毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第七巻 道遠しの巻
第七章 色の道は底なし

二 お経より女経


寺の裏手に水の出る炊事場がある。
悟空が鉢を持って、中へ入って行くと、
そこにいた和尚たちは眼を真赤に腫らしたまま
うずくまっていた。
「おい。何だってそんな不景気な面をするんだ?
 俺たちは出発の予定が少し遅れているが、
 発つ時には宿賃くらいのものは
 ちゃんと払って行くつもりなんだから、
 そんな追剥ぎにあったような顔をすることはないよ」
「いやいや。そんなことではございませんのです」
と坊主たちは口々に否定した。
「そんなことでなきゃ、一体何だ?
 俺たちの仲間のあの胃袋の大きな奴、
 あいつに食い倒されてはたまらん、とでもいうのかい?」
「いえいえ。
 ここには坊主が百人あまりおりますが、
 皆働き者ですから、
 一本の腕で一人を養うくらいの能力はあります。
 三人前や五人前食べられたからと言って、
 それで音をあげるわけはございません」
「それじゃどういうわけで泣きっ面をしているんだね?」
「じゃご存じないのですか?」
と坊主たちは逆にききかえした。
「どこから来たのか、
 この寺の中にいま妖怪が忍びこんでいるのです。
 夜分になると、小僧を二鐘つきにやるのですが、
 鐘の音が止むと、
 小僧たちの姿が見えなくなってしまうのです。
 翌朝、さがして見ると、
 帽子と鞋が裏山に投げすててあるだけで、
 本人たちの消息は知れません。
 あなた方がここへおいでになってから、
 ちょうど三日たちますが、
 これで小僧が六人見えなくなってしまいました」
「さてさて。
 そういうことでもあろうかと思っていたが、
 やっぱりそうだったか」

悟空は驚く半面、予想通りだったので、
喜びをかくしきれない。
「ここに来合わせた以上は、
 必ず化け物をつかまえて見せてやる。
 皆の者、安心するがいい」
「ですが、化け物というからには
 超人的な神通力を持っているに違いありません。
 幸いにして、あなた様が徹底的に退治して下さったら
 こんな有難いことはないのですが、
 もし万一取り逃がすようなことがあったら、
 とりかえしがつかないのではないでしょうか?」
「どういう具合にとりかえしがつかないのだ?」
「私どもは人数にすれは、なるほど百人以上もおりますが、
 前にも申しあげましたように、
 幼児から頭を剃って仏門に帰依し、
 暴力団のような手合いと喧嘩をするのは苦手なのです。
 もし万一にも
 私たちがあなた様にお願いしたことがわかったら、
 どんな目にあわされるかわかったものではありません」

それをきくと、悟空は眉をつりあげて声を張りあげた。
「全くお前らのような不見識な奴らには会ったことがない。
 化け物のことばかり頭にこびりついて、
 肝心のこの悟空を知らないとはどういうことだ?」
「実のところ存じあげていないのです」
と坊主たちは平気で答えた。
「知らなきゃ教えてやろう。
 さあ、耳をほじくってきくがいい」
と悟空も負けずに言い出した。
「花栗山で伏虎降竜の勇名をとどろかせたのもこの俺なら、
 天宮へのぼって、太上老君の仙丹をかじったり、
 玉帝の御酒を只飲みしたのもこの俺だ。
 この俺の如意棒を見るがいい。
 化け物たちは俺の名前を聞いただけでも、
 首のつながっているうちに逃げた方がいいとばかりに
 雲を霞の有様さ。
 しかしだ、いくら大言壮語したところで仕方がない。
 論より証拠、俺が化け物を生け捕りにして見せたら、
 お前らも俺の威力がわかるだろうぜ」
「おやおや。何て大きな口を叩く野郎だろうか。
 師匠は癲癇持ちで、
 弟子は精神分裂なんじゃないだろうか」

坊主たちは互いに顔を見合わせて
コソコソささやきあっていたが、老喇鳴嘛僧だけは、
「化け物をとらえて下さるのは有難いけれども、
 お師匠さまのご病気を看病してさしあげる方が
 まず大切です。
 壮士が出陣すれば死なずとも負傷くらいは
 覚悟せねばならないでしょうから、
 お師匠さまにご心配をおかけしないようにして下さい」 
「いや、お説ごもっともです。
 いまお師匠さまに水を持って行きますが、
 すぐ戻ってきますから、そこで待っていて下さい」

悟空は水を鉢に汲みとると、急いで方丈へとんでかえった。
「お師匠さま。冷たい水を持って参りました」

水ときくと、三蔵は頭をもたげて、
悟空のさし出した水を一気に飲みほした。
「時に、悟空や。
 もうこれで何日ここに泊っているのだろうか?」
「ハイ。丸三日になります」
「予定より三日遅れてしまったわけだな」
「三日間くらいの遅れはすぐ取り戻せますよ。
 明日にでも出発すれば……」
「そうだな。
 少し無理かも知れないが、
 明日にも出発することにしようか」
「もし明日出発するとすれば、
 今夜のうちに化け物退治をしておかないと
 間に合いませんね」
「えッ? 何だって?」
「いや、実はこの寺の中に化け物がいるのです。
 出発をする前にそやつをひっとらえてやると
 寺の者に約束をしたのです」
「私はこのとおり病気もまだなおりきれないでいるのに、
 お前はどうしてそんな約束をするんだろう?
 もし化け物が手ごわい奴だったら、
 弱り目に崇り目はこちらだよ」
「おやおや、病気をすると、人間、弱気になるものですね。
 考えても下さいよ、お師匠さま。
 これまでずいぶん長い道のりをやってきましたが、
 ただの一度でも、
 この悟空が弱音を吐いたことがございますか。
 相手にしないということはあっても、
 一旦、手を出す気になって、
 こちらが勝利を譲ったことは
 ただの一度でもございますか」
「しかしね、悟空や」
と三蔵は悟空をさえぎるようにして、
「ならぬ堪忍するが堪忍、というじゃないか。
 世の中の不公平にいちいち嘴を入れていたんでは、
 いくつ身体があってもたりないよ」

三蔵がなかなかウンと言いそうにないのを見ると、
悟空は真相を打ち明けるよりほかないと判断した。
「実は、お師匠さま。
 その化け物はこの寺で人間を食べたんです」
「ぇッ? 人間を食べたって? 誰が食べられたんです?」
「我々がここへ三日間泊っている間に、
 小僧が六人行方不明になってしまいました」
「ああ」
と三蔵は嘆声をあげて、
「小僧も僧なら、私も僧だ。
 同類の難儀をきかされて
 黙って素通りするわけにはいかない。
 その代り、お前も充分気をつけて慎重にやっておくれ」
「なあに、
 お師匠さまは安心してお休みになっておれば結構ですよ」

悟空は八戒と沙悟浄にあとを頼むと、
勇気百倍、嬉々として方丈をとび出した。
天王殿の前までくると、もう陽はとっぷり暮れて、
夜空に星が輝いている。
悟空は揺身一変、十四、五歳の小僧に化けると、
真暗になった天王殿の中へ入って行った。
灯明に火をともし、仏前で木魚を叩きながら、
さて、今か今かと
化け物の現われるのを待っているけれども、
相手はなかなか現れない。

そのうちに夜が更けて、
悟空は退屈そうに大きなあくびをした。
と見よ。
突然、一陣の風が吹きこんできたとたんに、
ふくいくとした麝香の匂いが
殿中に充満してくるではないか。

続いてコツコツと小さな靴の音が近づいてくる。
驚いて顔をあげると、
向うから一人のまぶしいばかりに美しい女が歩いてくる。

悟空は一ぺんに眠気がすっとんでしまったが、
何も気づかないかのように一心不乱に読経をつづけた。
「和尚さん」
と女はそばへよってきて小さな声でささやいた。
しかし、悟空は素知らぬ顔をしてお経を読みつづけている。
「和尚さん、何のお経を読んでいるんですの?」

もう一度、女は話しかけた。
「私に何用です?」
と悟空はききかえした。
「皆が寝しずまっているのに、どうしてそんなところで、
 いつまでもお経を読んだりしているんですの?」
と女はきいた。
「お経を読んじゃいけませんか?」
「そんなことはございませんけれど、
 木石に向ってお経を読んだって
 仕方がないじゃありませんか?
 それよりも別のお経を念じた方が
 気がきいていないこと?」
「別のお経って何ですか?」
「女経っていうの」
「あ、ベストセラーズですね」
と悟空は叫んだ。
「おや、知ってらっしやるのね。
 子供だと思ったけれど、なかなか隅におけないわね」
「そりゃ題名くらいは知っておりますよ。
 僕らにとっては興味津々の題名ですからね。
 しかし、寺の図書室にはあの本が購入されていないので、
 みんな匂いをかぐだけで
 実地に読んだものはございません」
「そうでしょうとも。
 それだから私がここへ来たのです。
 あなたに女経を手ほどきしてさしあげようと思って……」
「へえ?
 じゃあなたはその本をお持ちなんですか?
 見せていただけませんか?」
「ええ、見せてさしあげるわ。
 どうぞご一緒に裏へ行きましょう」
「裏へ行ってどうするんです?」
「どうするって、
 私の顔をごらんになればおわかりになるでしょう」
「ハハン。なるほど人相にはっきり現われていますね」
「おや、あなた人相がわかるの?」
「少しはわかりますよ」
「じゃ教えて。何と出ておりますの?」
「どうもあんまり素行がよろしくないので、
 嫁入先の親御さんから
 追い立てを食ったんじゃありませんか?」
「あたっちゃいないわ。あたらないわ」
と女は声をあげた。
「だけど本当のことを申しましょうか。
 私の素行がよくなかったのじゃなくて、
 私が嫁に行かされた相手があんまり年が若くて、
 洞房花燭の夜に、
 どんなことをするかも知らなかったんですの。
 それで私の方で愛想をつかして
 とび出してしまったんですの……」
「へへへへ……。
 洞房花燭の夜にどんなことをやるのか、
 僕もわかりませんね」
「ですから、私が教えてさしあげますわ。
 こうしてここでお会いしたのも何かのご縁でしょう。
 いっしょに裏の庭でも散歩しましょうよ」
 ハハン……と悟空は頷いた。
 あの愚かな小僧たちは皆、
 色仕掛けにひっかかって一命をとりおとしたんだな。
 しかし、今度はそうは行かないぜ。
「でも、お姉さん、僕なんだか不安だな。
 胸がこうドキドキしてとまってしまいそうだよ」

悟空が実現になって言うと、女は、
「まあ、可愛らしいことをおっしゃるじゃないの。
 だから若い子はやめられないのよ。
 さあ、ご一緒に参りましょう」

向うから手を握ってくるので、
悟空ははずかしそうに女と肩を並べて仏殿を出た。

2001-04-04-WED

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