毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第七巻 道遠しの巻
第三章 猿の冬籠もり

一 袖の下長官


「お師匠さま。さっきの老人は太白金星でしたよ」

悟空が報告をすると、三蔵はあわてて両手を合わせながら、
「悟空や。早く行ってもう一度、
 どこか別の通があるかどうか、きいてきておくれ。
 君子は危うきに近よらず、というから、
 なるべくなら化け物のいるところは避けて通りたいよ」
「いやいや。そいつは駄目ですよ。
 この山は幅だけでも八百里、
 その先にまた山が連なっていて、
 あのいただきを越えないで向うに行くことは
 出来ないそうです」

それをきくと、三蔵は早くも涙顔になってしまっている。 
「おやおや。いまさら泣いたって仕方がありませんよ。
 大体、話をする人間は
 針小棒大に表現する傾向がありますから、
 事実よりは多少誇張されているに違いありません。
 上を向いたり、横を向いたりすると、
 頭をぷっつけるおそれがありますから、
 真直ぐ前を向いて歩くことに致しましょうや」
「だけど、前ばかり向いて歩いたら、
 化け物の口の中へ真直ぐ入って行ってしまうよ」
「入って行ってしまってもいいじゃありませんか。
 化け物だって入口ばかりでなくて
 もう一方の口もあるでしょう、
 そこから抜け出してしまえば……」

しかし、三蔵は馬をおりて、どうしてもこれ以上、
先へ進もうとしないので、悟空はあきらめたように、
「じゃ、お師匠さま。
 しばらくそこで一休みしていて下さい」
「そういう兄貴はどうするんです?」
と八戒がきいた。
「これから、あの山のいただきに行って、
 ちょっと様子を見てくる。
 都合によっては化け物を一匹つかまえて人質にして、
 交換条件に山を通してもらうことにするさ。
 だから、お前らはここに残って
 お師匠さまのお守りをしていてくれ」
「お師匠さまのことは大丈夫ですが、
 兄貴も充分気をつけて下さいよ」
と沙悟浄が言うと、
「なあに。後顧の憂いさえないようにしてくれれは、
 それでたくさんだ。じゃ、あばよ」

そう言ったかと思うと、悟空は早くも斗雲に乗って、
山頂にとびあがっていた。

山の頂きから見おろすと、
森に包まれた山の中はシーンとしていて、
人の子ひとり見当らない。
「ちぇッ。太白金星の奴に一杯食らわされたらしいぞ。
 こんなことと知ったら、
 あの爺さんをおとなしく放してやるんじゃなかったわい」

思わず独り言をつぶやいたが、
その途端にうしろの方で鈴の鳴る音がきこえてきた。
びっくりしてふりかえると、
「令」という旗をかざした小妖怪が、
腰に鈴、手に拍子木を持って、
それを打ちながら、北から南へと急ぎ足で駈けて行く。
「ハッハハハ……。奴は伝令に違いない。
 どれ、奴が何を喋っているか、
 ひとつききに行って見るか」

悟空は揺身一変、一匹の蒼蝿に化けると、
伝令の頭の上へとんで行って、
帽子の上にひょいととまった。
小妖怪はそれとも知らずに拍子木を打ちながら、
「えー。蝿の用心。蝿の用心。
 孫悟空は蝿に化けるから、蝿を見たら打ち殺せ」

きいていた悟空は驚いて、
「この野郎。俺の顔を見たこともないのに、
 何だって俺の名前を知ってるんだろう。
 おまけに俺が蝿に化けることまで知っているとは!」

すぐにも如意棒をとり出して、
ガンと一撃くらわせてやろうと思ったが、
「待て待て。
 八戒の奴が金星じいさんからきいたところによると、
 化け物の親分は三人もいて、
 手下の化け物は四万七、八千名もいるそうじゃないか。
 もし本当にそうなら、
 こんな手下を殺したところで仕方がない。
 それより奴の親分がどの程度の実力を持っているか、
 きき出してからでも遅くはないぞ」

悟空は小妖怪の帽子からとび立って、
近くの樹に羽をおろすと、相手を先に行かせた。
それから揺身一変、
小妖怪と全く同じような恰好に化けると、
同じように旗を立て、手で拍子木を叩きながら、
小妖怪のあとを追っかけた。
「おいおい。待ってくれ」

呼び止められて小妖怪はうしろをふりかえった。
見慣れない顔なので、
「お前はどこからやってきた?」
「テへへへ……」
と悟空はあきれたような笑い声を立てながら、
「身内の者にどこからやってきたもないだろう?」
「いや、我々の一家にお前のような奴はいないぞ」
「俺のような者はいないって? もう一度よおく見てみろ」

怖れるどころか、悟空はもう一度前へふみ出して、
ジロリと相手を睨んだ。
「いやいや、うちの洞窟にはたとえボイラー係りでも、
 お前のように口のとんがった人相の男は
 見かけたことがない」
「ちぇッ」
と思わず悟空は舌打ちをした。
「こりゃ少し口をとんがらせすぎたかな?」

急いで下を向いて口を一撫ですると、
「俺の口のどこがとんがっている?」
「おやおや。たった今までとんがっていた口が
 一撫でした途端にどうしてなおってしまったんだろう。
 不思議だ。不思議だ。
 どう考えたってお前は俺たち一家の者じゃない。
 何せ我らの大王は家法が厳格で、
 ボイラー係りはボイラー係り、外廻りは外廻り、
 とはっきり区別をしているから、
 ボイラー係りに外廻りを命ずる筈がない」
「ところが、それがあるんだから、
 世の中はお前の考える通りにはならないわけさ。
 大王は俺をボイラー係りとしておくのは
 もったいないと思って、
 この通り外廻りに抜擢してくれたんだ」
「フン。そんなことってあるだろうか。
 が、まあ、いいや。
 じゃ、お前の身分証明か辞令でも見せてくれ。
 そうすりゃ少しは疑問が解けるだろうから」
「身分証明だって?
 下っ端ならいざ知らず
 上役に向って身分証明を要求する奴があるか」
と悟空はいささか色をなして怒鳴った。
といぅのは、小妖怪たちがどんな身分証を持っているのか
一度も見たことがない以上、
自分としても出しようがないからである。
「俺のは、さっきもらって来たばかりだが、
 そういうお前はどうだ?
 俺に要求するなら、先ずお前から出して見せろ」

相手の気勢にのまれて、小妖怪は服をまくりあげると、
帯に結びつけてある金ピカの札を出して見せた。
悟空が手にとって見ると、裏側に「威鎮諸魔」、
表をひっくりかえして見ると、「小鑚風」と書いてある。
「フン、どうやら外廻りには皆、
 風という字がついていると見えるな。よしよし」

悟空は相手の牌をかえすと、
「じゃ、今度は俺のを見せてやろう」

ちょっと横を向いて、尻のあたりに手を入れて
尻っ尾の毛を一本抜いて呪文をとなえると、
「さあ、これだ」

とり出したのを見ると、
「総鑚風」の三字が刻みこまれた金牌ではないか。
「や、や、俺たちのは皆、小鑚風なのに、
 どうして、あなたのだけが総鑚風なのだろうか」

驚いて小妖怪は言った。
「驚くことは何もないさ。
 俺の成績が抜群なので、大王は俺を総鑚風に任じた上に、
 外廻りの監督をお命じになったのだ」
「へえ? そうすると、あなたは我々の新長官でしたか。
 いや、どうもとんだ失礼を申しあげました。
 どうぞ、どうぞお許し下さい」

小妖怪は俄かに態度を改めると、
「私の班は全部で四十名でございます。
 いずれも新しく編入されたもので、
 互いに顔もよく知らない同士なので、
 ごらんのように言葉の行き違いなどありましたが、
 どうぞご榛嫌を悪くなさいませんように」
「ハッハハハ……」
と悟空は相手の心配を笑いとばすように、
「長官のご機嫌がよいも悪いも
 お前らのさし出す袖の下次第だ。
 俺の機嫌をとり結びたいなら、一人あたり五両ずつ出せ」
「まあ、そうあわてないで下さい。
 南嶺で我々の班四十名の者が
 集まることになっていますから、
 そこで一せいに集めてさしあげますから」
「よし。それならお前と一緒に行くことにしよう」

小妖怪を先頭に、悟空はそのあとに続いて南嶺に向った。

2001-03-20-TUE

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