オトナな会話(仮)
さくらももこ×糸井重里の対談です。

その12
欽ちゃんも不本意だった。


糸井 欽ちゃんがね、あんだけ大活躍してた時代に、
ぜんぶの仕事は不本意だったと。
さくら 私がそこまで言っちゃうと
なんなんですけど、
それも、わかります(笑)。
糸井 これがやりたくてやりたくて
しょうがないことをやった憶えはない、
っていうんですよ。
引き受けたんだけど、難しい、困難だ、
これは良くない、
どうやったら良くなるだろう? と思って、
ジタバタしてた結果が、あれらしいんですよ。
さくら うんうん。じゃあ、今は?
糸井 今、欽ちゃんは野球ですよ。
あんまり元気のない状態で、
去年、僕は会ってるんだけど、
いちばんやりたいのは
野球だって言っていたんですよ。
で、ほんとになっちゃった。
もう、いま会うとね、ピッコピコですよ。
活き活きしちゃったんですよ。
さくら はははははは。良かったですよね、欽ちゃんも。
糸井 欽ちゃんって、“100%男”ですよ。
視聴率100%採ってたんですよ。
さくら え? あのとき?
糸井 欽ちゃんがやってた番組の視聴率って、
1週間ぶん足し算すると、
毎週100%だったんですよ。
さくら ほんとぉ。すごいですねぇ。
糸井 今、いないですよ、そんな人。
さくら そうですよね。毎日やってましたからね、
欽ちゃんの番組。
糸井 それが、それが、
不本意だったっていうんですよ。
さくら すごくおこがましいけど‥‥わかります。
糸井 ももちゃんだってね、
あのころも楽しかったんだけど、
今のほうが楽しいっていう
感じがあるんだものね。
さくら そうそうそうそうそう。
ぬるいんですよ、今、ぜんぜん。
前と比べたら。
でもさぁ、いいじゃないですか、
それで。ねぇ?
糸井 年齢のこともあるのかもね。
さくら やるだけやったし、っていう感じあるし。
毎週脚本描いてたんですよ、10年近く。
糸井 あれ、どっかから脚本を人に渡したの?
さくら そうです。やめるって言って。
糸井 それは、度胸いった?
さくら もうね、もういいや、と思ったんです。
まる子とコジコジ、月2本マンガも描いて、
毎週脚本も書いて、
ほかの仕事まであったりして、
っていうふうになってると、
もう、仕事をするしかない
人生じゃないですか。
そんなの、べつに望んでたわけじゃないな、
っていうふうにずっと思ってて。
それで、これは脚本をやめないと、
どうしようもなかった。
毎週、原稿用紙30枚くらいずつ
起承転結ある話を書かなきゃいけないって、
やっぱり大変なんです。
それよりも、
自分の人生をもう少し楽しみたいと思って。
他のマンガ家は、
べつに脚本まで書いてないんですよ。
私はそれまで、すごくこだわってたんです。
自分の作品の笑いというものは、
テレビになっても自分で、みたいな感じで。
でも、今までこれだけ書いたし、
やるだけやったし、
これからは脚本家の人に、
おまかせしようと思って。
やめるって言ったときは、
脚本家さんを探すのとか
大変だったみたいですけど。
でも、なんとか脚本家さん達も
がんばってくれて、
アニメのスタッフの皆さんもがんばってくれて
無事に放送が続いているのでよかったです。
糸井 そうですね。
さくら そしたらだいぶ楽になって。
じゃあ『富士山』で
(さくらさんが編集した雑誌)
取材とかをいろいろやる仕事も
やってみたんです。
糸井 『富士山』って、何回出したの?
さくら 5冊出しました。
そのうち4冊は、1年間で出したんです。
マンガ描いて、企画をぜんぶ考えて、
すべて取材に行って、
インタビューもして、
記事を書いて、
作家としてのひとつの限界に
挑戦してみたかったのだと思います。
糸井 余ってるエネルギーだね。
さくら そんなことやる人いなかったんで、
新潮社の人も、
「えーっ、全部ですか?!」って。
糸井 無理ですよ、みたいな(笑)?
さくら そうそうそう。
でも、さくらさんがやるって言うんだったら、
どうぞ、みたいな感じで(笑)。
じゃあやるか! って言って、
ほんとにやって。
それを、1冊出すだけでも
すごく大変なのに、1年で4冊。
年に4冊もっていったらもう、
いよいよ誰もできないかもな‥‥と
思ったりしたんですけど、
そういう、自分しかできないことを
やりたかったんです。
で、すごく大変だった、
もう嫌だなと思っていたんだけど、
どうしても読みたいっていうご声援をいただき、
もう1回だけ出したんです。

『富士山』ってそうだったんだ!
とっても楽しい雑誌だったんだよ。
明日につづきます!
2005-05-24-TUE
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