毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
第八巻 ああ世も末の巻 第二章 天竺にもう一歩 |
二 壮士陣ニ臨メバ 戦っている八戒よりも、実は悟空の方が気が気でなかった。 「おい、沙悟浄」 と悟空はこっそり沙悟浄に耳打ちをした。 「さっき八戒をだまして先に行かせたが、 どうもなかなかかえって来ないところを見ると、 化け物に生け捕りにされてしまったのかもしれない。 大方、今頃、俺を呪い続けていることだろう。 ちょっと行って様子を見てくるから、 お前はここでお師匠さまのお守りをしていてくれ」 悟空は毛を一本抜いて、 自分の分身をその場に残しておくと、 自分は空中へとびあがった。 見ると、八戒は周囲を小妖怪どもに取り巻かれて 次第に身動きが出来なくなっている。 「おい。八戒。あわてるな。俺が来ているぞ」 悟空の声援をきいただけで、 八戒は俄かに元気をとり戻した。 モリモリと勇気百倍した八戒の様子に驚いた化け物は、 「おかしな奴だ。 もう参ったかと思ったら、またまた暴れ出したぞ」 「お前に負けてたまるものか。 何をかくそう。 俺の一家の者が加勢にやって来たんだ」 加勢よりも八戒の蛮勇にたじたじとなった化け物は、 脆くも敗れ去って手下を連れて逃げ去ってしまった。 それを見届けた悟空はそのまま雲をおり、 知らぬ顔をして三蔵のそばへ戻っている。 そこへ八戒がフーフー言いながら駈け戻ってきた。 「お師匠さま」 「どうしたんだ? 八戒、そのざまは?」 三蔵がびっくりしていると、八戒は熊手を投げ出して、 「お師匠さま。ひどい目にあってしまいましたよ。 ああ。こんなはずかしい思いをしたのははじめてです」 「どうしたんだね? ゆっくり話しておくれよ」 「悟空兄貴に一杯食わされてしまったのです。 坊主を歓迎してくれるどころか、 坊主をとって食べる専門のお化けが 待ちかまえていたのですよ。 もし兄貴のあの泣き棒が助けに来てくれなかったら、 私が泣かされるところでした」 「でも悟空はずっと私のそばにおりましたよ」 「お師匠さま。 兄貴は身替りをお師匠さまのそばへおいておくことだって 出来るのですよ。 それがおわかりにならないのですか?」 「悟空や」 と三歳は悟空の方をふりかえってきいた。 「一体全体、本当に妖怪がいるのかね?」 これ以上はさすがの悟空もかくしきれなくなって、 「大したことはありませんよ。 それよりも八戒、 俺たちがこうしてお師匠さまをお守りしているのは、 言って見れば、行軍をしているようなものだ」 「だからどうしたというんだね?」 「行軍の時は先鋒というものがあって、 敵がやって着たら素早く破るのが任務だ。 もしお前が化け物を打ち破ることが出来たら、 お前の功労と言っていいだろうな」 言われて八戒はちょっと考えた。 化け物と自分とでは、 腕前の上でそれほどのひらきがあるとは思えない。 とすれば、間違えても 相手に打ち殺されるようなことにはならないだろう。 「わかったよ。 たとえ敵の剣下に討死しようとも、俺は満足だ。 俺が先鋒をうけもつよ」 「さっきは盛んに臆病風を吹かしていたのに、 今度はえらく気の強い話じゃないかい?」 と悟空が笑うと、 「そりゃ、兄貴、諺にも言うじゃないか。 “公子筵ニ登レバ酔ワズトモ飽クホド食ライ、 壮士陣ニ臨メバ死ナズトモ傷ヲ帯ビル”と。 さっきのは冗談で、今度は本気の話さ」 八戒がそう言うので、悟空は喜んで三蔵を馬に乗せると、 八戒を先頭に山の奥めざして進んで行った。 一方、戦いに敗れた化け物は 部下を率いて洞窟へ帰ってきたものの、 鬱々として心が楽しまない。 「いつもご機嫌のよろしい大王が、 今日はまたどうして そんなに浮かぬ顔をしておいでなんですか?」 おそるおそる留守居の小妖怪どもがきくと、 「いつもは大なり小なり収穫かあってかえってくるのに、 今日という今日は 意外な強敵に出食わしてしまったからな」 「強敵ってどんな奴ですか?」 「東土からやってきた三蔵という坊主の弟子で 猪八戒という奴だ。 かねてから三蔵の肉は天下の珍味で、 あれを一口食えば 不老長寿のクスリになるときいていたから、 何とか生け捕りにしようと思ったら、 バカに手ごわい奴が熊手をもってとび出してきて、 生け捕りにするどころか、悪くすると こちらが生け捕りにされかねまじきていたらくさ」 化け物がそう言うと、 群妖の中から一人の小妖怪がとび出してきて、 「オンオンオン」 と三声泣いたかと思うと、続けて 「ワッハハハワッハハハワッハハハ」 と三回笑い声を立てた。 「何だ。泣いた鳥がもう笑ったりしてさ?」 と化け物が怒鳴ると、 「大王に申しあげます。 今、泣いたり笑ったりしたのはほかでもありません。 さっき大王は唐三蔵の肉を食べたいと申されましたが、 唐三蔵の肉は容易なことでは 手に入るものではないのです」 「どうして手に入らないんだ?」 「もし簡単に手に入るものだったら、 そもそもここへ辿りつくまでの間に、 他の化け物たちの手に入ってしまったでしょう。 ここまでこうして無事にやってこられたのは、 あの人に三人の弟子がいるからです」 「ほお。三人もいるのかね?」 「そうです。 一番弟子が孫悟空、二番弟子が猪八戒。 三番弟子が沙悟浄です」 「沙悟浄というのは腕前はどうだね?」 「まあ、猪八戒とどっこいどっこいでしょう」 「じゃ孫悟空は?」 「申し上げない方がいいかも知れません。 それというのも、五百年むかしに天宮荒らしをやって、 二十八宿、九照星、十二元辰、五卿四相、東西星斗、 南北二神、五獄四涜天神将を全部敵にまわしても、 なおひけをとらなかったのはこの男だけだからです」 「ふむ。しかし、お前はどうしてこんなに詳しいのだ?」 「実は私はそのむかし獅駝嶺獅駝洞の親分のところで 使われていたことがございます。 獅駝洞の大王は唐三蔵の肉を食べたいと 野心をおこしたばかりに、 逆に生命をとられてしまいました。 私は素早く逃げ出したので、どうやら生命を助かり、 こうして今、 大王のお世話になることが出来たのでございます」 それをきくと、化け物はすっかり蒼ざめてしまった。 「ですが、大王。怖れることはありませんよ」 と、また別の小妖怪が進み出て言った。 「他人がなかなか手に入れられないものでも 必ず手に入れる人がございます。 これは力の問題ではなくて智慧の問題だからです」 「お前に何かいい考えでもあるのかね?」 「ハイ。私に“分瓣梅花計”というのがございます」 「“分瓣梅花計”とは何だね?」 「洞内の有能な者の中から三人を選び出して、 それに大王と同じ扮装をさせるのです。 そして一人は猪八戒をおびき出し、 一人は孫悟空をおびき出し、 もう一人には沙悟浄をおぴき出させて、 手薄になったところを 大王が自分の手で三蔵を生け捕りにするのです。 勢力を分散させた上で三蔵をつかまえるのは、 嚢中から物を取り出すようなものでございますよ」 「うむ。そいつはいい考えだ。 もしうまく行ったら、お前を前部先鋒に任命してやろう」 そんな謀り宰か行われているとは夢にも知らないから、 三蔵の一行は悠々と進んでいたが、 突然、草叢の中から一人の化け物が 三蔵めがけてとび出してきた。 「それッ。化け物だ。八戒、早く片づけろ」 「よし来た」 八戒は威勢よくとび出して行くと、 またも別の方向からもう一人の化け物が 大きな音を立てて現われた。 「いけねえ。お師匠さま。 どうも八戒の奴が取りにがしたらしい。 私が片づけてきますから待っていて下さい」 悟空は如意棒を握りしめると、 「やい、待て。この泣かせ棒の威力を知らねえか!」 悟空の姿は早くも山の凹みの中に消えて行ったが、 またも同じ化け物がとび出してくるではないか。 「あれあれ、お師匠さま。 兄貴たちは二人ともどうかしていますよ。 こうなったら仕方がない。 私がやっつけてきますから、 馬からおりないようにして下さい」 沙悟浄は宝杖をとりあげると、化け物のあとを追い出した。 あとに残ったのは馬上にしょんぼり坐った 三蔵一人だけである。 中空でじっと様子を窺っていた妖怪はグッと手をのばすと、 なるほど嚢中の物をとり出すように、いともやすやすと、 三蔵の襟をつかんで洞中へ引き揚げてしまったのである。 |
2001-04-16-MON
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