毎日読む小説「西遊記」 (邱永漢・著) |
第八巻 ああ世も末の巻 第八章 末世の終り |
三 仏教経営学 ところが、山をおりようとすると、 突然、うしろから激しい風が吹き寄せてきた。 「わあッ。大へんだ」 見ると、荷物をゆわえつけた縄が切れて、 せっかくの経典がそのへんにとび散っている。 「ああ」 と三蔵は思わず大きな溜息をついた。 「極楽まで来たといぅのに、 ここにも邪魔立てをする化け物がいるとは!」 沙悟浄は散らばった経典を集めにかかったが、 何気なくパラパラとめくって見て驚いた。 「お師匠さま。大へんです。字が消えています」 悟空が更にもう一冊ひらいて見ると、 これにも字が書いてない。 「みんなひらいてよく調べて見ろ」 八戒が次々とひらいて見たが、 いずれも白紙のままではないか。 「よくよく私も運のない人間だな。 遙々、西方極楽までやってきて、 白紙の経典をつかまされるなんて……」 三蔵が嘆かわしそうに頭をふると、悟空は、 「いわずと知れたこと。 こいつは阿儺と伽葉の二人でワイロを要求したのに、 我々がやらなかったせいだ。 こうなったら、仕方がない。 これからすぐ引きかえして、 釈迦如来にありのままを告げて来よう」 「そうだとも。 地獄の沙汰も金次第というなら話がわかるが、 極楽の沙汰まで金次第じゃやりきれないや」 と八戒が口角泡をとばした。 四人はあわてて廻れ右をすると、 またもとの山門へ戻ってきた。 山門には極楽の住人たちが沢山集まって、 「お経をとりかえに来たのでしょう?」 「その通りでございます」 軽く一礼すると、 三蔵は皆の間を通り抜けて真直ぐ大雄殿の下まで来た。 「お釈迦さま。ひやかしも大概のことにして下さいよ」 悟空が師匠に代って非を鳴らした。 「我々は幾百千の妖魔を払いのけて、 遙々、東土からここまでやって来たのです。 これも如来さまの腕ききのセールスマンの 観音菩薩のコトバを真に受けてのことでございます。 それなのに、白紙の経典をくださるとは、 あんまりではございませんか?」 「アッハハハ。白紙の経典だったのか」 と如来は笑った。 「そうですよ。 紙の統制時代ならともかく、 製紙会社の利利潤が紙のように薄い今の時代に、 白紙のまま下さるなんて人を小馬鹿にしています。 どうしてこんなことになったか、 お釈迦さま、ご存じですか?」 「あの二人がワイロを要求した、 とお前は言いたいのだろう?」 さすがはお釈迦さまだけあって、何でもよく知っている。 「別に私がそうしろと教えたわけではないが、 大分以前に、 ここの比丘や聖憎があのお経を山から持ち出して、 舎衛国の超長老の家で読書会をひらいたことがあった。 その時、もらったお礼が黄金で三斗三升だったが、 そんなに安売りをしちゃ、 あとの販売にさしつかえるといって叱ったことがある。 安売りをすれば流通機構の秩序が乱れ、 そこで生活を立てている連中が飯を食って行けなくなる。 そう思って、ゾッキ本に出すことを厳に戒めた。 そこへお前たちが現われて、 タダでくれと言ったのだから、 白本の方をわたしたのだろう」 「しかし、世の中は流通革命の時代ですよ。 大問屋、中問屋、小問屋の手を経て、 高い中間マージンを稼がれるよりは、 直接、メーカーのところへ来て かけあった方がいいと思えばこそ、 こうして遙々やって来たのではございませんか」 と八戒が経済学の蘊蓄をかたむけて言いかえした。 「なるほど今は流通革命の世の中だ。 しかし、考えてもごらん。 私は全世界何千万人の僧侶たちに 生活の手段をあたえている。 あなたの国の経営者たちの中にも、 私のことを宇宙最大の経営者である と言ってくれている人がある。 もし全世界の人が坊主というブローカーを通さずに、 直接、私と取引するようになったら、 これらの人々をどうやって食わせて行くのだ? まさか坊さんのために 生活扶助料を出すわけにも行くまい」 「いいえ、大丈夫ですよ。 長い間、流通機構が改善されなかったのは、 人々がほかに職業を見つけることが出来ず、 ここを生命線と考えて頑強に抵抗してきたからです。 しかし、今は産業が高度化して、 人手不足が常識となり、ここで働けなければ、 あそこへかわるということが簡単に出来ます。 坊主だって、お釈迦さまのおかげで、 広大な土地を残されているし、 しかも宗教法人ときているから、 お寺の境内で幼椎園をひらいたり、 医者や墓石屋とタイアップしてコンビナートをやっても 全部無税と来ているのです」 「しかし貿易自由化になれば、 外国資本もどんどん入って来る。 一方、技術提携ばやりで、 この極楽でさえも、さながら諸外国の技術的植民地、 年々、特許料として持ち去られる金額だって 天文学的数字にのぼる。 こんな時に、 骨董的価値のある思想を輸出できるのだから、 せめて技術指導料くらいちょうだいしなければ 申しわけないではないか?」 「でも白紙ではノウ・ハウすらもないではないですか?」 「いやいや。そんなことはない」 と釈迦如来は首をふった。 「白紙の経典は白本と俗に言われているが、 本当は無字真経と呼はれている。 無字真経というのは、字の書かれた経典よりも、 もっとずっと値打ちのあるものだ」 「それはまたどうしてでございますか?」 と三蔵がきいた。 「白紙とは、まだ何も書かれていない紙のことだろう。 何も書かれていないということは 何を書いてもよいということであって、 そこに無限の可能性が残さわている。 たとえば、これから始まる人生の如きものだ。 しかし一旦字を書いてしまえば、 もはや字の内容にしばられてしまう。 言ってみれば、有限のノウ・ハウにすぎないわけだ」 「それはそうかも知れませんが、 大唐国皇帝のお求めになられているのは、 現実に役立つノウ・ハウでございます」 「恐らくそうであろう。 それならば、阿儺、伽葉、 有字真経の方を出してあげるがいい」 釈迦如来はすぐに二人の弟子を呼んだ。 「ですが、如来さま。 そのノウ・ハウをいただくには、 いかほどの契約料が必要なのでございましょうか」 おそるおそる三蔵はきいた。 「さきほどおききしたところによると、 安売りはなさりたくないご様子ですが、 生憎なことに私どもは お金を持って来ておらないのでございます」 「いや、お金は要らない」 「でもそんなことをしていただいても よろしいものでしょうか?」 「それというのも、有字真経について、 お前らは既に十分支払いをしてきたからだ」 「と申しますと?」 「そのうちに判明する。 代金はちゃんと受けとっているから 心配するには及ばない」 釈尊がそう言う以上は、 三蔵としてもただただ頭をさげるよりほかない。 二人の弟子に案内されて、再び宝閣へ入った三蔵は、 沙悟浄に命じて これまで托鉢に使用してきた紫金鉢をとり出させた。 「国を出てくる時は多少の用意もしていたのですが、 途中で殆どなくなしてしまいました。 これはさしあげるほどのものではございませんが、 太宗皇帝から私に賜わったもの、どうぞおおさめ下さい」 阿儺はそれを受けとると、俄かに顔をほころはせた。 「おい。ワイロもこう公然となると見あげたものだね?」 ふと後方をふりかえると、 宝閣の司書たちがつつきあっている。 「これは役得というもので、ワイロではないよ。 それに現物給与は所得でないから、 課税の対象にならないぜ」 代わりに伽葉が弁解をした。 「さ、今度こそは間違いがないようにな」 三蔵は弟子たちを督促して 渡されたお経を一冊一冊改めている。 一日がかりでやっと経典の引渡しを受けると、 三蔵は再び如来の前へまかり出た。 「全部でどれだけの経典を渡しました?」 と如来がきいた。 「ハイ。唐朝に度した経典の明細は次の通りでございます」 と伽葉は目録をとり出して読みあげた。 煩瑣をいとわず、ここへ書き出すと次の通りである。 涅槃経 四百巻 恩意経大業 四十巻 礼真如経 三十巻 首楞厳経 三十巻 華厳経 八十一巻 大光明経 五十巻 金剛経 一巻 菩薩戒経 六十巻 伽経 三十巻 仏国雑経 一千六百三十八巻 木閣経 五十六巻 具舎論経 十巻 三論別経 四十二巻 五竜経 二十巻 虚空蔵経 二十巻 宝蔵経 二十巻 菩薩経 三百六十巻 決定経 四十巻 大般若経 六百巻 維摩経 三十巻 仏本行経 一百一十六巻 摩竭経 一百四十巻 西天論経 三十巻 大智度経 九十巻 大孔雀経 十四巻 未曽有経 五百五十巻 正法論経 二十巻 大集経 三十巻 法華経 十巻 僧祇経 一百一十巻 宝威経 一百四十巻 維識論経 十巻 宝常経 一百七十巻 起信論経 五十巻 正律文経 十巻 以上三十五部、合計五千零四十八巻である。 釈迦如来は、報告を受けると、 「本来ならば、版権を要求するところであるが、 南瞻部洲へかえったら、 出来るだけPRをして 多くの人が仏の気持になるように努力してもらいたい。 仏の気持とは、たとえは、 取引先にワイロを要求する部下でも 私が寛大に取扱って 飯にありつくようにしてやっているように、 寛恕の精神をもって 出来るだけ多くの人に職をあたえてやることだ。 およそ世の中のためになることをやって、 自分が栄えないということはないのだから……」 三蔵が感謝の意を表して山門を辞すると、 入れ代わりに観音菩薩が入ってきた。 「とうとううまく行きましたね。 十四年もかかって生命がけでやってきたのですよ」 「これもお前のおかげだ。 セールスなくして事業なしというけれど、 お前こそ第一級のセールスマンだ」 「なあに。 同じ売り込みをするにしても、 向うから代理店をやりたいと希望するように 仕むけるだけのことですよ。 これで大唐国にも 我が仏教の強大な現地法人が出来たのですから、 国際銘柄としての仏教の株価は ますますあがるようになるでしょう」 二人は顔を見合わせて大笑いをしたことである。 |
2001-05-11-FRI
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