毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第八巻 ああ世も末の巻
第六章 恋の恨みは長し

一 宿坊は長し


金平府の人氏たちは大減税の恩典に浴したので、
三蔵の一行をまるで生き神様のごとく有難がり、
あの家でもこの家でも盛んにご馳走攻めにした。

さしも食いしん坊で天下に名を馳せた八戒も、
すっかり満足を覚えた様子で、三蔵が旅支度を命ずると、
「やれやれ。
 二百四十軒からの招待を
 やっと三十軒まわったばかりなのに、
 またしても飢餓の旅か」
とぶつぶつ言いながらも、
素直こ荷物の取り片づけにかかった。

一行は慈雲寺をあとにすると、
およそ半カ月も無事平穏な旅を続けた。
ところが、或る日、またしても高い山に行く手を遮られた。
「あれッ。また頭の痛いのにぶっつかったよ」
と三蔵がまっさきに弱音を吐いた。
「ハッハハハハ……。
 ここは仏さまの縄張りに近いんだから、
 まさか化け物は出ないと思いますがね」
と悟空が笑った。
「でもね、この間の坊さんたちの話だと、
 天竺国までまだ二千里はあると言っていたからね」
「距離は問題ではくて、心掛けの問題ですよ」
と悟空はやりかえした。
「どうやらお師匠さまはまたしても
 烏巣禅師の般若心経をお忘れになられたようですね」
「般若心経は私の記憶装置に正確に録音されているから、
 忘れる筈がないよ。
 一行一句、
 いつだって立ちどころに暗誦することが出来る!」
「暗誦出来るということと、
 理解しているということとはまた別ですからね」
「大分、話が理窟っぽくなってきたね。
 すると、お前は理解してるとでも思っているのか」
「まあね、お師匠さまよりはましかしら
 と思うことがあるだけのことですよ」

三蔵は思わず口をつぐんでしまったが、
はたできいていた八戒と沙悟浄が笑いころげてしまった。
「口は重宝なものじゃないか。
 釈迦に説法というけれど、
 身のほど知らぬ大風呂敷をひろげたからには、
 ひとつ兄貴の説法をきかしてもらおうじゃないか」

八戒が言うと、沙悟浄は、
「説法じゃなくて、説棒だろう。
 棒の使い方なら、
 兄貴も一家言なかるべからざるところだものね」
「いやいや。
 悟空の言っていることは本当だよ。
 念ずるということは
 必ずしも理解しているということではないからね」

以外にも意外にも三蔵が悟空の肩を持ったので、
この話は簡単にケリがついた。
しばらく行くと、道端に大きな寺が見えてきた。
「ずいぶん年代のたったお寺だね。
 おや、布金禅寺と書いてあるよ」

三蔵が言うと、
「なるほど、布金禅寺だ」
「布金? 布金?
 きいたことのある名前だな。
 もしかしたら、ここは舎衛国の国境ではないだろうか?」
「お師匠さま、不思議なこともあるものですね」
と八戒はニヤ二ヤしながら、
「何年来というもの、
 お師匠さまと一緒に旅を続けてきましたが、
 お師匠さまが方向感覚をお持ちとは知りませんでしたよ」
「いやいや。そうではないのだ。
 お経を読んでいると、
 仏さまが舎衛城の祇樹給孤園に
 おいでになったという故事が出てくる。
 たしか給孤独長者が祇園を買って
 仏さまに経典の講義をしてもらおうとしたら、
 持主の太子が黄金の敷き瓦で庭を一杯にしてくれなければ
 売るわけに行かんと言った、
 そしたら長老が立ちどころに黄金の敷き瓦を敷いた、
 という話が出てくる。
 布金寺という名前を見ていたら、
 それを思い出したんだよ」
「へえ? そいつは本当ですか。
 もし本当にそうなら、
 瓦を堀りに入って見ようじゃありませんか?」

八戒が言うと、
「バカ言うな。
 祇園は金を掘るどころか、
 金をしぼられに行くところじゃないか」

四人が冗談をとばしながら、山門をくぐると、
奥から一人の禅坊主が出てきた。
見ると、なかなか立派な風貌をしている。

三蔵が両手を合わせると、相手もあわてて合掌しながら、
「どちらからお見えになられたお方でございましょうか?」
「はい、私は陳玄奘と申しまして、
 大唐国皇帝の聖旨を受けて
 西天へお経をとりこ参る者でございます。
 途次、ここを通りましたので
 一夜のお宿をお借り出来たらと思って
 お願いにあがったのでございます」
「東土の長老様とはお珍しい。さあ、どうぞどうぞ」

案内されて方丈へ入ると、東土の人ときいて、
寺中の者が大小を問わず見物に出て来た。
これではどちらが見物人なのかわからない。
「布金寺というのは、もしや
 舎衛国の給孤独園寺ではございませんでしょうか?」
と三蔵がきいた。
「よおくご存じですね」
と相手の方が驚いて、
「ここはおっしゃるような名前の寺で、
 又の名が祇園、
 しかし、金の敷き瓦の方が有名なので
 現在では布金寺と呼ばれております。
 ここから一望千里に見えるのが舎衛国てございます」
「名前の通りだとすると、
 今でも金の敷き瓦があるのですか?」
「いえ、あれは伝説なんですよ。
 むかしは本当にそういうことがあったらしいですが、
 今に金の瓦どころか、寺を復原する費用を
 見物人の方からご寄進願っているような有様で」
「どうせそんなことだろうと思ってましたよ」
と八戒は笑いながら
「祇園と名がついて、タダで帰れる筈がありませんからね。
 しかし、そう言えば、
 さっきここへ入ってくる廊下の両側に
 さかさくらげみたいな建物が並んでおりましたね。
 お寺で温泉宿も経営しておいでなんですか?」
「いえ、まあ、宿というほどではございませんが、
 ここは百脚山と申しまして
 交通の要所になっておりまして、
 諸国の承認が通るのです。
 ところが近年、天候不順なせいか、
 むかでの精が棲みつくようになり、
 夜中に山を通る人がなくなってしまいました。
 夕方になって寺に辿りついた人々が
 どうしても庇をかしていただきたいと申すものですから、
 人を泊める用意をするようになり、
 とうとう宿坊が本堂よりも
 繁盛するようになったのですよ」
「教義は短く宿坊は長し……か。
 でも、むかでのおかげで
 お寺が息を吹きかえしたのですから結構な話ですね」

八戒が笑うと、
「むかでは有難いですが、
 税務署という有難くないのがあるのですよ。
 もともと人助けのために始めたことだし、
 宿賃だってクーポン券並みしかいただいてないのに、
 税務署では観光旅館並みの税金をかけるといって
 騒いでいるのです」
「そんなこととは存じませんでしたが、
 私たちもクーポン客並みの待遇で結構でございますから、
 是非一晩泊めていただきたく存じます」

三蔵が頭を下げると、
「いやいや。
 同業者ですから、
 お金の心配はなさらなくてもよろしゅうございますよ」

その夜、食事の終わったあとで、
三蔵は悟空を連れて庭へ出た。
ちょうど明るい月夜で、
あたりはシンとしずまりかえっていた。

二人がぶらぶら歩いていると、寺男がやって来て、
「私どもの老師がご挨拶がしたいと申しております」

言われて、三蔵がふりかえると、手に竹杖を握った老僧が、
「そちらが中華の国からお見えになられた
 老師でございますか?」
「ハイ。お世話になっております」
と恐縮して三蔵が挨拶をかえした。
「遠くからよくこんなところまでおいでになられましたね。
 お年はいくつでございますか?」
「明けて四十五歳になります。
 失礼ですが、ご老体はおいくつになられますか?」
「ハッハハハ……。
 ちょうどあなたより六十年は余計に
 飯を食べて来た勘定になります」
「とすると、百五歳ですか?」
と悟空はききかえした。
「じゃこの私はいくつくらいに見えますか?」
「さあ、この年では眼もよく見えませんし、
 まして月の夜では、ちょっと見当がつきかねますな」

しばらく話をしているうちに、三蔵は思い出したように、
「時に、ここは給孤園の跡ときいておりましたが……」
「ええ、裏門を出たところがそうですよ」

老僧が先に立って裏門をあけた。
見ると、一片の空き地に崩れた石畳が続いている。
うたた荒涼の感に打たれながら、三蔵が歩いていると、
どこからともなく人の泣く声がきこえてきた。
「あれは何ですか?」
とびっくりして三蔵がきいた。
「他人には申しあげられないことですが、
 お二人に是非ご相談にのっていただきたいことが
 あるのです」
「どういうことでございましょうか?」
「話は去年の今夜にさかのぼります。
 あの時もちょうど今夜のようなきれいな月夜でした。
 私がここを歩いていると、突然、一陣の風が吹いてきて、
 祇園の礎石の上に、一人の若い女を運んできたのです。
 びっくりして私が
 “あなたはどなたです?
  どうしてこんなところへ来たのです?”
 ときいたら、女は
 “私は天竺国王の娘です。
  月がきれいなので、花を見に庭へおりていたら、
  どういうわけか風にさらわれて
  ここへ連れて来られたのです”
 “そいつは大へんだ、これは何かわけがあるに違いない、
  人に知られたら、生命にかかわるかもしれないから、
  身分を明かさないようにして下さい”
 私はそう言って空いている部屋に女を入れ、坊主たちには
 “化け物をとじこめておいたから近づかないように”
 と注意して日に二度の食事だけは
 さし入れるようにしておきました。
 女の方でも、私の意図がわかったのでしょう、
 キチガイのような風体をして
 人を近づけないように用心しています。
 でも夜中になると、肉親のことを思い出して、
 それでああして泣いているのではないかと思います」
「お伽話にでも出てくるような話だな」

悟空が言うと、
「そうおっしゃられてもやむを得ない話ですが、
 こうしてここへあなた方がおいでになられたのも
 何かのご縁でしょう。
 どうぞお心にとめおかれて、
 これから天竺国にお入りになられたら、
 真偽のほどをつきとめていただきたいのです」
「よくわかりました。
 ご希望に添えるかどうかはわかりませんが、
 出来るだけお力になってさしあげたいと思います」

三蔵は快く承知した。

2001-05-01-TUE

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