毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
第七巻 道遠しの巻 第八章 尾花と露 |
一 アナリスト問答 「おい、八戒。 看板は出ているけれども、どこに門があるのか、 さっぱり見当がつかないじゃないか」 と悟空は陥空山無底洞の石柱を見ながら言った。 「そりゃそうさ。 門はこちらです、さあ、どうぞ入って下さい なんていう女はなかなかいないものだよ。 まして相手は女の化け物ときているんだからな」 八戒が答えると、沙悟浄は、 「バカ言うな。 痴漢はおそろしいというけれど、 “女はそれを待っている”という心理もあるんだぜ。 門は必ず遠くないところにあいている筈だよ」 三人があたりを見まわすと、 山のすそのあたりに周囲十幾里もありそうな 大きな岩があって、 その真中にポッカリと穴があいている。 「これだ。これだ。ここが化け物の通り口に違いない」 八戒が叫ぶと、 「うむ。珍しい形の洞門だ。 お師匠さまと一緒に旅をはじめてから、 ずいぶん色んな化け物を生け捕りにしたが、 こんな妖しげな洞窟はまだお目にかかったことがない。 どうだい、お前が先に入って どの程度の深さがあるか偵察してきてくれないか」 「冗談じゃない。 無症洞の中へとびおりたんじゃ、 底につくまでに二年も三年もかかるかも知れないよ」 「まさか。無底洞といったって、 いわずと知れた文学的表現だよ」 「しかし、見てみろよ」 八戒が促すので、 悟空が洞穴の縁に立っておそるおそる覗き込むと、 「ああ、女怪の穴たるや、 我らが雄大なるアナリストをもってしても遠く及ばずだ」 「だからさ、あきらめて引き揚げた方がいいよ。 お師匠さまを助けることなど先ず考えない方が無事だね」 「怠け者は何かというとすぐそんな口をきく。 お前が嫌というならそれでもいいさ。 俺が中へ入って行って見る。 その代り化け物が逃げ出してきたら、にがさないように、 お前と沙悟浄で頑張っていてくれ」 悟空はそういうと、 思い切って洞門の中へ向かって身をひるがえした。 忽ち悟空の姿は二人の眼前から消え失せてしまった。 どのくらい時間がたっただろう。 奈落の底へおちて行く覚悟で、どんどんおりて行くと、 あたりは次第に明るくなって、 もう一つの別天地がひらけてくるではないか。 ここには陽が当り、風がそよぎ、草花や果樹が茂っている。 「ああ。 まるで俺がそのむかし滝の中へおどりこんで 水簾洞を発見した時のようではないか」 悟空はすっかり喜んで、 「人生は遂に勇気ある者のものだな。 見ろよ。 天地のほかに別天地ありだ」 見ると、美しい門楼があって、 奥にはきれいな建物が並んでいる。 「ここが化け物の棲家に違いない。 どんな様子か先ず窺って見よう。 しかし、待てよ。 奴は俺の人相を覚えているから、 ちょっと姿をかえて行かなくっちゃ」 揺身一変、悟空は一匹の蒼蝿に化けると 軽々ととびあがって楼門の上にとまった。 奥には四阿があって、化け物らしき女が坐っている。 「おや。こんな美人だったかな。 林の中で土の中に埋まっていた時とは、 月とスッポンの違いじゃないか」 なるほど目もさめるような絶世の美人である。 女には残酷なほど縁のない悟空が 思わず知らず見惚れていると、 化け物はさくらんぼのような唇をほころばせて、 「さ、早く用意をしてちょうだい。 今夜はあの人と宿願あいかなう日なんだから」 「おやおや。 八戒が嘘八百を並べ立てているのかと思ったら、 こりゃ本当だ」 悟空は驚いて、 「とすると、 お師匠さまはこの館が中のどこかに 押し込められているに違いない。 向うも急ぐなら、こちらも急がなくっちゃ」 悟空は楼門をとび立つと、廊下を通って奥へ入って行った。 見ると、格子戸に三蔵の姿が映っている。 格子の紙を破って中へもぐりこんだ悟空は、 ヒョイと三蔵の頭の上へとまった。 「お師匠さま」 悟空の声をききつけた三蔵は、 「悟空か。早く助け出しておくれ」 「お師匠さま、もう助かりませんよ。 女経の化け物が あなたと永遠の契りをかわそぅと言っております。 もともとお師匠さまは自分の遺志をついで 西方へ行ってくれる人をさがしていたのですから、 二人で二世を生んでその子を行かせるようにされたら いかがでございます?」 「バカをお言いでないよ」 と三歳は歯ぎしりをしながら、 「両界山でお前が私のお供をするようになってから、 お前は一度でも私が淫らな気持を起したのを 見たことがあるかね? もし私が化け物の誘惑に負けて 童貞を失うようなことがあったら、 それこそ地獄の底におちて もう二度と浮かぶ瀬がなくなるだろうよ」 「しかし、そんな考え方は もうだんだん通用しなくなってきましたよ。 我々が大唐国を出発したあの頃は、 男は童貞、女は処女が貴重視されていました。 ところが、西へ西へと進んで行くほどに、 人間の思想は移り変り、 この頃では男が三十をすぎてもなお独身でいるのは、 まあ、何て不潔な人かしら、 という風潮になりつつあります。 お師匠さまも少しは時代に順応するだけの 融通性がないといけませんよ」 「悟空や。お前もずいぶんオトナになったものだね」 三蔵が精一杯の皮肉を言うと、悟空もさすがに照れて、 「お師匠さま。わかりましたよ。 お師匠さまがそんな気持なら、 一緒にここから脱け出すことにしましょう」 「でも、どうやればここから脱け出せるだろうか。 来た道はどこがどこだかさっぱりわからないんだよ」 「お師匠さまもわからないんですか。 そいつは困ったな。 何しろ上へあがろうと思えば、頭を天井にぶっつけるし、 下へ行こうとすれば、穴でも掘らないことには、 どこにも行けないんですよ」 「そいつは困ったな。どうしたらいいだろうか?」 三歳が早くも涙顔になるのを見ると、悟空は、 「大丈夫です。大したことはありません。 どうせ化け物はお師匠さまに酒を飲もうというでしょう。 いやでも、お師匠さまは一杯つきあって下さい。 そして、奴におかえしをして下さい。 そしたら、その時、 私が羽虫に化けて酒と一緒に奴の腹の中にもぐりこんで、 力一杯蹴りとばしてくたばらせてやりますよ」 「どうもあんまり人道的な手段ではないな」 「へえ? 追いつめられるところまで追いつめられても、 まだ人道を云々するのですか。 それじゃ私が奴の口から入るよりも、 お師匠さまが奴の下の道からお入りになって下さい。 恐らくその方が人の道にかなっていることでしょう」 「バカな、バカな」 三蔵は何度も口の中でくりかえしていたが、 「仕方がない。お前の言う通りにすることにしよう」 二人の相談がまだ終るか終らないうちに、 化け物は早くも宴会の準備を終えて、 三蔵を迎えにやってきた。 「和尚さま」 戸口から甘い声で呼びかけるが、奥からは何の答えもない。 「和尚さま」 と化け物はもう一度、やさしい声で呼んだ。 「何でしょうか、お嬢さん」 やっとの思いで三歳は答えた。 たった一言をいうのに、 三蔵は頬の肉がげっそりとおちてしまうような思いがした。 しかし、化け物は三蔵の興奮したような声をきくと、 扉を押しあけて中へ入ってきた。 「さ、あちらに用意ができておりますから、 ご一緒にお酒でもいただきましょう」 「でも、私は生臭はいただかないことになっております」 「承知しておりますわ。 ですから、水だってきれいな水を汲みに、 わざわざ遠くへ行かせたくらいですの」 化け物に手をとられて三蔵は庭へ出てきたが、 見ると果して庭一杯にテーブルが並び、 天下の珍果や精進の類いが山と盛られている。 「どう? これは私の家でも一番古いお酒なんですの」 白い指先でなみなみと注がれ、 目と鼻の先まで持って来られると、 受け取らないわけにも行かなかった。 「ナムアミダ。 もしこのお酒が生臭だったら、 どうぞお許し下さい」 そばで見ていた蒼蝿の悟空は 三蔵の耳の板にひょいととまると、 「お師匠さま。大丈夫ですよ。これは葡萄酒です。 あなたのお好きなポートワインです」 言われてやっと安心した三蔵はクッと飲みほすと、 すぐ杯をかえして、 「さ、あなたも一杯」 三蔵が酒を注いでいる間に、 悟空は素早く一匹の羽虫に化けると、杯の中にとびこんだ。 ところが、杯を受けとっても、化け物はすぐ飲もうとせず、 じっと杯の中を眺めている。 「いけねえ」 それもその筈、 葡萄酒の表面に羽虫が浮びあがってきてしまったからだ。 化け物は指先で羽虫をつまみあげた。 それが悟空であることに気づかなかったのが、 せめてもの幸いである。 化け物はつまみあげた羽虫を爪先でポイとはじいたが、 その途端に悟空は一羽の老鷹に化けた。 そして、突然、大きな羽搏きをしたかと思うと、 そこいらじゅうにあるご馳走を テーブルごとひっくりかえしてしまったのである。 「あれッ。お化け。お化け」 女は自分の何者であるかは忘れて、 思わず三蔵にしがみついた。 「どこからやってきたのかしら。 何だってせっかくの私の苦心を 無にしてしまったのかしら」 三蔵はその理由を知ってはいるけれども、 もとより口に出して言う筈もない。 「わかったわ。 きっと天が私たち二人の結婚に やきもちをやいているのだわ。 こうなったら、私にも考えがある。 天が嫌がるなら嫌がるだけ、 天に仲人の役割をさせてやるわ」 |
2001-04-07-SAT
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