毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第八巻 ああ世も末の巻
第二章 天竺にもう一歩

四 天竺は近づいたけれど


二人が一大猛勇心をふるいおこして洞窟を攻めにかかると、
洞内の者は生きた心地もしなくなった。
「どうしたものだろうか?」
と化け物は先鋒にきいた。

やむを得ず、
化け物は総動員をして一せいに洞門の外へ出た。
「俺たちのお師匠さまをつかまえて行った化け物は
 どいつだ?
 名乗りをあげろ」

悟空が叫ぶと、
「猿智慧坊主。俺を知らねえか。
 俺は南山大王だ」
と化け物も負けずに声を張りあげた。
「南山大王がきいてあきれるぞ。
 孔子様だって夫子としか言わないのに、
 たかだか田舎のチンピラがナンザンとは、
 大方お前のおふくろが帝王切開でもしたんだろう。
 さあ、この痛棒をくらえ」

悟空が如意棒をふりあげると、
化け物も鉄杵をかざして迎え打ってきた。
倍空は軽々と如意棒で受けとめたが、
八戒も負けじと熊手をとり出して
相手かまわず叩き殺している。
しかし、多勢を頼んだ化け物軍は
追っても追ってもまた押しよせてくる。
面倒と見た悟空は脇の毛を一束抜くと息を吹きかけて、
「変れ!」
と叫んだ。
と忽ち幾百の悟空が如意棒をふりあげて
おどりかかって行ったから、
さしもの小妖怪どもも雲を霞と逃げ去ってしまった。

形勢悪しと見た化け物は、
すぐさま霧を吐いて洞内に逃げ込んだ。
悟空と八戒が後を追って行くと、
洞門は既に厳重に戸締りをしているばかりでなく、
石や土が高々と積みあげてある。
「これじゃ手のつけようがないな。
 一先ず沙悟浄のところへ引きあげよう」

二人が墓のところへ戻ると、
沙悟浄はまだ目を真赤にして泣き続けている。
八戒も急に悲しくなって、
「ああ。お師匠さま。
 私は財産分けをして
 中途から帰ることばかり申しましたが、
 こうなって見ると、やっぱり天竺へ行きたい。
 早く早くもう一度もとの姿になって戻ってきて下さい」
「泣いたって死んだ人はかえって来ないよ。
 それよりも洞窟の前門が駄目なら後門がある筈だから、
 俺がもう一度見に行ってくる」
と悟空は言った。
「行くのはいいけれど、くれぐれも気をつけてくれよ、
 兄貴まで生け捕りにされた日にゃ、
 それこそ泣くに涙がなくなってしまうからな」
「なあに。
 俺には考えがあるから心配するな」

悟空は如意棒を蔵いこむと、山の裏側へ出た。
と、どこからともなく水の音がきこえてくる。
仔細に見ると、川が流れていて、
流れのそばに小さな門があった。
門はこれまた堅く閉ざされているが、
門の左側に小さな溝かあって
そこから洞内の水が流れ出ている。
「ハハン。ここが後門だな。
 よし、あの溝の中から奥へもぐり込んで見よう」

悟空は一匹のドプ鼠に化けると、素早く洞内へ忍び込んだ。
すぐ溝の中から顔を出して見ると、
陽のあたるところで
小妖怪たちが人肉らしきものを干している。
「あれはお師匠さまの肉の剰り物かも知れんな。
 畜生奴。
 叩き殺してやるのは簡単だが、
 もっと様子をさぐってからでも遅くない」

溝からとび出した悟空は揺身一変、
一匹の羽蟻に化けると音もなく部屋の中へとんで行った。
折しもそこへ小妖怪がとんで入ってきた。
「大王。お喜び申しあげます」
「何が喜ばしいんだね?」
と大王がきいた。
「さっき三人のあとをつけさせたのですよ。
 そしたら、
 墓を前にして三人で大声をあげて泣いておりました。
 どうやら今度はうまくだましおおせたようでございます」

きいていた悟空は思わず笑いがこみあげてきた。
「話の様子だと、お師匠さまはまだ生きているらしいぞ。
 どこにいるか、早く探し出さなくちゃ」

早速、家の中をあちこち飛んでまわったが、
一箇所だけ鍵をしめたところがある。
隙間から這い出して見ると、そこは裏庭になっていて、
どこからともなく人の唸り声がきこえてくる。
よくよく見ると大きな樹があって、
そこに人間が二人ぶらさがっているではないか。
「お師匠さま。
 生きていてくれましたか」
「おお。悟空じゃないか。
 早く、早く助けておくれ」
「あんまり大きな声を立てないで下さい。
 化け物があなたを蒸してしまったと言うものだから、
 もう生きていないものだとばかり思っていました。
 でも本当によかった。
 今から化け物をやっつけて来ますから、
 そのままもうしばらく辛抱して下さい」

悟空はもう一度、家の中へ舞い戻った。
大部屋の中では小妖経たちが大声をあげて
盛んに議論をしている。
「料理にするなら、細かく刻んで炒めた方がいいですよ」
「いやいや。蒸し物が味は一番です」
「しかし、煮物にした方が薪の倹約になると思うな」

何を言っているのかと思ったら、
三蔵を料理する話だったから、
カッとなった悟空は
一束の毛を抜きとって口中でかみくだき、
ぷっと吹き出すと、無数の催眠虫が現われた。
催眠虫は忽ち
居並ぷ化け物たちの鼻の中へもぐり込んだから、
妖怪をはじめ、
その場の者は悉くあくびをして眠りこくってしまった。

その間に、
悟空は本相を現わして裏庭から三蔵を救い出した。
「お願いです。私も助けて下さい」
ともう一人の男が言った。
「あれは誰ですか?」
と悟空はきいた。
「あれは私の来る三日前に連れて来られた樵夫だよ。
 家に年とったお母さんがいて、
 自分が死んだらあとの面倒を見る人がいないと言って
 泣き通しだった。
 可哀そうだから、一緒に助けておあげ」

悟空は言われた通り樵夫の縄もといてやり、
一緒に裏門から外へ出た。
「八戒と沙悟浄はどこにいます?」
「二人ともまだあなたのお墓のそばで泣いている筈ですよ。
 お師匠さまから声をかけてみてやって下さい」
「八戒。八戒」

三蔵が大声で呼ぶと、八戒は鼻水をかみながら、
「お師匠さまの霊魂が戻って来たらしいよ。
 俺の名前を呼んでいるのがきこえないかい?」
「何が霊魂なものか!
 お師匠さまがそこにおいでになるじゃないか」
と悟空が怒鳴った。

沙悟浄は三蔵の姿を認めると急いでそばへとんできた。
八戒はと見ると、熊手をふりあげて
折角出来あがった墓を壊しにかかっている。
「こん畜生。
 どこの馬の骨かわからない奴に
 俺が何で泣いて供養をしてやる義理があるんだ?」
「まあまあそう言わないで手厚く弔っておやり。
 私の身代りになってくれた首なんだから」

言われて八戒はもう一度生首をもと通り埋めてやった。

八戒と悟空はそれから洞窟の中へ押し入って、
化け物を一人残らず叩き殺した。
死んで本相を現わした南山大王はと見ると、
一匹の花皮豹子である。
「老虎も豹には敵わないと言うからな。
 これでこれからこの道を通る人も安心だろう」

二人は柴や薪に火をつけて洞窟を焼き払うと、
三蔵を馬に乗せた。
「私の家はここから西南へ行ったところにございます。
 見すぼらしいところですが、
 ちょっとお寄りいただけませんでしょうか」
と樵夫が言った。
「それじゃ一緒に歩いて行こう。
 私もここのところ運動不足だから、
 少しぶらぶらした方がよさそうだ」

三蔵は一旦乗った馬からわざわざおりて一緒に道を歩いた。
何日たってもかえって来なかった息子を、
老母がどんなに喜んで迎えたことであろうか。
その夜は樵夫の家で手厚いもてなしを受け、
翌日は広い道のあるところまで樵実に案内されて出た。
「ここから千里も行けば、天竺国へ着く筈でございます」
と樵実は言った。
「すると、もう天竺は近いのですね」
「そうです」
「それにしては、
 我々が今までやって来たところと
 あんまり変り映えがしないな」

不満そうに八戒が鼻を鳴らした。

2001-04-18-WED

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