毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第七巻 道遠しの巻
第二章 化け物は山盛り

二 トリとムカデ


見ると、向うから喪服を着た女が、片手にお供えの御飯、
片手に死人を祭る銀紙を持って泣きながら歩いてくる。

悟空は思わず長大息して、
「涙の眼と涙の眼、同じお前も枯れすすき、か……。
 それにしても、
 何が原因であんなに泣きはらしているのだろうか」

考えているうちに、女は眼の前までやってきた。
「奥さん奥さん。
 何をそんなに悲しんでいらっしゃるのですか?」
と悟空はきいた。
「ああ」
と女は嘆きの声をあげた。
「私の良人が殺されたのよ。人殺しにあったのよ」
「人殺しだって?
 亭主を殺されたのなら、どうして訴え出ないのですか?」
「でも相手が悪いんです。
 ご存じですか、ここから二十里ほど行ったところに
 黄花観という道院があります。
 私の主人はあそこの竹を買いに行ったところ、
 そこの道士に一服盛られて
 有金ことごとくまきあげられてしまったのです」

それをきくと、
悟空の眼からも知らず知らず涙がこぼれおちた。
「まあ、何という人かしら」

女は喜ぷと思いの外、色をなして、
「私が悲しんでいるのは、良人のためですわ。
 それなのに、あなたまでが涙を流すなんて、
 どういぅおつもりなの」
「これはこれは」
とびっくりして一歩退いた悟空は、
「どうぞ誤解をなさらないで下さい。
 私は別にあなたの関心をひきたいと思って
 貰い泣きをしたのではないのです。
 どうか私の話もきいて下さい」

悟空がこれまでのいきさつを話し、
自分の師匠や弟分も黄花観の道士に一服盛られて
眠らされていることを話すと、
女は手に持った盆や紙銭を下において、
「まあ、ではあなたも私と同じ被害者だったのですね。
 そうとも知らずに無礼なことを申しあげて、
 申し訳ありませんでした」
「いやいや。
 それよりもあの黄花観の道士はどういう素姓の男ですか?
 この土地のお方だとすれば、
 奥さんはあの男の正体をご存じじゃありませんか?」
「あれは百眼魔君という化け物です。
 眼がたくさんあるので、多目怪とも呼ばれています」
と女は説明をしたが、
「でもあの化け物の放射線にあって、
 なおうまく逃げ出されたとしたら、
 あなたも並大抵の腕前のお方ではないですね」
「有難うございます。
 力と力で勝負をするのなら、
 もとより一歩もひけをとらないのですが、
 どうもあの放射線は苦手でしてね」
「ところが、どんな化け物でも必ず
 泣きどころというのがあるものです。
 あの化け物でも縮みあがってしまう相手があるのですよ」
「そいつは誰です? その相手というのを教えて下さい」
「教えてさしあげてもよろしいのですが、
 たとえ仇討ちはできても、
 あなたのお師匠さまをお救いすることは
 できないかもしれません」
「そいつはまたどうしてです?」
「あの道士の売薬は猛毒で、
 中毒して三日もたつと
 骨も肉もみな腐れおちてしまうからです」
「三日もあれば大丈夫だ。
 どんな遠いところでも
 半日もあれば私は往復してしまいますから」
「それなら間に合うかもしれませんが、
 ここから南へ向って真直ぐ一千里ほど行ったところに
 紫雲山というところがあります。
 そこに千花洞というのがあって、
 毘藍婆というお年寄りが住んでおられます。
 このお婆さんなら
 多目怪が百目も千目もおく相手でございます」
「いや、どうも有難うございました」

悟空が頭をさげて、顔をあげると、
目の前にいた筈の女の姿が見当らない。
悟空は面くらって、
「どこのどなたか存じませんが、
 もしおさしつかえなかったら、
 お名前をおきかせいただけませんでしょうか」
「私ですよ、斉天大聖」

中空から声がするので、ふと上を仰ぐと、
それは黎山老姆であった。
「おや。老姆さんではございませんか。
 わざわざここまでおいでいただいて恐縮に存じます」
「いやいや。
 私は竜華会のパーティの帰りでしてね。
 ここを通りかかったら、
 あなたのお師匠さんが災難にあっているようだから、
 ちょっとお手伝いしてあげただけのことですよ。
 一刻を争う時だから、
 早く紫雲山へ一走りしていらっしゃい。
 ただ私があなたに教えてさしあげたとは
 言わないで下さい。
 でないとあの婆さん、
 余計な仕事を持ち込んでと私のことを恨みますから」
悟空はお礼を述べると、
斗雲に乗って忽ち紫雲山の上空へやってきた。
見ると、雲の間だから千花洞の入口が覗いている。

急いで下界へおりると、悟空は門をくぐって入った。
庭の中には人影もないし、
奥へ進んでも鶏や犬の声もきこえず、
ひっそり閑としている。
「こりゃ留守かもしれんな」

なおも奥へ入ると、
一人の婆さんが長椅子に腰かけているのが見えた。
「こんにちは、毘藍婆菩薩さま」
と悟空はそばへ近づいて行って挨拶をした。
「おや、大聖さんじゃありませんか?
 どうしてまたこんなところヘ?」
「私が斉天大聖であると、どうしてご存じなんですか?」
とびっくりして悟空はきいた。
「知っていますとも。
 あなたが天宮荒らしをして、
 天上天下のお尋ね者になった時は、
 モンタージュ写真が何十万枚も配られましたからね」
と毘藍婆は笑った。
「やれやれ、
 好事ハ門ヲ出デズ、悪事ハ千里二伝ワル、
 とはまさにこのことですね。
 では私がその後、心を入れかえて、
 仏門に帰依したことはご存じですか?」
「へえ? それは初耳ですね。
 いつどんな風の吹きまわしで、
 そんなことになったのですか?」
「だから、ヤンなっちゃうんですよ。
 これでも今はまともなんですぜ」
「結構なことですね」
「いや、爺さん婆さんは皆そういってくれるんですが、
 やくざ世界から足を洗って見て、
 やくざな生き方をしている奴の多いのには
 今更のようにおどろきますよ。
 現に今、黄花観でお師匠さまが災難にあっておるので、
 あなたのお力をお借りしたいと思って、
 とんできたところなんです」
と悟空は事の経過をもう一度くりかえした。
「私はね、前に盂蘭会へ行ったきり、
 ここ三百年というもの、
 一歩も家を出たことがないのですよ」
と毘藍婆菩薩は言った。
「そういうわけで、世間からは全く忘れられ、
 あの婆さん、まだ生きているのか、
 と思っている人も多いに違いありません。
 それなのにどうして、
 あなたは私がここにいることをご存じなんですか?」
「そりゃ、わかりますとも。
 私の持っている電子頭脳は
 世の中に不可能があることは教えていますが、
 可能なことを解決する時は
 どこどこの筋を辿ればよいかを、
 ただちに回答してくれますからね」
「へえ? 私がこの草庵で
 電話やテレビのない平和な生活を送っているうちに、
 世の中はそんなにも進歩したものなんですか」
「ですからテレビやラジオには出ないと言っても、
 プロデューサーがここまで追っかけてきますよ」
「いやいや。
 隠居をもう一度、
 カメラの前にひっばり出すのは残酷というものです」
「きっとそうおっしゃるだろうと思って、
 私はニュース屋をすっぽかして、
 自分一人でやってきたのですよ。
 お願いですから、
 どうか私の顔に免じて黄花観までおいでになって下さい。
 頼みます」
「あなたにそうやって両手をあわされたのでは、
 知らん顔もできますまい」

案外、素直に承知してくれたので、悟空はすっかり喜んで、
「時に、あの化け物をやっつけるには
 どんな武器をお持ちになるのですか?」
「これがあれば、大丈夫ですよ」
と毘藍婆は指を出して見せた。
見ると、指と指の間に二本の小さな縫針が握られている。
「なあんだ。
 縫針でよければ、
 そうおっしゃっていただければよかったんですよ。
 縫針なら一本はおろか、
 トラック一杯だって立ちどころに手に入るんです」
「あなたの概念にある縫針は鋼鉄製の針でしょう?
 ところが私のこの縫針は、
 鋼でもなければ、鉄でもなければ、
 いかなる金属の範疇にも入らないものなのです。
 これは私の息子が太陽の眼の中から煉り出した
 特製の針なのです」
「あなたの息子さんですって?
 あなたの息子さんはどなたですか?」
「うちの息子は昂日星官ですよ」

あッと悟空は驚いた。
昂日星官といえは、いつだったか、
さそりの精を退治してくれた人である。
あの人なら日輪を動かしているんだから、
婆さんの言うことに嘘はあるまい。

程なく二人は、
地上から光を放っているところまでやってきた。
「あすこです、黄花観というのは!」

悟空が指さすと、毘藍婆は初の中から針をとり出して、
空に向って投げ出した。

と、ガラガラと音がして、光は忽ち消え失せてしまった。
「お見事。お見事。さあ、針をさがしに行きましょう」

すると、毘藍婆は掌をかえして、
「ここにあるじゃありませんか?」

いつの間にか毘藍婆の手の中に戻ってきているのである。
悟空は雲をおりて、黄花観の中へ入って行った。
見ると、道士は眼をつぷったまま、
じっと立ちつくしている。
「この野郎。
 今さら阿呆の真似をしても言い逃がれはきかないぞ」
 いきなり如意棒をふりあげると、
「お待ちなさい。それよりも早く
 あなたのお師匠さまをさがし出すことです」
と毘藍婆はひきとめた。

悟空が客間へ入って見ると、
三人は相変らず床の上に死んだようにねむりこくっている。
力任せに揺り動かして見たが、ウンともスンとも言わない。
「弱ったな。どうしたらいいだろうか?」
「心配をしないでも大丈夫ですよ」
と毘藍婆は悟空の肩を叩きながら、
「今日、私がここへきたのも何かのご縁でしょう。
 私が解毒丸を持っていますから、
 これを飲ましてさしあげなさい」

菩薩は袖の中からボロボロになった紙包みをとり出した。
その中から三粒の丸薬をもらいうけると、
悟空は教えられた通り、一人一人の口をこじあけて、
歯の間だから一粒ずつ押しこんだ。
薬が腹の中に入ると、三人は吐気を催して、
一せいに腹の中のものを床の上に吐き出した。
「やれやれ。ひどい目にあった」

まっさきに意識を恢復したのは八戒である。
続いて、三蔵も沙悟浄も起きあがってきた。
「まだ頭がふらふらするな」
「中毒をして今まで生死の境をさ迷っていたんだぜ」
と悟空は、
「一命をとりとめられたのも毘藍婆菩薩のおかげだ。
 さあ、早く行ってお礼を申しあげろよ」

八戒は助けてくれた人よりも
加害者のことが頭にこびりついていると見えて、
「道士はどこへ行った?
 どういうわけで俺たちに一服盛ったのか、
 そのわけをききに行こうじゃないか?」
「あそこに
 阿呆のように立ちつくしているのが見えないか?」
と悟空が指ざした。
「蜘蛛の精のヒモならば、同じ化け物の類いに違いない。
 目に物見せてやるぞ」

熊手を握りなおして出て行こうとするので、
毘藍婆があわててひきとめた。
「まあ、そう気短かなことはしないで下さい。
 今は人手不足の世の中で、私のところも
 門番に逃げられて困っているところですから、
 あいつを連れてかえろうと思っているんです」
「奴の正体は何ですか?
 正体を現わさせる方法がありますか?」
と悟空がきいた。
「簡単なことですよ」

毘藍婆は指先で道士を一押しすると、
道士はどっとばかりに塵挨の中に倒れた。
見ると、
長さ七尺もあろうかと思われる大ムカデの精である。
毘藍婆は小指の先でそれをひっかけると、
雲にのって千花洞へひきあげて行った。
「すごいすごい。
 ああいう怪物を平気でやっつけるとは、
 あれもまた大した化け物だ」
と八戒が言った。
「ここに来る途々、きいたんだが、
 あの婆さんは昴日星官のおふくろだそうだよ」
と悟空が説明した。
「昴日星官なら、オンドリだから、
 そのおふくろなら、母鶏だろう」
「なるほどなるほど」
と八戒は手を叩いて頷いた。
「野鶏は野鶏でも、あのくらいになると、
 ヒモの方がこきつかわれるようになるんだな。
 トリとムカデではどちらに分があるか、
 議論の必要はないやな。アッハハハハ……」

2001-03-18-SAT

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