかっても こいつのそばへは近づけなかった筈だよ」 「いや、私は本当のことを言っているのです」 「そうか。 それじゃ緊箍児経でもよみながらさがしてみるか」 ビックリした悟空は、あわてて鈴をさし出した。 観音菩薩はそれを金毛の首にかけると、 ひょいとその上にとびのった。 見ると、金毛の四つの足は あかあかと火がもえたように光り輝いている。 「ではまた」 南海へかえる菩薩を見送ったあと、 悟空が豸洞を焼き払い、 無事、金聖娘娘を朱紫国へ連れかえったことは いうまでもない。 さて、これで朱紫国の災難も まずはめでたしめでたしで終ったが、 我々の住む世の中もこういう具合に万事うまく運べば、 と改めて嘆息を誘うだけのことであろうか。 しかし、人間は その愚かさを嘆いてばかりもいられないので、 夜が明けたら、またせっせと働きに出かけて行く。 それと同じように、三蔵法師の一行も 朱紫国の国王に別れを告げると、 いつ果てるともしれない旅へ出かける。 彼らは俗人たちのように 退屈したりノイローゼにおちいったりするいとまも ないかのようである。 (つぎは「道遠しの巻」) |
2001-03-12-MON
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