毎日読む小説「西遊記」
(邱永漢・著)
第八巻 ああ世も末の巻
第六章 恋の恨みは長し

四 四十五歳の童貞


さて、三、四日はあえなくすぎて、
婚礼の当日がやって来た。

国王が準備万端整った旨、
報告を受けているところへ、奥から、
「皇后さまがお呼びでございます」
と知らせがあった。

国王が急いで奥へ行くと、
皇后が王女や腰元たちと一緒に迎えに出て来た。
「父君さま」
と王女は国王のそばへ駈けよって、
「お願いが一つございます。
 おききいれ願えるでしょうか?」
「どういうことかね?」
「ほかでもございません。
 三蔵さまのあの三人のお弟子、
 あれは見ているだけで気分が悪くなってきますので、
 一日も早くこの国から
 出て行ってもらえないでしょうか?」
「そうそう。
 お前に言われなければ、うっかり忘れるところだったが、
 人相が悪いばかりか、礼儀作法もわきまえない奴らだ。
 きょうにも、関文に査証をあたえて、
 披露宴のはじまる前に、
 この国から出て行ってもらうことにしよう」

国王ほ御殿にかえると、
早速、三蔵の一行を呼びにやらせた。
「それ来た」
と悟空は言った。
「行かない先からわかったことだが、
 どうせ俺たちにこの国から出て行けといぅ話だよ」
「出て行けというからにはお餞別があるだろう。
 黄金白銀の千両ももらえば、
 女房の家へ戻っても申しわけが立つというものだよ」

四人が御殿に行くと、
はたして国王は三人をお側近く呼んで、
関文をさし出すようにと言った。
見ると、傍らに黄金十錠と白銀二十錠が積んである。
八戒はお金を見ると、すぐに手を出した。
悟空は三蔵の手に合図すると、
「ではお師匠さま。
 私たちだけでお経をとりに行って参ります」
「お前ら、本当に私をここに残して行くつもりか!」
「どうぞゆっくりしていて下さい。
 帰りにはまた必ずおより致しますから」

いくら合図をしても、三蔵はなかなか手を放さない。
その有様は十数年、苦労を共にしてきた師弟が
別れを惜しんでいる姿として周囲の者の眼に映った。

やがて三人の徒弟は宮門の外へ出た。
「本当にこのまま行ってしまってもいいのかい?」
と八戒がきいた。
悟空は黙っていたが、会同館に戻ると、
「お前ら、ここで待っていてくれ、
 俺はお師匠さまのところへ様子を見に行ってくる」

揺身一変、一匹の蜜蜂に姿を変えると、
悟空は今来た道を舞い戻って、
御殿に忍び込んで行った。
「陛下。鵲宮の用意が整いました。
 洋接、お待ちかねでございます」

国王が立ちあがると、三蔵は愁い顔でそのあとに続く。
「万歳」
「万々歳」

歓呼の声に迎えられて、一同は鵲宮へ入った。
三蔵がおろおろしていると、悟空は見るに見かねて、
「お師匠さま。私ですよ」
「おお、悟空か」
「王女は偽物ですよ」
「偽物なら本相を現わさせる方法はないのか?」
「いくらでもあります。
 皆の面前で化けの皮を剥いでやりましょう」
「いけないいけない。
 女子供の前でそんなことをしちゃ」

しかし、セッカチ猿は三蔵のとめるのもきかず、
自分が先に本相を現すと、
「やい、男たらしの化け物。
 せっかく四十五歳まで童貞を守り通してきた
 俺の師匠をたぶらかすとは、どうしたことか」

いきなり王女の胸倉をつかまえにかかったから、
満場は大騒ぎになった。
三蔵は色を失って、
「陛下。びっくりしないで下さい。
 あれは私の弟子が
 ニセモノとホソモノの識別をしているところですから」

だが、それより先に形勢不利と見た化け物は
着ていた衣裳やアクセサリーをかなぐりすてると、
御苑の中にある土地廟にかけこんで
杵の形をした短棍をもち出してきた。

殿中は忽ち一大戦場と化した。
皇后や侍女たちはおろおろしたり、
悲鳴をあげたりしていたが、
「ベッドの中じゃあるまいし、
 王女さまがヌードで戦う筈がない。
 やはり化け物だ」

言われて人々はようやく落着きを取り戻した。

悟空は如意棒を握りしめると、
化け物の短棍に立ち向って行った。
化け物はかなわじと見ると、
一陣の清風と化して、上空へ向って逃げ出し、
あっという間に西天門に近づいた。
「おい。門番。化け物を入れるな」

斉天大聖の声をきいて、
門内から護国天王が他の天師たちと一緒にとび出してきた。
逃げ路を失った化け物は短棍をにぎりなおすと、
やけのやん八で悟空に立ち向ってきた。
「生命のある中に、降参した方が身のためだぞ」

悟空が怒鳴ると、
「馬丁くんだりに頭をさげてたまるか!」
「おや、俺のことをご存じだと見えるね。
 それなら、なおさらのことじゃないか」

悟空は如意棒をふりかざしながら、
一歩一歩と相手を追いつめて行った。
あわやというところで、化け物の姿は再びかき消え、
南の方へ逃げ出した。
悟空がなおも追跡して行くと、忽ち大きな山にぶつかった。
化け物は山の中のある洞窟の中に逃げ込んだ様子である。

悟空は呪文を唱えると、山神土地神を呼び出した。
「ここはどこだ? 何という化け物の選挙区だ?」
「ここは毛穎山といって、兎の穴はありますが、
 虎や狼の住んでいる様子はございません」
「しかし、化け物は確かにここへ逃げ込んだぞ」

山神土地神が悟空を案内して、穴をさがしに出かけると、
一番頂きの穴を大きな石でふさいであった。

悟空が石を蹴とばすと、
化け物は短棍を握っていきなりとび出してきた。

もうあたりは暗くなりかかっている。
悟空があせって一気に勝負をつけようとしていると、
夕空から、
「大聖、ちょっと待って下さい」

ふと顔をあげると、
太上陰君が娥仙子を連れてそこに立っている。
「おや、お月さまではありませんか?
 今頃、どちらへおいでです」
「お前さんの相手になっている化物は、
 私の広寒宮で仙薬をついている玉兎ですよ。
 私の眼を盗んで下界へおりてきたのですが、
 今日、災難に会うめぐりあわせなので、
 助けにきてやったのです。
 どうか、私の顔に免じて許してあげて下さい」
「お月さまに頼まれると弱いですね。
 しかし、お月さまの兎が
 なんでまた私の師匠の童貞を狙ったりするのですかね?」
「国王の王女さんは本当は蟾宮の素娥なんですよ。
 十八年前に兎の奴が言い寄って
 平手打ちをくらったのです。
 それを深く根にもって
 恋の恨みを下界で晴らそうとしたのです」
「待って下さいよ。
 蟾宮のお姫さまに言いよった兎なら
 セックスは男ではないのですか?」
「この頃は、男も女もないのですよ。
 町を歩いている人々を見てごらんなさい。
 男が青や紅を着て、女がスラックスを穿き、
 逆さにしてみなければ、
 セックスもさだかでない世の中になったのです」
「それにしても、ずいぶんルナチックな世相ですな。
 お月さまの顔を見ていると、
 私までが少々変になってきますよ。
 ただ私はよろしいとしても、
 天竺国の国王や皇后に
 事の経過を納得してもらわないことには、
 おさまりがつかないと思います」

太上陰君はご尤もと言ったように頷くと、
化け物を指さして、
「早く元へかえれ」

すると、化け物は体を一転させた。
見ると、雪のように真白な兎が手に長生玉杵を握って、
おとなしそうにはねまわっている。

悟空は喜び勇んで、
太上陰君や娥たちを引き連れて天竺国の上空へきた。
「陛下。ごらんになって下さい。
 お月さまがおいでになりました。
 あなたの王女さまに化けていたのは、
 お月さまの白兎だったのです」

八戒は美しい天女たちの姿を見ると、
ヒューヒューと口笛を鳴らして、
「よお。お姉さん。昔馴染みのお姉さん。
 今夜どこかへおデイトに行かないかい?」
「こらッ。助平ッたらしい口をきくのはやめろ」

悟空が怒鳴ると、
「いや、ちょっとひやかしただけだよ。
 ああ、お月さまを見ると、
 恋しい昔のことを思い出すなあ」

太上陰君が雲の間にかくれると、
天竺国王は思い出したように涙に暮れながら、
「王女がニセモノであったことはわかりましたが、
 私の娘はどこへ連れて行かれたのです?
 あの娘は生まれてからこの方、
 城門から外へは一歩も出たことがなかったのに……」
「陛下。ご心配になることはございません」
と三蔵が慰めた。
「ここへ来る途中に、
 私は布金寺で偶然に王女さまの声をききました」
「すると、娘は無事なんですか?
 布金寺とはどこにあるのですか?」
「ここからおょそ六十里ほど離れたところにあります」
「じゃ、これからすぐ迎えに行こう」

夜を徹して、
国王の車が布金寺へ向ったことは言うまでもない。

無事、父と娘を会わせた三蔵の一行は、
すぐにも天竺国を発ちたかったが、
どうして国王が手放そう。
五日六日と盛大な宴会が続き、
八戒は毎日、これこそ極楽と至極満足気だったが、
三蔵は日と共に陰欝になる。
遂に国王も永遠に引き留めることの非をさとり、
金銀を山と積んで餞別としたが、
三蔵は一切受けとらず、
来た時と同じ四十五歳の童貞のまま
飄然と西へ向ったのである。

2001-05-04-FRI

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