毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
第七巻 道遠しの巻 第六章 鐘は錆びたり |
四 西方事情 しかし、手数が省けると思ったのは ホンの束の間のことにすぎなかった。 一行が知らぬ顔をして遠ざかって行ったのを見ると、 化け物はなよなよとした声で、 「和尚さま。人の生命も助けられないで、 お経をとりに行かれるのですか?」 声は風にのって三蔵の耳にとどいた。 三蔵は急に馬をとめると、 「悟空や。やっぱりあの女の縄をほどいてきておくれ」 「どうしたんです、また突然思い出したように!」 「いや、こんなに哀願されちゃ 知らん顔をして行きすぎるわけには行かないよ」 「へえ、いつ哀願されたのですか?」 「人の生命も助けられないで、 お経をとりに行くのかと言っているんだよ。 本当にその通りだよ」 「八戒きいたか?」 と悟空はふりむいた。 「お師匠さまのいうことにも一理あると思うよ」 と八戒は答えた。 「そうじゃないんだ。おい、沙悟浄。 女の叫ぶ声がきこえてきたかってきいているんだよ」 「いや、私は進む先のことばかり考えていたので 何もききませんでした」 と沙悟浄は答えた。 「そうだろう。 うちのお師匠さまときたら、 慈善病という持病を持っていて、 病気がおこりはじめると、 手がつけられなくなるんだから」 悟空がしきりに首をふると、 「でもね、悟空や。 むかしから諺にも言われているじゃないか、 善ハ小ナルヲ以テ為サザル勿レ、 悪ハ小ナルヲ以テ之ヲ為ス勿レ、と。 やっぱり困っている人を助けてやらないと、 私は一歩も先へ進めないよ」 「じゃお師匠さまの好きなようにして下さい。 私がいくら言っても どうせきいてくれるお師匠さまじゃないし、 私が反対すると、ますます怒るばかりだし。 その代りこの責任は私にも重すぎて とても荷ないきれませんから、 あらかじめお断わりしておきますよ」 「お前の世話にはならないよ。 八戒や。一緒に行って縄をといてやろう」 三蔵はまた道を戻ると、八戒に命じて女の縄をとかせ、 土の中から助け出してやった。 そして、いそいそと帰ってくると、 悟空はニヤニヤ笑っている。 「何がおかしいんだね? 猿面をして」 「時来リテ好キ友ニ逢イ、運去リテ佳人ニ遇ウ、ですよ。 アッハハハハ……」 「バカな。 私は生まれた時から出家で、 名利とは無関係な世界に住んでいるから 運も不運もあるものかね」 「しかし、お師匠さま。 あなたは仏の顔を拝むことはご存じだけれど、 法律についてはあまり明るくないようですね。 頭を丸めた男が妙齢の婦人を連れて旅をするには まだ少々時世が早すぎるんですよ。 もしためにする人があって我々を訴え出たら、 先ずお師匠さまはしばり首、 八戒に沙悟浄は遠島になること請け合いですね」 「人の生命を助けて罰せられるなんて、 そんな話はきいたことがないよ」 「でもね、助けたつもりが 却って仇になることだってありますからね」 「それはまたどういう意味だね?」 「もしあすこへあのまま残しておいたら、 飢え死することはあっても 人間の形は失われないですみます。 しかし、もし我々の一行に加わって、 途中で猛獣に会ったりしたら、 ガブリとやられないとは限りませんよ」 「なるほど。そいつはあり得ないとは言えないぞ。 どうしたらいいだろうか?」 「馬の上に抱きあげて、 二人で相乗りされたらいかがです?」 「まさかね」 三蔵はしばらく考えていたが、 「やっぱり八戒におんぶしてもらうことにしよう」 「おい、八戒。うまい話が舞いこんできたぞ」 と悟空は手を叩いて笑った。 「うまい話って何だい?」 「背中に美人を背負ってさ、 お前のその長い口をうしろに向ければ、 ちょっとした甘い言葉をささやくには もって来いじゃないか」 「駄目だ。駄目だ。お師匠さま」 と八戒は叫んだ。 「たとえお師匠さまに二つ三つ頭をぷんなぐられようとも、 美人の馬になって歩くのは嫌です」 「じゃ仕方がない。 私も馬をおりて皆と一緒に歩こう。 私がゆっくり歩いているのに、 お前らだけさっさと先に行ってしまうことは ないだろうからね」 三蔵はたづなを八戒にわたすと、 自分は下へおりて徒歩で歩き出した。 女もまじえて一行はゆっくりと山をおりて行く。 やがて夕陽が沈みはじめる頃、 一行の行く手に一軒の宏大な楼閣が現われてきた。 「あれはお寺のようだね。 立ちよって一夜の宿をかりるとしよう」 近づいてよくよく見ると、門はかたむき、軒は破れ、 見る影もない廃寺である。 「西方に行くと、 宗教はいや栄えに栄えているときいているのに、 どうしてこんなにさびれた寺があるのだろう」 三蔵は弟子たちを外に待たせたまま、 自分一人で門の中へ入って行った。 見ると、鐘楼は崩れおちて、 錆びた大きな鐘が地面においてある。 その上半分は雪のように白くなっており、 下半分は緑青を吹いて苔の生えたように青くなっている。 「ああ、鐘よ」 と三蔵は思わずつぷやいた。 「鐘よ。鐘よ。誰がために鐘はある、だ」 と、その時、鐘が、「ポーン」と、ひとりでに鳴り出した。 驚いた三蔵はその場でつまずいて倒れた。 「びっくりしないで下さい。今のは私が石を投げたのです」 声のする方をふりかえると、 これはまた化け物のようにどす黒い顔をした寺男である。 「私はこの寺で番をしている年寄りです。 今お迎えに出ようと思ったのですが、 化け物じゃないかしらと思って、 念のために石を投げて見たのです」 「ここはそんなに化け物の多いところなのですか?」 びっくりして三蔵はきいた。 「ええ、山の中には妖怪変化が横行していて、 真昼間から強盗掠奪をほしいままにしています。 それが夜になると、この寺の中にやってくるので、 この通り荒れ放題になっているのです」 「へえ? これが西方の事情なのですか?」 「そうなんです。 東方へ行くと、 人間たちはもう少し仏さまを大事にしているそうですが、 本当でしょうか?」 逆にきかれたので、三蔵はかえす言葉に困って、 いつまでも立ちつくしていた。 |
2001-04-02-MON
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