毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第八巻 ああ世も末の巻
第五章 世は観光ブーム

一 油まつり


さて、玉華県をあとにした三蔵の一行は、
五、六日ほども旅を続けているうちに、
またも賑やかなし街へ入ってきた。
「ここはどこだろうか?」

三歳がきくと、悟空は、
「おかしなところですね。
 入口に旗も看板も見えませんでしたから、
 どこかそのへんできいて見ましょう」

まだ街はずれなのに早くもバアや喫茶店が軒を並べていて、
真昼問から大へんな賑わい方である。
ふと見ると、派手な恰好をしたチンピラどもが
物珍しそうにこちらを眺めているので、
三蔵は言いがかりをつけられるのを怖れて、
「行こう。行こう。
 もう少し行けば、きっとわかるよ」
更に通りを三つ四つ横切ったが、
城門にさしかからないうちに、立派な山門が見えてきた。
頭をあげると、門の上に「慈雲寺」と書いてある。
「ここでしばらく休ませてもらうことにしようか」

三蔵が言うと、
「ええ、それがいいですね」
と皆が賛成した。

四人が打ち揃って奥へ入ると、
廊下の向うから和尚が一人歩いて出てきた。
「皆さま、どちらからおいででございますか?」
「私どもは中華の大唐国から参りました」

三蔵が答えると、
和尚はその場に両膝をついて額を地面にこすりつけた。
「これはまたどういぅわけでございますか?
 さあ、どうぞお立ちになって下さい」

驚いて三蔵が手をさしのべると、
「中華といえば、
 この世の文明の粋を集めた国だそうではございませんか?
 この土地の人たちは、
 来世こそはかの地に生まれたいものと
 心からお祈りしているのでございます。
 こうして私が老師にお目にかかれるのも、
 仏のお引き合わせによるものに相違ございません」
「仏さまのお引き合わせに相違はございませんが……」
と三蔵は笑いながら、
「私はただの行脚僧で、
 お住職さんから有難がられるような者ではございません。
 それよりも先ず仏さまを拝ませていただきとう存じます」

正殿に案内されて仏像を拝んでから、
三蔵は三人の徒弟を呼んだ。
住職は外から入ってきた三人を見ると、
びっくり仰天して、
「この方々も中華から遥々おいででございますか」
「ずいぷん醜男揃いでございましょう?
 でも、ご安心なすって下さい。
 顔形はまずくても気はやさしくて
 至って力持ちの男伊達ですから」
と三蔵が先まわりをして言った。
そこへ奥から和尚たちがゾロゾロ出てきた。
「この方は中華大唐からおいでになられたお方で、
 このお三人さんはお弟子さんです」
と住職が代って紹介した。
「へーえ? 中華大唐からですって?
 こんな遠くまで何をしにおいでになったのですか?」
と和尚たちは好奇の眼を見張った。
「大唐国王のご命令で、
 霊山へお経をいただきに参ったのです」
「お経ですって?
 観光でなくってお経をとりにいらっしゃったのですか?」
「え? 何ですって?」
と三蔵の方でびっくりしてききかえした。
「いえ、今は観光シーズンも終わった筈なのに、
 と思ったのですよ」
「いえいえ、冗談ではありません。
 私どもは思想の混乱から民衆を救うために
 霊山へお使いに参ったのでございます」
「へーえ」
と今度こそは和尚たちも口をあんぐりあけたまま、
しばらく物も言えずにいる。
今時、こんな大時代な考え方でやって来る人間など
絶えてなくなっていたからである。

しかし、三蔵は相手の思惑など一向に構わず、
「ここは何というところでございますか?
 ここから霊山までどのくらいの距離がありますか?」
「ここは天竺国の外郡で、
 金平府というところでございます。
 ここから都までは二千里ばかりありますが、
 さて、都から霊山までにどのくらいでしょうか?
 何しろ行って見たことがないものですから……」
「こんな近くにいて、
 どうしておいでにならないのですか?」
「そうきかれると返事に困りますが、
 私たちが興味を持っているのは、
 霊山よりも大唐国でございますよ。
 きくところによると、
 大唐国にはカーストなんてものがなくて、
 水呑百姓の小倅でも試験にうかりさえすれば
 高位高官に出世できるそうじゃありませんか?
 こちらではどの家に生まれるかによって
 一生のコースがきまってしまいますが、
 インテリが出世できる社会制圧が東方にあるときいて、
 皆、来世は大唐国に生まれ合わせたいと
 申しておるんですよ」

話が逆だから、三蔵は眼をパチクリさせている。
お精進をご馳走になり、お茶がすむと、
三蔵はすぐにも出発の準備にかかった。
「まあ、そうお急ぎにならなくとも、
 もう、二、三日お泊まりになって
 元宵節をおくられては如何でございますか?」
と和尚たちはひきとめにかかった。
「おや、おや。もう元宵ですか?
 どうも山や河やお化けにばかり気を奪われて、
 暦がいつになっているのか、
 さっぱり気がつきませんでしたが……」
「ホトケ呆けしたんですかね、アッハハハハ……」
と和尚たちは笑いながら、
「今日は正月の十三日ですよ。
 明晩から灯をともしはじめて明後日が上元、
 それから十八、九日頃まで灯をともし続けます。
 ここのお祭りは天竺三大祭りの一つに数えられ、
 全国各地から見物客が集まって参ります。
 せっかく通りかかられたのですから、
 是非もう二、三日お泊りになって下さい」

しきりにすすめるので、三蔵はやむなく旅装をといた。

その夜、仏殿では鐘や太鼓を叩く音もかしましく、
提灯を献ずる人々の行列が陸続と続いている。
三蔵は方丈を出てその様子を見物していたが、
いつ果てるとも知れないので、
夜明け近くなつてから床に就いた。
次の朝、食事を終えてから、寺の裏庭へ出て見ると、
ここはよく手入れの行き届いた素晴しい庭園である。
「きれいですね。
 これだけ広いところを
 こんなに落葉一枚見えないようにするのは
 大へんなことでしょうね」

三蔵がしきりに感心していると、
「そうなんですよ。
 数年前までは草茫々で全く手もつけられませんでした。
 幸い、当地の太守が観光政策に理解があって
 拝観料を徴収することを許可してくれたので、
 やっと息をつくことが出来るようになったのです」
「すると、昨夜押しかけてきたあの人たちは、
 一人一人拝観料を払ってから
 お寺に入っているのですか?」
「そうですよ。
 拝観料とお賽銭とお札の売上げが
 お寺の収入になっているのです。
 近年は修学旅行や団体のお客さんがふえて
 ウィークデイでもかなり入りがふえましたから、
 結構ショウバイになっています」
「ヘーえ」
と三蔵は感心するばかりで次の言葉も出て来ない。

また一日明けて、いよいよ十五日の宵になった。
「寺の灯明ばかり見ていても仕様がありませんから、
 今夜は街の明りを見物に行きましょうか?」
「いいですね」

三蔵は二つ退市で誘いに応じた。

三人の弟子たちと寺の坊主たちに伴われて
街へ入って行くと、
街路という街路は色とりどりの明りがともり、
川っぷちも橋の上も行きかう人々が溢れるばかり。
妓楼の窓から流れる歌声をきいていると、

   錦繍場中唱彩蓮(ごてんのなかにうたごえあふれ)
   太平境内簇人煙(よはたいへいのはらづつみ)
   燈明月皎元宵夜(つきとあかりのげんしょうのよい)
   雨順風調大有年(こいねがわくばことしもほうねん)

という詩が思い出されてくる。

三蔵の一行は、うかれはしゃぐ人々の波にもまれて
金燈橋の上までやってきた。
すると、突然どこからともなく強烈な芳香が鼻をついた。
見ると、橋の上に三つの明りが煌々と輝いている。
その明りは一つが水缸ほどの大きさもあって、
匂いはどうやらそこから発してくるものらしい。
「あれは何ですか?」
と三蔵はきいた。
「あれがここの名物です。
 明りは普通の油でなくて、酥合香油です」
「酥合番油といえば、
 一番高級なお菓子をつくる時に使う油じゃないですか?」
と八戒がちょっかいを出した。
「そうなんです。
 値段もべらぼうに高く、
 十匁で銀二両はしますから、一斤が三十二両、
 この三つの明りは一つが五百斤消耗しますから、
 三晩つけっぱなししにしただけで、
 四万八千両の大枚が煙になってしまいます」
「たった三晩だけで、そんなに油を使うものかな?」
と悟空が首をかしげた。
「ハイ、それというのも、
 一つの明りに四十九個も芯がついているのです。
 その一本の芯の太さがそれぞれ卵ほどもございます。
 これを三日三晩つけっぱなしにしておくと、
 最後の夜に仏さまが現身を現わし、
 やがて油がつきて灯が消えてしまうのです」
「ハッハハハ……。
 大方、仏さまが油をポケットに入れてかえるんだろうよ」

八戒が冗談を言うと、
「それがその通りなんです。
 土地には古くから色々の言い伝えがありますが、
 油がなくなると、仏さまが油をお収めになった、
 これで今年も豊年だろうと言われております。
 もし油が残るようなことがあると、
 その年は旱魃になったり、洪水になったりするので、
 皆は油が残るよりカラカラになるのを喜ぶのです」
「油をしぼられてそれで喜ぶ風習があるとは、
 世間も広いものだな」

沙悟浄がそう言うと、
折しもヒューヒューと風が鳴り出した。
金燈を見に来ていた人は、一せいに散らばりはじめた。
「かえりましょう。
 仏さまがおいでになったようですから」

坊主たちはしきりに気をもんでいる。
「仏さまがおいでになったとは、
 またどういうわけですか?」
と三蔵はきいた。
「毎年のことですが、十二時近くなると、
 仏さまの来る前ぶれに風が吹きはじめるのです。
 そうすると人々は急いでかえってしまいます」
「私は仏さまを拝みたいばかりに
 遙々遠くからやってきた者なんですよ」
と三蔵は少しも騒がずに言った。
「幸いに、今夜、仏さまが姿をお現わしになるのなら、
 是非とも一目拝ましていただきたいと思います」

いくら袖をひっぱっても、ガンとして応じない。
そのうちに風の中から三人の仏がヌッと姿を現わして、
明りのそばへ近づいた。
三蔵はあわてて橋のたもとに両膝をついた。
そばで見ていた悟空は、
「お師匠さま。
 あれは仏ではなくて妖怪らしいですよ。
 頭をさげることはありません」

急いで三蔵を抱き起こそうとしたが、
パッと明りが消えてあたりは真暗闇になった。
その隙に、三蔵の身体は悟空の手を離れて、
いずこへともなく消え失せてしまっていた。

2001-04-27-FRI

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